『火垂るの墓』未完成版で公開の“秘話” 鈴木敏夫氏が語る高畑勲監督との40年

2018年5月21日

『火垂るの墓』未完成版で公開の“秘話” 鈴木敏夫氏が語る高畑勲監督との40年

鈴木敏夫氏(左)と高畑勲監督

1978年、雑誌『アニメージュ』の編集者だった鈴木敏夫は、取材を依頼するため初めて高畑勲と電話で話した。以来二人の付き合いは40年に及ぶ。映画作りのパートナーとしての初仕事は『風の谷のナウシカ』(1984年)。この作品で高畑はプロデューサーを務めている。

「高畑さんは、プロデューサーとは何かを教えてくれた。一番印象に残っているのは“プロデューサーの仕事は、監督を守ることだ”と言われたことです。映画を作るとき、監督は独りでいろんなものを背負わなくてはいけない。スタッフがみんな、その味方になってくれるかと言ったら、そんな簡単なものではないんです。そんなときプロデューサーは、監督のやろうとすることを、自分の意に沿わなくても守ると。スタジオジブリの場合は高畑さんと宮さん(宮崎駿)中心で映画を作るわけですから、一種の作家主義です。その中でプロデューサーの僕にできることと言えば、話し相手になることですね。高畑さんと映画を作るときには、四六時中話していましたよ」

最後まで『平家物語』をやりたいと言っていた

プロデューサー・鈴木敏夫、監督・高畑勲というコンビネーションは『火垂るの墓』(1988年)に始まる。高畑との仕事で、鈴木が思い出深いのは二つのことだという。

「一つは企画なんです。高畑さんは、自分からこれをやりたいと言って作った作品がなかった。普通の監督は、これがやりたいあれがやりたいというでしょう。でも高畑さんは自分をジブリの座付作者だと思っていて、監督は依頼されてやるものだと思っていました。ではやりたいものがなかったのかと言えばそうではなくて、最後まで『平家物語』をやりたいと言っていたし、宮沢賢治のものもやりたいと言っていました。でも自分から率先してこの企画をやろうというのは、なかった人でした。もう一つは、公開日に間に合わせて映画を作ったことが、ついに一度もなかったんです。これは毎回戦いでしたね」

『火垂るの墓』原作を読んで“やる”と言った

左から宮崎駿監督、鈴木敏夫氏、高畑勲監督

ここから各作品について、企画と公開日に間に合わせるための戦いを振り返っていこう。

「『火垂るの墓』は、最初に徳間書店で僕の上司だった尾形英夫が“日本が戦争に負けて、大人たちが自信を失っている中で、子供たちだけ元気だった。そんな映画を作ってください”と高畑さんに提案したんです。高畑さんはそのテーマに合う本を探してきたんですが上手くいかなくて、僕が『火垂るの墓』はどうですかと言いました。高畑さんは原作を読んで、やると言いました。高畑さんが言うには、人が生きていく上で大事なのは衣食住であると。ここに出てくる兄妹は、衣と住に関しては何とかなる。問題は食べることで、それで苦労するということを上手に出せたら一本の映画になって、今の若者も観たくなるものになる可能性があるんじゃないかと」

「また作り始めてから、この兄妹は邪険にされてもおばさんの家で我慢すれば、そのまま生きていけたはずだ。それを自ら飛び出て居場所を見つけ、食料を何とかしようとする。そこが今の観客に通じるわがままさだと。そうなると、彼らを待つ悲惨な結末は予測できるわけですよね。それは言ってみれば、浄瑠璃の道行だと高畑さんは思っていました。だから映画のポスターは真っ暗な舞台の中で清太が節子を背負った絵柄でしょう。近松門左衛門ものの雰囲気から、あんな絵柄になったんです」

未完成での公開を決めた、あの日

『火垂るの墓』は制作が間に合わず、初日には未完成版を公開している。

「完成していない作品を世に出すのは、僕としては辛い話でした。間に合わないからどうするんだとなった時に、高畑さんは3日間会社に来なかった。これには参って僕がお宅に電話したらね。奥様が出られて、大泉にある喫茶店で待っていてほしいと。それで喫茶店に入ったのが昼12時。高畑さんが現れたのは夜の8時でした。それでいきなり、ポール・グリモー監督の『やぶにらみの暴君』(1953年)の話を始めました。あの映画は制作に時間がかかり過ぎ、製作者は資金を回収するために未完成のまま公開しようとした。これに反対するグリモー監督との間で裁判沙汰になったんです。裁判所の裁定は、資金を回収したい製作者の言い分も、監督の未完成版を世に出すのは嫌だという言い分も分かる。だからその経緯を映画の冒頭に文章で出して、公開したらどうですかと。それに両者は従ったんです」

「高畑さんは“そういうことをやってもらえませんか”というんです。でも僕は“できません”と言いました。そうしたら高畑さんはその案にこだわらず、このまま公開すると2カ所色塗りできないところが出てくると言いました。後はその状態での公開を僕がOKするかどうか。僕は公開が大事ですから、“それでいきましょう”と言いました。未完成での公開を決めた、あの日のことは忘れられません」

インタビューの続きは『キネマ旬報』6月上旬特別号に掲載。今号では、“追悼 映画監督・高畑勲”という特集を表紙・巻頭で行った。鈴木敏夫のほか、小田部羊一、西村義明、マルセル・ジャン、富野由悠季のインタビュー、安彦良和、片渕須直、大林宣彦、岩井俊二、叶精二による寄稿を掲載している。(敬称略)

鈴木敏夫(すずき・としお)/1948年生まれ、愛知県出身。72年、慶應義塾大学卒業後、徳間書店に入社。『アニメージュ』副編集長・編集長時代に「風の谷のナウシカ」「火垂るの墓」など一連の高畑勲・宮崎駿作品の製作にかかわる。85年にスタジオジブリの設立に参加、89年から専従に。以後、ジブリ作品のプロデューサーとして活躍。高畑監督作品では「おもひでぽろぽろ」「平成狸合戦ぽんぽこ」「ホーホケキョ となりの山田くん」でプロデューサー、「かぐや姫の物語」で企画をつとめる。『キネマ旬報』で「新・映画道楽」連載中。

取材・構成=金澤誠/制作:キネマ旬報社

インタビューの続きや『キネマ旬報』6月上旬特別号の“追悼 映画監督・高畑勲”表紙・巻頭特集の詳細はこちらから↓