23歳で芥川賞を受賞した「日蝕』でのデビュー以来、数々の話題作を送り出してきた小説家・平野啓一郎。彼が2018年に放ち、累計25万部を超えるベストセラー『ある男』がついに映画になった。監督は「愚行録」(17)、「蜜蜂と遠雷」(19)などで世界が注目する石川慶。映像化困難といわれてきた物語を、日本映画界屈指のオールスターキャストで鮮やかにスクリーンに描き出してみせる。
メインキャストを務めるのは、「愚行録」(17)、WOWOWドラマ『イノセント・デイズ』(18)に続いての石川慶監督作品への主演となる妻夫木聡、カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作「万引き家族」(18)以来の本格的な映画出演となった安藤サクラ、クライムアクション「初恋」(19)などさまざまな作品で活躍する窪田正孝。3人の実力者たちが絶妙のバランスを保つことで、ひと筋縄では済まないミステリアスな物語を成立させている。愛する夫(窪田)が事故死を遂げ、夫の名前と経歴は偽りのものだったと知る妻(安藤)。依頼を受けて、彼の過去を追い、社会の闇に触れることになる弁護士(妻夫木)。映画化が容易ではないこの物語に、3人のキャストは、どう向き合ったのだろうか。
取材・構成=長野辰次 撮影=近藤誠司
◆3人とも、それぞれに大変な役
──まず、「ある男」という物語に触れたときの感想を聞かせてください。
妻夫木 「自分とは何者か?」というテーマは、人生において、誰もが考えるものだと思います。そんな答えの出ない問いに、あえて泥沼にハマるように向かっていく製作陣の心意気に、まず感銘を受けました。石川慶監督とは「愚行録」(17)からの付き合いですが、「愚行録」もアイデンティティの問題が絡んでいました。今回の「ある男」はまさにアイデンティティそのものがテーマなので、映画としてさらにどこまで踏み込んでいくのかが、原作を読んだ際に気になったところです。でも、向井康介さんの脚本が上がってきたときは驚きました。ちゃんとテーマを描きながら、エンタメ性をもたせたものになっていたんです。だから、後は役者としてどう登場人物たちに「生」をもたらして、物語を膨らませていけるのかが楽しみな現場でしたね。
安藤 原作が、私としては、かなりボリュームのあるものだったので、深く読み込むのは簡単ではありませんでした。いつもはしないんですが、今回は原作本も現場に持ち込みました。というのも、私が演じる谷口里枝は物語のところどころに登場する役だったので、全体の流れを確認するために、参考書代わりに原作を読み直していたんです。でも、撮り終わった今でも、まだ自分には課題が残されているような思いが残っています。里枝としてどう演じるのが正解だったのか、今も分からない気がして……。石川監督と、いろいろ話をしてみたいと思っています。
窪田 今回は3人とも、それぞれに大変な役だったと思います。「自分は一体何者なのか」ということは誰しも座標として持っていると思うんです。でも、その座標は人によって、まったく違う。自分が生きてきた中で、何が楽しくて、何が嫌だったのかということを突き詰めて考えていくのは、難しいことです。悩みながらも、人生は続いていくわけですし。人間の根幹部分を問いかけてくる作品だなと原作を読んで感じました。
◆演じることで、その存在を救う
──窪田さん演じる谷口大祐は、妻の里枝が知らない人生を歩んできた謎めいた男です。一方で、妻夫木さん演じる城戸は弁護士で家庭や仕事に恵まれています。それでいて、〈ある男〉=Xの人生に惹かれていく……。妻夫木さんは城戸という人物に対し、何か共感する部分はありましたか?
妻夫木 僕はあまり役と自分を重ねるタイフではないかもしれません。今回も撮影中は意識して役と自分を重ねようとは考えなかったです。むしろ、自分のことはできるだけ排除するようにしていました。というのも、城戸という男は物語のストーリーテラー的な役割を担っているので、自分と役は重ね合わせないほうがいいだろうと考えたんです。あくまでも物語の中で、どう生きて、それをどう見せるかに重点を置くようにしました。「城戸はこんな男だ」とキャラクターを作り上げることはせず、城戸にはいろんな面があり、そのすべてを僕が認めてあげることが大事じゃないかと。Xの存在に執着していく城戸が、それまでの自分と異なる人生を求めていたのかどうかは、僕には分かりません。人間は誰しもが変身願望を持っているとは思うんですが、城戸の願望がそれほど強いものかどうかは定かではないです。
安藤 私が演じた里枝は、子供を病気で失い、実家に戻って父親もすぐに亡くなり、再婚した夫は名前も分からないまったくの別人という、想像を絶する体験をします。実は「万引き家族」(18)の後、仕事を抑え、子供を中心とした生活を送っていたので、久々の映画出演には勇気が要りました。でも、向井さんが書かれた脚本を読み、里枝をかわいそうな女性にはしたくないなと思ったんです。自分が演じることで、変えられないかなと。そのことにチャレンジしてみたくなったんです。
──安藤さん演じる里枝が毅然とした生き方をしていることで、アイデンティティに不安を抱える登場人物がたくさん出てくるこの物語に一本の筋が通っているように感じました。
安藤 演じてる私はウネウネしてばかりですが(笑)、里枝としてしっかりしなくちゃと思いました。役づくりする際はいつも下着選びから始めます。普段の私はワイヤーの入ってないブラジャーを使っているんですが、里枝はいつもちゃんとしているイメージなので、ワイヤー入りのブラジャーで現場に入りました。といっても、私が選んでいるのは下着だけで、ほかの衣裳はすべてお任せなんですけど(笑)。
窪田 大祐が里枝や子供たちと一緒に過ごす家族団樂のシーンは、演じていて僕もすごく楽しかったです。子役たちもすごくいい子だった。
安藤 〈ある男〉にとって、唯一の幸せなシーンだよね(笑)。
窪田 僕が演じた大祐=〈ある男〉はとにかくグレーゾーンが多く、なるべく自分を出さないよう、ひとつひとつの芝居に意味をもたせないように心掛けました。里枝と出会い、家庭を築き、幸せの中にいながら突然煙のように消え、喪失感だけを残していく。〈ある男〉の正体を僕は極力見せないようにし、城戸と里枝に正体を突き止めてもらうというイメージで演じていました。演じながら、異物というか、怪物みたいなものが常に潜んでいるような感覚でしたね。幸せな家庭のシーンも、バーのシーンも、どこかに獣が隠れているような怖さがある。それは人の中に潜む狂気なのかも知れない。でも、この映画はそれを剥き出しにしているように思うんです。それを映像でどう表現するかは、石川監督もすごく悩まれていたみたいで、現場で「分からないんだけど、もう1回!」と言われて、撮り直すことが多かったですね。
◆ボクシングでのつながり
──ところで、妻夫木さんは今回の「ある男」の撮影がきっかけで、ボクシングジムに通うようになったそうですね。
妻夫木 はい。僕はボクシングジムを覗くだけのシーンでしたが、以前からボクシングはやってみたかったので、この機会にと思い、始めました。窪田くんと同じジムに通っているんですが、まだ一度しか一緒になっていないよね?
窪田 何度かニアミスはしていますが、一緒になったのは一度だけですね。「ある男」にボクシング監修で人っている松浦慎一郎さんに、僕も妻夫木さんも、パーソナルトレーナーになってもらっているんです。
妻夫木 僕らよりも、サクラちゃんのご主人(柄本佑)のほうがボクシング歴はずっと長いんですよ。
安藤 お二人と同じ、松浦さんがトレーナーになってくれているんです。夫がいつもお世話になっています(笑)。
──窪田さんがボクシングシーンを演じるのは「初恋」(19)以来?
窪田 そうですね。やはりトレーニングは続けていないと、プロが見るとおかしなものに映ってしまうので、撮影の1~2カ月前からジムに通うようにしました。試合のシーンもありましたが、映画で使われているのはごく一部だけです。石川監督は大幅にカットしてしまったことを謝っていましたが、僕はむしろ映画的にはよかったと思っています。ボクシングシーンが長いと、〈ある男〉のイメージが偏ったものになってしまいますから。試合を見せることよりも、〈ある男〉がなぜボクシングをやっていたのかを観客に伝えることが大切だったと思うので。
◆撮影することで見えてくるもの
──「愚行録」をはじめ、これまでの石川慶監督作品では、ポーランド出身の撮影監督ピオトル・ニエミイスキによる深みのある映像が印象的でした。今回の撮影は、「万引き家族」などで知られる近藤龍人キャメラマンですが、現場で何か違いは感じましたか?
妻夫木 ピオトルから近藤さんになったことで、温度感は変わったように思います。石川監督は以前から長回しを多用していましたが、今回近藤さんと組んで、より多くなったと感じました。それが映画にすごく生きている。あと、脚本は説明っぼくなるのを避けるために、セリフをかなり削ぎ落しているんですが、近藤さんの撮影はそれを補っていたんじゃないかな。たとえば、サクラちゃんたちが演じた母子の絆は実際に演じて、撮影したことで見えてきたものでした。ピオトルは独白の素晴らしい映像世界の持ち主ですが、今回の作品は近藤さんが日本語のセリフに応じて、登場人物たちの感情を読み取りながらキャメラを回していたので、より登場人物の心情にも、観客の心情にも寄り添ったものになっているように思いますね。
安藤 あの文具店で里枝が涙を流すシーンは大変でした。私、ピンポイントでタイミングよく泣いたりできないんです。「涙を流す」と脚本に書かれてあると、本番が心配で動悸がするくらい(笑)。涙が出るように、ずっと瞬きしないようにしたりしてました。
妻夫木 それじゃあ、怖い顔になっちゃうよ(笑)。
安藤 あの涙を流すシーン、初日のいちばん最初の撮影だったんです。石川監督からは「ペンを手にした瞬間に、涙を流してほしい」と言われて。背中からホースを回して、水が流れる機械はないかなと真剣に相談したぐらいです。この場を借りて、涙を流すシーンはとても難しいことをみなさんにお伝えしたいと思います(笑)。
──あのシーンの裏にそんな苦労があったとは驚きです。
窪田 石川監督はテストからしっかりやり、テイクを何回も重ねますよね。
妻夫木 テストは技術的なチェックをした後、演技を確認するためにもう一度やるタイプ。
安藤 同時にチェックする監督もいるけど、別々にしないと納得できないんですね。
妻夫木 石川監督はデビュー作の「愚行録」からすでにテイク数が多かったんですよ。たぶん自分の思い描くイメージに忠実というか、愚直なタイプなんだと思います。ほかの監督が5回くらいのテイクで終わるカットも、石川監督は15回くらいテイクを重ねる。それに、撮り直すときに何も言わずに「もう1回!」と言えばいいのに、なんとか役者にリテイクの理由を説明しようとして、うまくいかなかったり(苦笑)。
安藤 そう言えば、泣くシーンを撮り直すときに、監督に「本物じゃない」ってダメ出しされましたよ。私は時間をかけて、何度も撮るのが好きなので楽しかったですけど、直後は落ち込みました……。
──皆さんの苦労が実った作品になっていると思います。
妻夫木 結局、映画や俳優の可能性を信じている人なんですよ、石川監督は。脚本どおりに撮ればいいやではなく、脚本以上にいいものを撮りたいと常に考えている。役者にもっといけると可能性を感じるから、どこまでもねばるし、決して器用にはなれない。これからもこのスタイルで撮り続けていくと思いますよ。
窪田 確かにそんな気がします。
安藤 言葉は選んでほしいけど、愛おしい監督です(笑)。
──本日はありがとうございました。
「ある男」
2022年・日本・2時間1分
監督・編集:石川慶 原作:平野啓一郎 脚本:向井康介 撮影:近藤龍人 照明:宗賢次郎 美術:我妻弘之 音楽:Cicada
出演:妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝、清野菜名、眞島秀和、小籔千豊、坂元愛登、山口美也子、きたろう、カトウシンスケ、河合優実、でんでん、仲野太賀、真木よう子、柄本明
配給:松竹 ◎11月18日(金)より全国にて公開中
(C)2022「ある男」製作委員会