ぼくが生きてる、ふたつの世界の映画専門家レビュー一覧
ぼくが生きてる、ふたつの世界
五十嵐大の自伝的エッセイを呉美保が映画化したヒューマンドラマ。耳のきこえない両親の下で育った五十嵐大。幼い頃から日常的に母の“通訳”をしてきたが、次第に周りから特別視されることに苛立つようになり、20歳になった大は、逃げるように東京へ……。主演は「キングダム 大将軍の帰還」の吉沢亮、主人公の両親役には、ともにろう者俳優として活躍する忍足亜希子、今井彰人が起用されている。
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文筆家
和泉萌香
赤ん坊を世話する若い母を見つめた光景や、学校で手話を友人に見せてみせる少年の顔など、日常に溶け込み繊細に主人公の成長を追う前半部分に比べると、どうしても成人後の彼の心の揺れ動きは粗い印象が。気になったのは想像以上に、物語内に父が不在で、働きに出ている彼、家にいる母、マッチョな祖父に耐える祖母と、世代の差、男と女、そういったさまざまな二つの世界の重なり合いも自然と浮き彫りになっている。とはいえ、小さく遠ざかっていく母の背中などはやはりほろりとする。
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フランス文学者
谷昌親
自身もコーダである五十嵐大の自伝的エッセイの映画化である。当然ながら、宮城県の小さな港町に住む聴者の少年が、聾者である母親との関係に戸惑うようになる映画の前半がむしろ重要だし、そもそも呉美保は、地方での家族のあり方を描くのに手腕を発揮する監督でもある。だが、この作品では、主人公の大が乗った列車がトンネルを抜け、東京へと向かうことでむしろ映画が動き出す。つまるところ、少年から大人への旅立ちとして成立している物語が、強みでもあり、弱みでもある作品なのだ。
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映画評論家
吉田広明
両親が「普通」ではないとの気づきから、色眼鏡で見られることへの反発、コーダとしてではない自分の希求へと、主人公のアイデンティティをめぐる葛藤が淡々と時系列に沿って描かれるだけに、初めて時間軸が揺らぐラスト、過去の母親の後ろ姿に、コーダであることも含めて自分なのだと自己肯定に至り、記憶が溢れ出して両親と同じ音のない世界を体感する部分が生きる。奇を衒った表現もなければ、大事件も起こりはしないが、一個の人間の等身大の大きさを確かに感じさせる。
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