映画専門家レビュー一覧

  • エリカ38

    • 映画評論家

      松崎健夫

      エリカに騙された人々の証言を取材する記者。彼の立場は観客の視点を代弁している。その謎解き的な構成は「市民ケーン」と同様の構成を想起させるものだ。ひとつのフレームの中に、ふたつの情報を映り込ませることで、表裏のメタファーとなるスタンダードサイズを基本とした画面構成。また、暗部でゆらめく?燭の炎やスローモーションを用いることで、登場人物の内面を映像に反映させている。意図された画作りは浅田美代子が演じるエリカという人物の不透明さを際立たせているのだ。

  • クローゼットに閉じこめられた僕の奇想天外な旅

    • 批評家、映像作家

      金子遊

      四年前に書籍『国境を超える現代ヨーロッパ映画250』を共編で刊行した。ヨーロッパ映画のなかの移民、難民、マイノリティに光を当てるのが目的だった。本作のインド人青年もパリで恋に落ち、スペインの空港で不法移民として拘留され、リビアの難民施設に放りこまれる。ひと味違うのは、ついにヨーロッパ映画がボリウッドを模倣して、歌あり踊りありのミュージカル場面が入ったり、底抜けに明るいところだ。停滞するヨーロッパ映画には、文化的多様性に進む道しか残されていまい。

    • 映画評論家

      きさらぎ尚

      ありえないエピソードを力技で物語にしてしまうのが監督ケン・スコットの特徴だとすれば、この映画はまことに監督らしい。大手家具店のクローゼットに入り込んだ主人公が、その家具と一緒に各国を旅するのだから。途中の出来事や出会いなど、ハプニングやアクシデントで繋いだストーリーは、まるで幸せになるための人生双六のようだ。中でもトレビの泉(伊)は名作のシーンを思い出したりして楽しいし、駒を進めて「あがり」で主人公は幸せを見つけるが、終始ドタバタが過ぎて虚しい。

    • 映画系文筆業

      奈々村久生

      ファンタジーとリアリティのさじ加減がやや中途半端。貧困や難民問題など深刻なトピックをちりばめつつ、それらは常に笑いと表裏一体で描かれるが、主人公の冒険のスパイスにしては重くしたいのか軽くしたいのか方向性が行方不明。芝居の演出にもそれは通じており、瞬間的な面白さはあっても、全体を貫くものがないのでコメディとして気持ちよく笑えない。よって役者陣も与えられた役割を器用にこなしている印象を拭えない。嘘をつくなら徹底的に、その覚悟がないなら潔く丸腰で。

  • The Crossing ザ・クロッシング PartI

    • 翻訳家

      篠儀直子

      登場人物の掘り下げがなく、ありきたりのメロドラマの型をなぞる何の味もしないストーリーが進んでいくだけで、映像の華麗さはひたすら空虚さを呼びこんでしまい、これでは誰も後篇を観たくならないのではと心配になる。とはいえ、路上で雪空を見上げるチャン・ツィイーからパーティー会場へとつながる、魔法のような移動ショットは必見レベル。抗日戦争も国共内戦も「敵の顔が見える」描写になっていることと、戦争と階級の問題がからんでいることは、独自の目線が感じられて面白い。

    • 映画監督

      内藤誠

      中国国共内戦を描く物語は毛沢東側から見るものが多かったので、敗者の視点から見るこの作品には期待。ジョン・ウーの演出だけあって、戦争スペクタクルの表現は充分だが、三組の男女のメロドラマの方は映像の美しさに頼りすぎて、内容的にはもの足りない。まずメインのホアン・シャオミンが演じる国民党の将校と銀行の礼嬢ソン・ヘギョとの上海の舞踏会でのめぐり合いはいいとして、彼女が台湾へ逃げていく過程は上流階級の物欲や要領のよさがきれい事すぎる。岩代太郎の音楽が効果的だ。

    • ライター

      平田裕介

      悪く言えば何から何まで大仰、よく言えばとめどなくクラシカル。そしてメロメロを極めたメロドラマなのだが、それがジョン・ウーならではの語り口にビシッとハマっている。彼の作品に夢中になった身としては「マンハント」でも感じたことだが、スロー&ストップモーション、子供の合唱、ヒネった形で登場する鳩といったウーのイズムが健在なのが嬉しい限り。ただし、前篇は戦闘シーンをクライマックスに持ってきているが物語に盛り上がりはなく、キャラ群と相関の紹介に終わっている。

  • メモリーズ・オブ・サマー

    • ライター

      石村加奈

      雨上がりの路面に映る、母子の後ろ姿。儚いファーストシーンに魅せられる。アダム・シコラのカメラワークは抒情的だ(一家で出かけた遊園地のシーンも素晴らしい)。冒頭で気になった少年の唇の傷は、心の傷の表層に過ぎぬ。澄んだ瞳で見つめ続けた、母親の裏切りや大人のずるさに絶望し、目を背けていく様が淡々と、しかし切々と描かれていく。ラストシーンの少年の眼差し、彼が出した確固たる結論に、胸を衝かれる。石切場の池やアンナ・ヤンタルの流行歌等も作品世界を豊かに彩る。

    • 映像演出、映画評論

      荻野洋一

      幼年期の終わり、ママとの揺籃的関係の終わりをこれほど馬鹿正直に撮った例を知らない。日本では寺山修司、木下惠介あたりが思い浮かぶが、本作ほど率直ではなかった。揺籃的、口唇的を通り越し、近親相姦愛からの裏切りと嫉妬なのだ。共産主義体制真っ只中の七〇年代ポーランド。暑さを感じさせない冷感症的で乾いた夏のありようが物悲しい。ママに棄てられた少年は、幻滅・汚穢の共有を通じてママと同一的存在たらんとする。冒頭の踏切シーンがすでにそれを直截に物語る。

    • 脚本家

      北里宇一郎

      母が母でなくなり女となった。それを止めようとしても、どうしていいかわからない。12才男子のもがきがひりひり胸を打って。ポーランドの夏、田舎町。あふれかえる緑のみずみずしさがかえって母と子の孤独と哀しみを際立たせる。北欧の夏は短い。それが少年期のはかなさと、母が女であることにしがみついた、その一瞬の炎の燃え尽きを匂わせる。佳品。だけどもう一歩踏み込んで、早すぎる通過儀礼を経た主人公が、この先女性に対してどう向き合うか。その絶望の果ての夢想が見たかった。

  • 誰もがそれを知っている

    • 批評家、映像作家

      金子遊

      アスガー・ファルハディは国際的に評価の高い監督だが、「彼女が消えた浜辺」でも「別離」でも、ウェルメイド作品をつくれる職人だと感心していた。練りこまれた脚本で、フレームにきっちりと俳優の演技をおさめて、観客の感情を手玉にとるようにコントロールする演出と物語展開。イラン社会の特殊性に根ざすテーマ性とドラマツルギーなのかと思っていたが、スペインに舞台を移しても高品質のドラマは変わらない。男性俳優陣のヒゲの濃さにだけ、イランらしさが残っているかも。

    • 映画評論家

      きさらぎ尚

      主題は誘拐事件だが描かれているのは家族問題。というわけで事件と問題はどこで結びつくのだろう――ファルハディ監督の前作「セールスマン」もそうだった――と思いながら見られること、見終わってじわじわくることとがこの監督の特徴的作風だ。事件を解明する過程で浮き彫りになる家族関係や誘拐された娘の母ラウラと幼馴染パコの過去。演じているのが実の夫婦なので何らかのオチがあると思っていたら、やはり。そして娯楽性が前面に。これはこれで面白いが、よき特徴が少し薄い。

    • 映画系文筆業

      奈々村久生

      ペネロペとハビエルが夫婦共演。しかも脚本はアテ書き。と言っても夫婦役ではない、というのが騙されたような。血縁や身近な関係が顔を揃えたときにその闇が暴かれるドラマ自体は目新しいものではないが、映画の枠組みを超えた先述の事実が思いのほかトリッキーで混乱を招く。通常役と役者本人の人生は必ずしも一致しないが、本作においては二人が実生活で夫婦であることをふまえて観ると説得力が生々しい。それをねらったであろう監督のファルハディは相変わらず計算高く意地が悪い。

  • 長いお別れ

    • 評論家

      上野昻志

      冒頭の、遊園地のメリーゴーラウンドの前に傘を持って現れたときの、山??努の顔にドキッとさせられたが、それは、認知症がかなり進んだ段階でのことだとあとでわかる。この辺の病気の進行具合を時間軸で切っているのだが、山??努が、それを肉体的な表現として見せたのはさすがだ。そんな彼に対して、常に変わらぬのが松原智恵子演じる妻、男との関係で変わるのが蒼井優扮する次女と、孫との関係も含め、印象的な場面はあるのだが、時間を明示する以外のやり方はなかったのか、とも思う。

    • 映画評論家

      上島春彦

      試写の前日偶然、前頭側頭型認知症という言葉をETVで聞いていたので理解もスムーズにいった。このタイプの認知症はボケない。頭は別な回路でクリアになる。だから障害はコミュニケーションの阻害に現れる。思えばこの映画の登場人物は皆、頭は良いのだがそっち方面に問題あり。長い年月で各自そこを解決していくという手順が楽しい。要するにお父さん山??努は導きの天使みたいなものだ。お母さん松原智恵子の好演も特筆すべき。ずっと下を向いたままで怒る、という場面に爆笑した。

    • 映画評論家

      吉田伊知郎

      山??努と蒼井優が互角に演技をぶつけ合う姿を観られたので満足だが、良くも悪くも松竹映画か山田組かと思う瞬間もしばしば。若者の側から観た老いや死なので、老人側の視点に立つと違和感を持つのも当然か。竹内がアメリカ暮らしに慣れないといっても、どうかと思うほどぎこちない暮らしをしていたり、妻の松原はもうちょっと注意深く山??を見ておけよと思えるあたりや、メリーゴーラウンドでの見知らぬ幼女の扱いなど、見せ場のための作為性に引っかかるのは監督の前作と同じ。

  • さよならくちびる

    • 映画評論家

      北川れい子

      「月光の囁き」「害虫」など、塩田監督の初期作品には、ヒリヒリするような甘美な痛みがあり、クセになるほど面白かったものだが、今回はその痛みに寛容さと共存が加わって、その変化が小気味いい。音楽で結ばれた娘同士とマネージャーの若者。決してナマ臭い関係にはならない故に、思いのすれ違いが不協和音を招き……。孤独と沈黙の行動がステージ上の演奏をリアルにして、歌も自然体。ロードムービー仕立てなのも浮遊感となっている。2人の女優が素晴らしく、成田凌もいい。

    • 映画文筆系フリーライター、退役映写技師

      千浦僚

      常套が意識もさせぬうちに避けられるときその映画は美しい反語となる。女ひとり男ふたりの三角関係は映画で多く観られるがそれよりもはるかにフラジャイルな女ふたり男ひとりのトリオが旅をする。ロードムービーの移動の感覚が誘う解放感や楽天性は、それが解散ツアーであるという宣言と、画面に移動感を出さないことによって封じられる。三人の自閉と拒絶は逆のものへの渇望を示す。そして観るうちに観客が醸成する想いのとおり、題名にもあるさよならの語は心地よく裏切られる。

    • 映画評論家

      松崎健夫

      門脇麦と小松菜奈は車窓の外を見ている。スクリーン上で、門脇は上手、小松は下手、そして運転する成田凌は下手を向いている。三人が“同じ方向を向いていない”のは、座席位置から考えれば当然のことなのだが、物語が進んでゆく中で座るポジションは変化している。どうやら三人の関係性や感情の変化を、各々の顔の向きによって視覚化しようと試みているのだ。いつしかフロントガラス側にカメラを向けることで、三人は正面を向いている。つまり彼らは“同じ方向を向いている”のだ。

  • アナと世界の終わり

    • ライター

      石村加奈

      「ハイスクール・ミュージカル」のゾンビ版といった感。ロディー・ハートとトミー・ライリーのパワフルな音楽が愉しい。目にも楽しいヒロイン・アナを演じたエラ・ハントをはじめ、ジョン役のマルコム・カミング、ステフ役のサラ・スワイヤー(振付けも担当)らの本格的な歌やダンスも見応えあり。若者に負けじとばかりに、クレイジーなパフォーマンスを披露するサヴェージ校長(ポール・ケイ)にも注目されたい。無粋を承知で言えば、やはりクリスマス・シーズンに観たかったなあ!

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