ナチュラル・ボーン・キラーズ 特別編 [DVD]
フォーマット | 色, ドルビー, ワイドスクリーン |
コントリビュータ | トム・サイズモア, ジュリエット・ルイス, ウディ・ハレルソン, ロドニー・デンジャーフィールド, オリヴァー・ストーン, デイル・ダイ |
言語 | 英語, 日本語 |
稼働時間 | 1 時間 59 分 |
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商品の説明
商品紹介
監督オリバー・ストーンが描く、マスメディアが作り上げた衝撃のバイオレンス・ヒーロー!
52人もの人間を殺害し、史上最悪の殺人犯として世界にその名をとどろかせたカップルがいた。ミッキー&マロリー。彼らはマスコミの激しい報道合戦により、いつしか若者のヒーローとして奉り上げられていく。自身の欲望のため、彼らを追う暴力刑事スキャグネッティによってついに逮捕されたふたりだが、その人気は止まるところを知らない。逮捕から一年後、視聴率アップを狙うTVキャスター、ウェイン・ゲールがミッキーへの監獄内独占インタビューを生中継で決行する。しかしそれは恐るべき大暴動への始まりだった!
シュールで鮮烈なイメージショット、75曲もの音楽のコラージュと、斬新な表現技法で観るものに強烈な印象を与える、問題作。
映像特典(約66分)…1.映像未公開シーン集 6種類(約23分) *監督オリバー・ストーンの解説、ON/OFF選択付き、2.メイキング(約26分)、3.もう一つのエンディング(約5分)、4.オリバー・ストーン監督 インタビュー(約12分)、5.劇場予告編
Amazonより
52人もの人間を殺害し、史上最悪の殺人犯として世界にその名をとどろかせたカップル、ミッキー(ウディ・ハレルソン)&マロリー(ジュリエット・ルイス)。マスコミの過熱報道によって若者たちのヒーローと化してしまったふたりの行動を主軸に描いた、オリヴァー・ストーン監督の狂気に満ちた問題作。
原案はクエンティン・タランティーノだが、ストーン監督はここで原色やモノクロを多用したイメージショットの羅列と、75曲もの音楽のコラージュによって、一種悪夢的な映像を見事に構築することでオリジナリティをかもし出しており、その作風は彼の次作などにも大きく反映させることになった。犯罪者ばかりではなく、マスメディアにきちんと批判の眼を向けているところも、実に彼らしい。ヴェネツィア映画祭審査員特別大賞受賞。(的田也寸志)
登録情報
- アスペクト比 : 1.78:1
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : 英語, 日本語
- 梱包サイズ : 18.03 x 13.76 x 1.48 cm; 83.16 g
- EAN : 4988135578419
- 監督 : オリヴァー・ストーン
- メディア形式 : ドルビー, ワイドスクリーン, 色
- 時間 : 1 時間 59 分
- 発売日 : 2006/9/8
- 出演 : ウディ・ハレルソン, ジュリエット・ルイス, トム・サイズモア, ロドニー・デンジャーフィールド, デイル・ダイ
- 字幕: : 日本語, 英語
- 言語 : 英語 (Dolby Digital 5.1), 日本語 (Dolby Digital 2.0 Surround)
- 販売元 : ワーナー・ホーム・ビデオ
- ASIN : B000H1QR90
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 312,526位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- - 1,774位外国の犯罪・ギャング映画
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(‘94年・以下NBKに省略)が’95年に日本で公開された時にリアルタイムで観た方は、本作にディレクターズカット版(以下DCに省略)があるという事をご存じない人が多いのでは。なぜかと言うと、このDCは、当時タランティーノ映画のブームが吹き荒れ、最初の劇場公開版がソフト化された時から何年もたった’99年に、ひっそりとリリースされたのだ。その頃の話題の映画といえば『マトリックス』で、もうサブカル畑でも本作の熱はすっかり冷めていて、全く話題にならなかった。ビデオソフトの情報誌に小さな紹介記事が載ったのみで、レンタル店でもめったに置かれることはなかった。だから、探して観るのに随分苦労したものだった。
DVDの時代が来ても、オリジナル劇場公開版が「特別編」と名打たれてソフト化されたのみで、本DC版は中々陽の目を見ない不遇な扱いを受けてきた。それがようやく、オリバー・ストーンの新しいインタビューなどがついて米国でリリースされたのは、制作から15年経った、2009年の事だった。
このDCは、公開当時、映画協会によって削除を命じられた150にも及ぶカットを復元したバージョンで、言うまでもなくそれは「残虐描写」や「暴力的」なシーンである。
冒頭の食堂で、マロリー(ジュリエット・ルイス)が自分に絡んできた男を叩き伏せた後、身体の上で跳ね回り執拗な暴行を加える様子や、トム・サイズモア演じる暴力刑事スキャグネッティが娼婦を絞殺するシーン、ミッキー(ウッディ・ハレルソン)が、誘拐してきた女性をモーテルの一室でレイプするシーン、薬局の前で行われる保安官たちによるミッキーのリンチ、そしてラストの刑務所での暴動は、血みどろの殺戮描写・・・オリジナル版とは比べ物にならないほど酸鼻極まるシーンが展開する。看守たちが囚人たちに惨たらしく殺されてゆくその様子は、ベトナム戦争かポル・ポト派かと思うような地獄絵図で、劇場公開版しか観た事のない方は、この映画は、ここまで凄惨だったのだろうかと我が目を疑う事であろう。トミー・リー・ジョーンズが首をちょん切られて生首を晒されるという「やりすぎ感」のある演出まで加わっている。
『NBK』は、作品を観る視点によって評価が大きく変わってしまう作品で、本作を一口に傑作と言い切れない方も多いと思う。例えば、以下のように・・・
1)メディア批判としての『NBK』
本作が劇場公開された時から言われていたのは、殺人者がメディアによってスターにされ、それがさらなる殺人を助長していくという、メディアに対する痛烈な皮肉が込められている映画だということ。これに関しては、また後ほど詳しく述べる。
2)凶悪犯のカップルによる、殺人行脚ロードームービーとしての『NBK』
脚本を書いたタランティーノは、おそらく「ボニーとクライド」の現代版をやりたかったのだろう。しかし本作の主人公、ミッキーとマロリーは、殺す相手を選ばない凶悪な殺人犯である。彼らは思想がある訳でもなく、ただ自分たちを抑圧してきた社会に復讐するために、そして有名になるために、見境なく、手当たり次第に人々を殺してゆく。そして最後はのうのうと逃げおおせてしまうのである。
これは一歩引いて冷静に観れば、とんでもない映画とも受け取れる訳で、安易に共感はできない。しかし、これは前述の「メディア批判」という視点から観ていくと、この不条理とも取れるラストには作品としての必然性がある事が判る。しかしタランティーノは、勝手に社会派映画に改変されたと激怒し、脚本からクレジット名を削除するよう主張。「原案」としてクレジットされることになる。
3)映像テクニックの実験場としての『NBK』
作品としてのイデオロギーがどうのこうのという話を全部脇に置いたとする。それでも、全く別の価値観がこの映画にはまだ存在する事に気づく。
それは、本作における強烈なまでの映像視覚効果である。開巻からラストまで、加工を加えていないカットはワンカットたりともないのでは、と思わせるぐらいに、当時としては考えられ得るあらゆる種類の映像テクニックを駆使した、全篇MTVのようなビジュアルの洪水だ。
デジタルによって、大抵の事は何でもできるようになった現在とは違い、本作が創られた時はまだフィルム全盛の頃である。そして、アナログでここまでの事を全篇に亘って行うのは、生半可な労力ではない。
スクリーンプロセスという、もはや古典的とも言える技術を逆手に取って、イメージ的で「クール」な映像として新たな価値感を与えた斬新な発想をはじめ、映像投射、合成、特撮、アニメ、タイポグラフィ、トリック撮影、ビデオ撮影、モノトーン、ネガポジ反転、フラッシュバック、サブリミナルと、映画のテクニックの見本市か、はたまた闇ナベかというほどの、ドライブ感爆発の怒涛のビジュアルのマッシヴアタックである。
「ストーリーやテーマなんぞどうでもいい、ビデオドラッグとしてのNBKにもう中毒だぜ!」というファンがいても不思議ではない。
「ピカソの『ゲルニカ』を凶暴だと思う人はいない。戦争が主題のこの絵を人は知的に解釈し、敬い、飾ったりする・・・この映画も同じだよ」− トミー・リー・ジョーンズ
本作が日本で公開された’90年代は、現在のように発作的で凶悪な犯罪が日常的に横行してはいなかった。だから本作の中で描かれるミッキーとマロリーの凶行は、映画内ファンタジーとして片付ける事ができた。しかし2010年代に突入した日本の現在は、当時と比べて現実がこの映画に接近していることに気付く。笑えないのだ。それゆえに『NBK』を観る時、この無差別殺人犯のカップルたちが嬉々として行う殺人、それがテレビによって「時のひと」に祭り上げられていき、裁かれる事なく逃げおおせてしまう展開に不快感を催す人がいるのだと思う。しかし、『NBK』は決して暴力や殺人を礼賛した映画ではない、のだ。
実は、DC版を巡るオリバー・ストーンの発言には興味深い変遷が見て取れる。’99年にリリースされたビデソフト版の時にイントロダクションとしてついていたストーンのインタビューは、主に【復元された暴力的なシーン】に関する言及で、「カオスを描きたかった」「性と死がこれでようやくつながった」と、映画の中における暴力表現の事ばかり話していて、メディア批判の話は多少匂わせはするものの、あいまいな表現で、はっきりとは言及していない。
ところが、2009年にリリースされた本DVD版では、ストーンはイントロから、具体的な事例を挙げながら、公然とマスメディア批判を謳っている。
この温度差は何なのだろうか。本作が「メディアへの皮肉が込められている」という事は、公開当時から言及されてきたのだが、実は、ストーン自身がその背景にあったもの、そしてどんな事に危惧し、このような映画にしようと思ったのか、という事について堂々と、具体的に公言したのが本DVDの特典映像なのではないか、と思ったのだ。
当時、『NBK』のマスコミ試写後、集まった各社の記者たちから敵意を感じたと、主演のジュリエット・ルイスは語っている。記者たちは気付いたのだ。ストーンがこの映画を通して言わんとしている事を。
おそらく、ストーンに対するメディア側からの「圧力」のようなものが、公開当時から何年にも亘ってかかっていたのではないか、と筆者は思うのである。それが今回、まるで憑き物が落ちたかのように、ストーンの口から当時のメディア(特にテレビでのニュースのショービジネス化について)がいかに、報道としての本文を逸脱し、視聴率をかせぐための話題性やスキャンダル性ばかり追及し堕落していったかが、怒涛の如く語られる。面白いのは、後に詳しく書くが、DVDの特典ドキュメンタリーまでもが新たに「メディア批判」の目線で作り直されている、ということだ(従来版では「カオス」という目線で作られていた)。
当時、本作を「暴力を美化した映画」と批判した声に対し、ストーンは「そうした考え方は、メッセンジャーを殺すようなものだ」と反論している。ストーンの真の思い、完全解禁。それが本『NBK ディレクターズカット』DVDなのだ。
日本でも、メディアを巡る実情はそう変わらないものだと言わざるを得ない。報道に携わる人間は、社会で起こる様々な出来事を世に発信していく、情報の最前線にいる特別な人間であるかのように、偉そうな態度をとっている連中が決して少なくないが、実際のところテレビ局は「電波という商品を売り物にしている一企業」でしかなく、彼らはスポンサーと視聴率の顔色を伺っているだけだ。「報道」などと偉そうな事を言っていても、結局は「独占」「直撃」「衝撃」「緊急」などと言った扇情的な言葉を使って、視聴者の気を惹こうと躍起になっているのが実情で、ニュースで流れる情報の大部分は、「公式に発表された」ものであり、信念を持って権力を敵に回して戦おうというような気概は皆無に等しい。
ジュリエット・ルイスがインタビューで、視聴率競争に堕したテレビ業界がいかに歪んでいるものかを、実に端的に表現している。
「彼らは“視聴者が求めるものを提供している”と言うけれど、それはドラッグディーラーが、“俺たちはニーズがあるから供給しているだけだ”と言っているのと同じ理屈よ」
実に痛快な一言。結局、『NBK』のラストで、刑務所での暴動を引き起こしたのも、テレビの生中継が原因なわけだから、メディアの自業自得なのである。ここまで皮肉られたら、まあ怒るだろうな、マスコミは(笑)。
本商品の特長は、まず2枚組のソフトにしたということ。特典映像は、従来の「特別編」と変わらないように見えるが、実は手が加えられている。
【Disc 1】
★オリバー・ストーンによるイントロ解説
★映画本編・DC版(オリバー・ストーンのオーディオコメンタリー有り)
【Disc 2】
★ドキュメンタリー「情報化社会と犯罪:現代における『NBK』」
★未公開シーン
★もう一つのエンディング
★オリバー・ストーン インタビュー
★オリジナル劇場予告編
注目すべき点はドキュメンタリーで、これはかつて「特別編」DVDについていた「混沌たる世界」に、新たなインタビューと取材を追加・再編集し、ストーンの意図をより明確にした内容に作り直されていて、映画公開当時はまだ発達していなかったインターネットがテレビを脅かしつつある「いま」の目線で『NBK』を捉え直したものになっている。当時のメディアを騒がせた人々や、ニュース番組のプロデューサー、さらにはパパラッチ会社の経営者、ネットアイドルなどが新たに登場し、情報の洪水と化してしまった現代社会のカオスを炙り出してゆく。特に、このドキュのラストで注目したいのは、「インターネット全盛の現在ならば、ミッキーとマロリーはどう行動し、どう受け止められ、さらに・・・本当に逃げおおせる事ができるのか?」というお題である。これに答える面々が、「ウィキペディア」のジミー・ウェールズ、「ツイッター」の創設者エヴァン・ウィリアムズ、「ヤフー」の画像シェアリング・ポータルのジェネラル・マネージャー、「You Tube」のニュース・マネージャー、パパラッチ会社の経営者といった人々と、監督オリバー・ストーン自身だ。彼らの回答は観てのお楽しみだが、このドキュメンタリーでも判るように、『NBK』という映画は、時代が変わっても、そこに人間社会とマスメディアが存在し続ける限り抱え続ける問題を、毒を持って鋭く突き続ける作品なのだ、という事だ。
もう一つ興味深いのは、従来版にも収録されているが、「もう一つのエンディング」。これはミッキーとマロリーが最後、死んで終わるというバージョンである。そして、この終わり方のほうが、むしろ観客の生理的には納得がいく。
しかし、それではこの映画はメディアへの批判にならないのである。凶悪な殺人カップルを、スターのように祭り上げてしまい、挙句の果てに逃走してしまうラストに「メディアこそ最大の加害者になり得る」というメッセージが込められているのである。これは、バッドエンドとかハッピーエンドという価値観とは全く違うものなのだ。
本作をリアルタイムで観た事がない、若い世代の方がいま本作を観ると非常に不快な思いをするのは理解できる。実際にそういったレビューも掲載されている。しかし、ここで問いかけたい。そんな貴方は、テレビで放送される陰惨な事件のニュースからも同様に目をそらしているだろうか?と。多くの人が否、ではないだろうか。
「許せない」と思いながらもニュースに見入ってしまうその根底に、実は「好奇心」という、非常に恥ずべき感情があるという事を自ら認め、自省できる人間がどれほどいるだろうか。
映画の中で、「マス・マーダー(大量殺人)は許せない。でもミッキーとマロリーはクールだよね」と言う若者がいる。それはとどのつまり、テレビを観ている人々を代弁している、非常に皮肉な言葉なのだ。「Kill Me」と書かれたTシャツを着ている人もいる。凶悪な殺人も、メディアを通す事で「ショー」になってしまい、いつの間にか被害者たちの痛みは忘れられてしまう。
メディアがなぜ、足を踏み外していくのか・・・その原因は視聴率、つまり視聴者だ。「数字」には、一人ひとりの視聴者が感じたことまでは集計されないので、放送局は数字が大きければ「ウケた」と解釈し、また同じ事を繰り返そうとする。
とどのつまりは、受け止め手である我々にも責任はあり、テレビで報道される事件を、自分とは無関係だと思って観ている事こそ最も無責任な行為なのである。事実、インターネットという、受け手が参加できるメディアが発達した現在、ネット上に書き込まれた自分勝手で無責任な発言が誘発したと思しき事件は決して少なくない。
「メディア − 一般市民 − 犯罪」この3つは、いつの時代でも密接に関係しているものだということを突きつけるのが『ナチュラル・ボーン・キラーズ』なのである。それは、’90年代ではない今でも・・・いやむしろインターネットというメディアが、いびつな形で発達しつつある現在こそ、意義を持って受け止められるべき映画なのではないだろうか。
故に、新たな目線でドキュメンタリーまで作り直した、本2枚組みソフトは秀逸だと言いたい。
オリジナル脚本を書いたタランティーノは、彼が綿々と作り続けている「キャラクターもの」の「MOVIE(映画)」がやりたかっただけで、このような社会派目線のテーマなど入れられたくなかったに違いない。しかし、ストーンのこの目線が加わったことで、本作は普遍性を持った「FILM(作品)」になったのだ。
「『NBK』ディレクターズ・カットでは観る側を信頼し、本人の判断に任せる。監視も検閲もしない。」− オリバー・ストーン
昔から何度か観てました。
レンタルばかりだったので
購入決めました!!!
途中からは口をポカーンと開けてしまうような状況が続きました。
一応は最後まで観ましたが、10年後くらいにもう一度観たら、また印象が変わるかもしれませんが、たぶんもう観ない気がします。
でもなんか突然気になって、観るかもしれない。
よくわからない作品です。
カットしたシーンや、監督が感じていた当時のアメリカのマスコミのでたらめぶりの話が
収録されている。購入しようと考えている人はこちらのディレクターズカットをオススメします。
本編の内容ですが、私は純愛物としてこの映画を観ました。
ドタバタしているけれどあの二人の愛は素敵だと思いました。
ミッキーがカッコイイ。マロリーが指輪をしていなかった時に「髪の毛が全部抜けてもこの指輪を
していろ」と怒っていた。マロリーは小柄で可愛いけど、父親が変態で弟をマロリーが産んだとか
言ってたけどホントかな?弟が6歳くらいに見えたけどそしたらいくつで産んだのよと思った。
いろんなシーンの背景にこだわりの映像を入れている。鬼のような悪魔のような顔も色を変え何度も出てくる。
インディアンの家でミッキーとマロリーは食事を出してもらったが主は最後は殺られると悟っていた。
ガラガラヘビとミッキーとマロリーは同じだと解釈していたが、確かにどちらもナチュラルボーンキラーズ、
生まれながらの殺し屋ですね。
殺人鬼の二人ですが、このインディアン殺しではマロリーがミッキーをののしります。
刑務所のシーンからはだいぶ趣が変わって、マスコミと警察がミッキーとマロリーをどう扱っているかが
メインになってくる。
ロバートダウニーjr.とトミーリージョーンズの出番となりこの二人のコメディーのような場面が見もの。
タランティーノが原案で出来た映画らしいけど、タランティーノのその後の映画キルビルはアニメを入れたり、
この映画の影響を受けている気がしました。
劇中では実現しないこれがこの映画の全てであり、我々へのメッセージの全てと言っていいでしょう。
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Tiene castellano y todos los extras en inglés con subtítulos en español.