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毛皮のヴィーナス [DVD]

4.2 5つ星のうち4.2 14個の評価

仕様
価格
新品 中古品
DVD 通常版
¥12,475 ¥5,950
フォーマット ドルビー, 色, 字幕付き
コントリビュータ ロマン・ポランスキー, エマニュエル・セニエ, マチュー・アマルリック
言語 フランス語
稼働時間 1 時間 36 分

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商品の説明

その悦びを、あなたはまだ知らない。

80歳にして発展を続ける巨匠が仕掛ける刺激的な二人芝居!!

■ロマン・ポランスキー最新作!!
「戦場のピアニスト」でアカデミー賞(R)に輝き、「ゴーストライター」「おとなのけんか」と
スマッシュヒットを連打した鬼才にして巨匠、ロマン・ポランスキー監督が放つ、
かつてない挑発的な傑作がここに誕生。

■フランスの名俳優が魅せる二人芝居!!
圧倒的存在感を放つワンダを演じるのは、実力派女優にしてポランスキーの妻、エマニュエル・セニエ。
ワンダに翻弄されるトマ役には、フランスが誇るカメレオン俳優マチュー・アマルリック。
全編登場人物は2人のみ。めまぐるしく、官能的でユーモラスな駆け引きが始まる!

■原作は名作に着想を得た戯曲。
「マゾヒズム」の語源となったザッヘル=マゾッホの自伝的小説に着想を得て書かれた戯曲の映画化。

[内容解説]
≪舞台のオーディションのはずが、いつの間にか女優と演出家の本気の二人芝居へ―
台本にはなかった衝撃のラストとは。≫

オーディションに遅刻してきた無名の女優ワンダと、自信家で傲慢な演出家のトマ。
がさつで厚かましくて、知性の欠片もないワンダは、手段を選ばず強引にオーディションを懇願し、
トマは渋々彼女の演技に付き合うことに。
ところが、ステージに上がったワンダは、役を深く理解し、セリフも完璧。
彼女を見下していたトマを惹きつけ、圧倒的な優位に立っていく。
二人の芝居は熱を帯び、次第にトマは役を超えて、ワンダに身も心も支配されることに心酔していくのだが──。


[特殊内容/特典]
【特典映像】(予定)
*インタビュー<監督:ロマン・ポランスキー、マチュー・アマルリック、エマニュエル・セニエ>
*本国予告編
*日本版予告編

【初回限定特典】 ※初回特典は数量限定により、在庫がなくなり次第終了となります
特製スリーブケース仕様

[スタッフキャスト]
【出演】
ワンダ:エマニュエル・セニエ(『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』『潜水服は蝶の夢を見る』)
トマ:マチュー・アマルリック(『007/慰めの報酬』『グランド・ブダペスト・ホテル』)
【監督】:ロマン・ポランスキー(『戦場のピアニスト』『ゴーストライター』『おとなのけんか』




[発売元]ショウゲート

(C)2013 R.P. Productions - Monolith Films

登録情報

  • メーカーにより製造中止になりました ‏ : ‎ いいえ
  • 言語 ‏ : ‎ フランス語
  • 製品サイズ ‏ : ‎ 30 x 10 x 20 cm; 120 g
  • EAN ‏ : ‎ 4988013285583
  • 監督 ‏ : ‎ ロマン・ポランスキー
  • メディア形式 ‏ : ‎ ドルビー, 色, 字幕付き
  • 時間 ‏ : ‎ 1 時間 36 分
  • 発売日 ‏ : ‎ 2015/7/2
  • 出演 ‏ : ‎ エマニュエル・セニエ, マチュー・アマルリック
  • 字幕: ‏ : ‎ 日本語
  • 言語 ‏ : ‎ フランス語 (Dolby Digital 5.1)
  • 販売元 ‏ : ‎ ポニーキャニオン
  • ASIN ‏ : ‎ B00VUEL4T6
  • ディスク枚数 ‏ : ‎ 1
  • カスタマーレビュー:
    4.2 5つ星のうち4.2 14個の評価

カスタマーレビュー

星5つ中4.2つ
5つのうち4.2つ
14グローバルレーティング

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上位レビュー、対象国: 日本

2021年10月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ポランスキーの演出は衰えを知らない。
目の前で演劇を観ているようだ。

登場人物はたった二人。
ポランスキー作品には欠かせないエマニュエル・セニエが演じる
謎の女が台本通り演じながら、ふと感想をはさみ、ぐいぐいと演出家を揺さぶる。

演出家を演じるマチュー・アルマリックの目が時に異様に大きく輝き、
知性と感性が目の奥に渦巻いているんだなと感じる。

エマニュエル・セニエは見る前から期待していたが、
マチュー・アルマリックの演技も際立っていた。
監督もする才人だ。

最後の場面をどう受け止めればよいのか、
何度か観たがいまだにわからない。

特典のインタビューを見て、
映画の脚本はデイヴィッド・アイヴスによって書かれたものが
ポランスキーの元に届いたものだとわかった。

これまでポランスキー作品でみせた尋常じゃない演技が記憶にあったので、
エマニュエル・セニエが案外普通にインタビューに答えているのが意外だった。

時間はそう多く残っていないのだから
ポランスキーは早くアメリカに行って裁判を受けてほしい。
でないと、作品を評価しにくい。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2021年8月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
カミさんのリクエストで購入。映画館で観て気に入ったらしい。家で見直してご満悦でした。
2015年7月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
少々長文になるのであらかじめお断り。本作品はハリウッド系の単純明快な活劇のみがストライクの方はスルーしたほうが無難な作品だと思われる。

映倫指定はGだけどPG12を推奨。小学生に見せるべき作品では、断じてないと個人的には思う。

原作はマゾッホの「毛皮のヴィーナス」で、支配させることを強要することによって相手を支配するにいたる擬似SM劇であり、倒錯した愛の形態を描いた悲劇だが、映画では原作を舞台劇化するオーディションの一幕をつかい、敢えてストーリーは深く追わずに端的にテーマのみを演出している。

一応、原作の流れをザッと抜書きしてみると、
夢でヴィーナスと出逢う→ワンダとの出逢い→愛し合うふたり→永遠の愛を求めるセヴェリーンと確約できないワンダの間で同棲生活が始まる(圧倒的な男性に支配されたいワンダは永遠の下僕になりたいセヴェリーンの熱意に気おされて尽力を誓う)→奴隷とヴィーナスの関係維持のためのワンダの提案→奴隷契約→手紙→旅→契約書→ムチ→放置プレイ→愛の死亡→ドイツ人画家の介入→ギリシャ人美青年の介入→破局
と、なっている。

なおマゾッホは、この小説が完成したあと、自らの私生活で小説を模倣して、見事に自爆した経緯をもつ、とてもぶっ飛んだ御方である。

小説版のメインテーマは「相手に支配させることを仕向けることによって逆支配することを目論む擬似SM」だが、それ以外にも構成要素には大切なテーマがいくつかある。
原作を読んでいなくても、そのうち、
抽象的な北方、つまるところ氷のようなキリスト教的世界に於いて、ヴィーナスは風邪をひかないために大きな重い毛皮を引きずって歩かなくてはならない魔女より始末の悪い異教徒である。
男は原理に忠実だが女が忠誠を誓う相手はいつだって感情だけである。
官能を超越した官能的な自由人としてのディレッタントな主人公の生き方は、ともすればあまりにも奇癖であり、ゆえにパッションとファナティックな行為の果にある虚構にすら陶酔することを可能たらしめる。
以上、3点を踏まえていれば比較的理解しやすい作品ではなかろうかと。

ともあれ、映画での事の起こりは、舞台オーディションが散々な結果に終り途方に暮れる演出家が帰路につこうとしたとき唐突に出現する無名女優、という一見、ありがちな、見かけ闖入劇で始まるわけだが、息をつく間がまったく与えられないまま、一切の展開を拒否して終幕へと雪崩れこむ演出の妙が神業レベルで、80歳という監督の年齢が嘘にしか思えない。
携帯電話・雷鳴・珈琲が場面転換に利用されるが、オープニングとエンディング以外はすべて舞台劇。

さて、映画版の主人公である演出家のトマはマゾッホの「毛皮を着たヴィーナス」を格調高い文学作品として上演したいと熱意に燃えていた。
闖入してきた女優は、あたかも阿婆擦れな人格を前面に押し出すが、芝居が進むにつれて徐々に化けの皮が剥離してゆく。無論、意図的に彼女が漏らしてゆく。
途中、私立探偵なぞという見え透いたはったりで主人公と観客を騙そうとする阿婆擦れ女の毛皮をまとっていたのは、実はギリシャ神話の女神であるが、無論、役柄として演じているだけで、種も仕掛けもない台本通り。
彼女は現代的フェミニズムの立場から理念の毒を撒き散らした挙句、樺の枝(テュルソスの杖)で演出家を猛攻撃するわけだが、当然、これもギミック。
それこそマゾッホの狙い通りに、神に支配させたように見せかけながらも実は逆支配して本性を暴きだすというそのまんま「毛皮を着たヴィーナス」。
フェミニズム万歳のフリをしたアンチ・フェミニズムが炸裂する。
三重に張り巡らされたギミックよりむしろ、原作同様メタファーの勝利だろう。
ラストは支配する者とされる者が入れ替わり完全に化けの皮を自らの手で剥がすように仕向けられた糾弾する女神、わめく者マイナスが、まとった豹(イメージとして)をひけらかし本性を剥き出しにしてディオニュソスの調べで舞い踊る狂言回しに鳥肌立つ。
原作では主人公の優柔不断が災いして女神に見捨てられた挙句、究極までたどり着けずに無残に散った悲劇だけど、本作は境地(神、彼に罰を下して、一人の女の手に与え給う)までぶっ飛んだ思いっきり予定調和のハッピーエンド。
あたかも舞台上で事が二転三転しているかのごとく見せかけながらも実はすべては演技の延長線上という、演出手腕に脱帽。
としか言いようがないわけだが、主演男優が監督の分身ともささやかれるマチュー・アマルリックで主演女優が監督の奥さんなので、はっきり言って、「映画は俳優によって創られる」と置き換えることも可能だ。
また、脚本家であるポランスキーを演出家としてのポランスキーが糾弾している自虐的SM劇ともとれる。
無論、原作への冒涜にならないような配慮は完璧に成されているので、原作ファンでも安心して観られる。
兎にも角にも、映画では簡単に虚構を真実に倒置できるという暗喩をふんだんに鏤めた演出技法がすばらしい限り。
別人のごとく変化した声音に振り向くと、阿婆擦れ女が女神に代わっている、とか、欲しい物がたちどころに現れるどらえもんバッグとか、いう具合に、あら不思議シーンが満載なのも花丸。

しかしながら、ポランスキー自身のアンモラルな性癖が思いっきりのしかかり、それこそを4つ目のギミックととれば、主義主張なぞ微塵もない、単なる性倒錯系文芸アートそのまま、と、捉えるのは、いくらなんでも深読みしすぎだろうか。
まぁ、多分に、創りたいものを創っただけなんだろうけど、あまりにも上手過ぎる。

2日間で3回鑑賞したが、おもしろすぎて、ついついレビューなぞ書いてしまって御免なさい。
16人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2015年7月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
全くつまらない作品です。金返せという気持ちになります。監督の独りよがりの作品で、娯楽的な要素はゼロ。黒沢監督に見習えと言いたくなります。ドイツ映画の「ビーナスの欲望」の方がずっとよい。ブルーレイ仕様ですが、CDで十分な短編です。見る価値なし。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2015年4月29日に日本でレビュー済み
脚色家(演出家)トマは、マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』の舞台化のための主演女優選考オーディションでめぼしい人材が現れず、いらだっていた。そこに小説のヒロインと同名の女優ワンダが遅れてやってくる。ワンダの話しぶりからは原作を読んだことも教養もないこともうかがえるが、彼女の強引さによりトマはしぶしぶオーディションの機会を与える…。

本作は監督の前作『おとなのけんか』や過去作『死と処女』と同じく、もとが戯曲でワンシチュエーションもの。しかも前記二作よりさらに少ない二人芝居。原作である同名の戯曲は、マゾヒズムの語源にもなったマゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』の翻案です。

西欧では伝統的に男女のあいだに支配的な権力構造が存在していました。地位や教養だけではなく、「まなざし」においても同様です。それは、20世紀にいたるまでの西洋美術で描かれたヌードの女性像において端的に表象されていると言えるでしょう。その権力構造において、男は「芸術家(芸術鑑賞家)=見る者=欲望する者=支配する者」であり、女は「ヌード像=見られる者=欲望される者=支配される者」でした。この非対称性は、マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』のなかでイメージソースとなったティティアーノの絵画《鏡に向えるヴィーナス》にも見て取れます。
本映画でも、地位や教養、なにより「まなざし」の非対称性を規定してきたこの構図が前提とされているし、ティティアーノの絵は重要なモチーフとなっています。

はじめ、劇中において伝統的な男と女の構図は、演出家であるトマが「男=見る者=欲望する者=支配する者」であり、女優ワンダが「女=見られる者=欲望される者=支配される者」として示される。そして、次第にこの構図が転倒していく、というところに本作のテーマが置かれています。
本作では、上記のような男女の社会的役割ないし制約がなんども反転し倒錯する。ワンダが “ambigu”(曖昧な、多義的な)を “ambivalent” (アンビヴァレントな)と言い間違えるセリフに明らかなように、この価値の転覆こそがワンダの狙いです。というのは、この言い間違いからは、それが彼女にとって意図的なものにせよ無自覚なものにせよ、彼女が複数の価値の共存よりも、相反する価値の対立を前提としていることがうかがえるからです。

おそらく、もっともわかりやすいかたちで価値の対立が先鋭化されるのは、マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』についてのトマとワンダの見解でしょう。
トマはマゾッホの小説を高尚な文学作品すなわち「芸術」だとみなす一方で、ワンダは女性差別的かつ猥雑だと断罪する。それによって「芸術」的な愛の一形態としてのマゾヒズムもまた、伝統的な社会制度の範疇にある、「男=欲望する者」が己の欲望を表出するさいのひとつのヴァリエーションではないかという問いが提起されます。つまりマゾッホの描く愛の形態も、伝統的西洋画に描かれたヌード像と同じく、「芸術」という衣(=毛皮)で隠した、男の欲望の表象にすぎないことが暗示されます。

くわえてマゾッホの小説の主人公は「毛皮」に対してフェティシズム的嗜好をもちますが、本映画のなかでは「毛皮」はニットのマフラー(的なもの)で代理されています。この置き換えは、フェティシズムの対象が記号的に交換可能であり、フェティシズムもまた欲望表出のヴァリエーションにすぎないと示唆しているかのようです。さらに踏み込んで言うならば、欲望の表出においてその対象としての女性は記号的(=モノ的)存在、「人格」を持たない存在だとみなされている、とほのめかされているようでもあります。以上のように劇中では、男の欲望表出についての再考が過激なやり方で迫られます。

また、作家マゾッホは自身の体験を『毛皮を着たヴィーナス』に反映させたり、その後むしろ小説をなぞるような実人生を歩んだりと、虚構と現実が倒錯していたことで有名です。
本作のなかでもそれと同じく、舞台という虚構が「現実」へと侵食していく様が描かれます。しかもワンダ演じるエマニュエル・セニエは監督ポランスキーの結婚相手であり、トマを演じるマチュー・アマルリックも監督と似ていると言われた俳優です。間違いなく監督は自身をトマに投影している、あるいは投影していると観客に見せかけています。ここでも映画という虚構が「現実」に混入しています。
おそらく虚実の混在という演出の意図はそれだけでありません。「欲望する者」の代表としてのトマに監督自身を仮託する(ように見せかける)ことで、ポランスキーは自己批判的な立場を担保しているのでしょう。少しズルい気もするけれど、この徹底ぶりには参りましたと言うほかありません。

正直に言えば、あまりに複雑かつ技巧的すぎて、上映時間が100分にも満たない映画なのに観ていて途中から疲れてしまいました。すべてが「意識」的に描かれ、あらゆるディテールが意味を担わされているように見えるし、作り手さえも意識しえない映画の「無意識」すなわち観客による解釈の多様性の入り込む余地が可能なかぎり排除されているように思われました(もちろん、上で述べたような解釈が作り手にとって「正しい」かどうかは別として)。ポランスキーは人間の「情念」を「理性」をもって描くことのできる稀有な監督だけど、本作では「理性」が勝ちすぎているように思われました。
9人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2016年12月3日に日本でレビュー済み
パリのうらぶれた劇場で、演出家トマとオーディションに遅れてやってきた女優ワンダがせめぎ合う。
ぼくは男の目線で見ていたのか?現実と劇中、男と女、主と従の関係が幾重にも錯綜する中、観客である自分の立ち位置も混乱していくのだ。
ヴィーナス!徐々にその姿をあらわし、男が作った世界と秩序を粉々に砕き、跡形なくかき消してゆく。「永遠なるものにして女性的なるもの われらを彼方へと導き行く」(ゲーテ『ファウスト』)。
ラストシーンは痛快。