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シュザンヌ・クルーティエ
父親はカナダの情報大臣。トロワ=リヴィエールの修道院とモントリオールで中等教育を受けたのち18歳でニューヨークに出て、ファッション・モデルや写真のモデルとなる。その写真がジョージ・スティーヴンスに認められてハリウッドに招かれ、映画出演のチャンスが来るまで、チャールズ・ロートン劇団に参加してシェークスピア劇に出演する。ハリウッドでアメリカ映画一本に出演したのち、48年パリに渡り、ルイ・ジューヴェの紹介でジャン・ダステ劇団に入る。49年「神々の王国」の主役を探していたジュリアン・デュヴィヴィエ監督に認められ同作品に主演、ついでマルセル・カルネ監督の「愛人ジュリエット」に主演したが、この作品が興行的に成功しなかったので、フランス映画へ出演する自信を失い、その後オーソン・ウェルズ監督・主演の「オセロ」(52)でデズデモーナを演じたほかは、作品にも恵まれなかった。その後は演劇活動が多く、ニューヨークのブロードウェイの舞台『ヘアー』でマイケル・バトラーと共演した。80年代以降は、ロサンジェルスに住んで、ピーター・ブルックなどの舞台・演劇のプロデュースや映画脚本を手掛けている。54年にイギリスの俳優兼監督のピーター・ユスティノフと結婚、三児をもうけたが71年に離婚した。
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シュザンヌ・シフマン
1946年頃からシネマテークに通い、また、ロメールがアニメーターをしていたシネクラブ・デュ・カルチェ・ラタンにも52年まで顔を出し、後のヌーヴェル・ヴァーグの監督たちと知り合う。ついで、二年間、国立科学研究所の社会学研究センターにおいてエドガー・モランのもとで働くが、給費留学生としてアメリカに発ち、シカゴで一年を過ごし、さらにメキシコに渡った。フランスに帰国すると、リヴェットの“Paris nous appartient”(60)のスタッフに加わる。クレジットには「台詞指導」と記されたが、実際は助監督に近い仕事をしたという。つづいて、プロデューサーのピエール・ブロンベルジュに声をかけられ、トリュフォーの「ピアニストを撃て」(60)のスクリプト・ガールとなる。以後、ゴダール、リヴェット、そしてとりわけトリュフォーのもとでスクリプトを担当し、やがて助監督となって、第二班の撮影をしばしば任せられた。さらに、「アメリカの夜」(73)以降のトリュフォー作品のほとんどの脚本に参加し、リヴェットのもとでも、“Out One”(70)ならびに“Merry-go-round”(78)から“Hurlevent”(86)までの脚本に名前を連ねている。87年に監督として一人立ちし、13世紀の平和な村を舞台に、ドミニコ派の修道僧と、彼によって魔女とみなされ、異端審問にかけられる治療師の女を描いた“Le Moine et la Sorci#e_re”を撮り上げた。
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シュザンヌ・シュミット