【あの頃のロマンポルノ】プロフェッショナル曽根中生
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- 2021年08月06日
2021年に、日活ロマンポルノは生誕50年の節目の年をむかえました。それを記念して、「キネマ旬報」に過去掲載された記事の中から、ロマンポルノの魅力を様々な角度から掘り下げていく特別企画「あの頃のロマンポルノ」。キネマ旬報WEBとロマンポルノ公式サイトにて同時連載していきます。
今回は、「キネマ旬報」1973年6月下旬号より、吉田成己氏による企画特集「プロフェッショナル曽根中生」の記事を転載いたします。
1919年に創刊され100年以上の歴史を持つ「キネマ旬報」の過去の記事を読める貴重なこの機会をお見逃しなく!
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曽根中生は上州の人である。彼の生家は、父親の始めたこんにゃくの製粉問屋。生まれた村は戦国時代、長尾景虎の城下町だったが、明治に入り火事と街道が変わったため寂れた。父親は商売一筋の人で家は古く、農地解放になるまではかなりの土地を持っていた。母親は体が悪くて寝ていることが多かった。彼はその三男。
近所に橋本座という映画とどさ回りの芝居を交互にやる小屋があり、子供時代そこで歌舞伎まがいの「壷漿霊現記」を観たり、人形芝居の「杜子春」に感激して泣いたことがある。芝居の無い時は、村の青年団が櫓を組んでむしろ張りの小屋を建て、有志が浪花節をうたうのを、ねんねこを着て布団を抱え聞きに行った。そういう風土に彼は育った。
長尾小学校二年の時、終戦。高台から毎晩B29に空襲されて燃え上がる前橋を観た。一番最初に観た映画は「酔いどれ天使」。兄の友達が「やらけん」という映画が凄い凄いと言うので皆んなで観に行ったら、それが「野良犬」だった。
昭和25年長尾中学入学。中学時代は不良仲間に身を投じ、番長グループの参謀格で自分では手を下さず人にやらせるタイプだった。反面、龍之介、藤村、武者小路などの文学書を読み、鴎外の「キタセクスアリス」やお産の本なんかもよく読んだ。「禁じられた遊び」に強い印象を受ける。昭和28年県立渋川高校に進学。いま民芸にいる稲垣隆史と二人で演劇部を再建した。映画は殆んど見ず、坂口安吾に傾倒し、達治、朔太郎、白秋、光太郎の詩を愛読。昭和31年大学受験に失敗し上京。予備校に一年間通う。
昭和32年、東北大学入学。仙台で下宿生活を始める。演劇部に入りペケットや創作劇をやった。当時の友人に結城良煕(後の日活プロデューサー)がおり、映画監督になりたいと言う彼の影響で二年の時、急に一年間に二百本も映画を観る様になる。この時期に「灰とダイヤモンド」「地下水道」などのポーランド映画に出逢った。この衝撃は強く、彼の言葉を借りればポーランド映画の返り血を浴びた。サルトル、ボーボワール、ハイデッガー、ニーチェなどに傾倒。その頃、現在の妻と同棲生活を始め三年の時、学生結婚。家から勘当され、苦しい生活を送った。
大学で学んだ美学理論から得たものはいまも根強く彼の芸術観の根幹をなしている。卒論は「リアリズム論」。
昭和37年に大学を卒業し、ジャーナリズム関係を受験したがすぺて落ち、日活に補欠で受かる(第八期)。同期に大和屋竺、山口清一郎、岡田裕(後の日活プロデューサー)がいる。藏原惟繕の「憎いあンちくしょう」が最初についた作品。その後「置屋の安女郎のように」牛原陽一、古川卓巳、斎藤武市などについた後、昭和38年「野獣の青春」で鈴木清順に出逢う。以後鈴木作品には殆んどついている。鈴木清順の演出は、いわば彼の独壇場であり誰もスタッフの追随を許さないていのものだった。彼の作品はすべて印象に残っている。昭和43年、鈴木清順が日活を馘首された前後から具流八郎の中心メンバーの一人として活動する。具流八郎のテーゼ「大衆娯楽として成立し得て、なおかつ表現として成っているもの」(大和屋竺)のもとに、鈴木清順を中心に大和屋、田中陽造らとの共同作業が始まる。その成果が「殺しの烙印」の脚本であり、未映画化作品としての「ゴースト・タウンの赤い獅子」「続・けんかえれじい」「鋳剣」である。十年余りの助監督時代に若松孝二の「壁の中の秘事」ほかピンク映画の脚本を多数書いた。
▲『㊙女郎市場』より
昭和46年「色暦女浮世絵師」でデビュー。これまでの全作品を列記すると、昭和47年「性盗ねずみ小僧」「らしゃめんお万 雨のオランダ坂」「らしゃめんお万 彼岸花は散った」「性談 牡丹燈籠」「㊙女郎市場」「色情姉妹」。昭和48年「熟れすぎた乳房 人妻」「実録白川和子 裸の履歴書」「不良少女 野良猫の性春」の計10作品がある。(※1973年6月時点)
曽根中生がまだ助監督であった時、彼が或る本に発表した「鈴木清順論」によって清順門下としての彼の名前を私は知った。曽根の作品への清順の影響、これは我々に興味のあるところである。だが、インタビューの中で鈴木清順の名を出したあたりから彼の口は急に重くなった。鈴木清順は彼の内部で触れるにはまだ余りに生々し過ぎ、十分に把え尽くさねばならない対象としてあり、まだその途上にあるため軽々に口に出すことを自分に戒めている、といった風にである。
▲『不良少女 野良猫の性春』より
彼が時に映画で見せるあるいはドラマを壊しかねないような戯作者的ポーズはいったい何を意味するのだろうか。それは、鈴木の影から逃がれようとするかの様でもあるし、更に深くその影響下に自らを置こうとするかの様でもある。具流八郎集団の一人としての彼から一個の個性としての曽根中生が際立つには、鈴木清順の呪縛を曽根が自身の手で解き放たねばならない様に私には思える。
文・吉国成己
「キネマ旬報」1973年6月下旬号より転載
日活ロマンポルノ
日活ロマンポルノとは、1971~88年に日活により製作・配給された成人映画で17年間の間に約1,100本もの作品が公開された。一定のルールさえ守れば比較的自由に映画を作ることができたため、クリエイターたちは限られた製作費の中で新しい映画作りを模索。あらゆる知恵と技術で「性」に立ち向い、「女性」を美しく描くことを極めていった。そして、成人映画という枠組みを超え、キネマ旬報ベスト・テンをはじめとする映画賞に選出される作品も多く生み出されていった。
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