中国映画が、とんでもない!ビー・ガン監督インタビュー
- ビー・ガン , ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ , 凱里ブルース , さらば、愛の言葉よ , ジャン=リュック・ゴダール , 中国映画
- 2020年03月13日
完全無欠の時を、わかりあえる夢を
東京にやってきたビー・ガン監督
ビー・ガンを取材した日は曇りだった。アテネ・フランセで「凱里ブルース」を初めて観た日も同じような天気で、スクリーンに映る空もまた灰色をしていた。クリス・フジワラ氏がその日の観客にむけて「It's a good film for such a bad day.」と話した。絶好のインタビュー日和だ。
グランドハイアット東京の部屋に入ってまもなく、煙草を吸い終えた監督がやって来る。来日してからホテルに缶詰になって、ずっと取材を受けていると聞いていたけれど、想像したよりも軽やかな表情をしていた。
取材が始まり、必ず初めに訊こうとしていた質問を投げかける。「監督が普段の生活の中で、美しいと感じる瞬間を教えていただけませんか?」すると返ってきたのは、こんな答えだった。
僕が「良いな」と思うのは、時間を気にせずにゆっくり眠れて、一旦起きたとしても「まだ眠れる」と思う時です。すごく怖い夢を見て飛び起きた時「夢でよかった」「ラッキーだった」と思います。
たまに見るのは、空中から墜落する夢です。ビタミンかカルシウムが足りないのだと思いますが(笑)。
そんな茶目っ気のある答えに思わず空気がほころんだが、同時に内心は「夢、きた!」と興奮していた。ビー・ガンが海外サイトのインタビューで「自分の映画は夢と記憶と時間についてのみ描いている」と語っているのを読んだことがあったからだ。だからとっさにその理由を訊ねてみる。すると返ってきたのは「夢、記憶、時間というのは、国境を問わず全人類の命題だと思います」という、至極シンプルな答えだった。では実際に彼は、どのようにしてそれらを映画に取り込んでいるのだろうか? 回り道をしながら考えていきたい。
まずは冒頭から話題に出た「夢」について。ビー・ガンが第一長篇「凱里ブルース」、第二長篇「ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ」でそれぞれ起用した、あの奇跡的な「長尺長回し」にも夢が深く結びついているのだという。
まず、私が長回しで引き受けようとしたのは「夢の質感」です。映画の尺が何分であろうと、作品が終われば観客はそれぞれの生活へと帰っていきます。彼らは実際に観た作品の残像や余韻しか持ち帰れないわけです。
しかし長回しを使えば、たとえフィクションだとしても、映画の中の主人公と自分が、同じ時間の量や尺を共にしたというリアリティが残ります。観客は抽象的なものを観ていると同時に、映画を撮っている人と同じ尺だけ時間を共有するということが実現できる。そういう理由で、長回しが有効だと感じました。
さらに「夢の質感」を強めるものとして、ビー・ガンは「ロングデイズ・ジャーニー」で3Dを起用した。身体のどこかで「現実的でない」と感じながらも物語に没入していく/画に訴えかけられる夢の感覚が、3Dメガネをかけて映画を観る時の身体的な違和感や、その映像効果と呼応するように感じたのだとか。そしてその手法を作品に取り入れるため、彼は仲間と映画史における3Dを研究し始めた。
「ロングデイズ・ジャーニー」の脚本を書いている時にジャン=リュック・ゴダールの「さらば、愛の言葉よ」(14年)を観て「なるほど、3Dというのは感覚を刺激する手法ではなく、映像言語として使うことができるんだ」と興味を持ち始めました。その後仲間たちと研究をして感じたのは、3Dはこれまで「斬新さ」を表現するため「感覚を刺激するもの」として映画に投入されてきたということです。3Dを「映像の美学にアプローチするもの」として使っている作品は少ないと感じました。そういった中で「ゼロ・グラビティ」(13年)や「ビリー・リンの永遠の一日」(16年)、ヴィム・ヴェンダースの「誰のせいでもない」(15年)など、先輩方の作品を参照したのです。
世界の映画界を席巻している監督だから当たり前なのだけど、なぜだか彼の口からゴダールやヴェンダースの話を聞くのは新鮮だった。「凱里ブルース」や「ロングデイズ・ジャーニー」で映された彼の故郷を観て、どこか遠くかけ離れた世界線での生活を想像していたからかもしれない。
ビー・ガンにとって重要な3つの要素のうち「記憶」の部分と明らかに深く結びついているのが、彼が今も生活を続ける凱里の土地だろう。めまぐるしい速度で進化・発展を遂げ、現在はごく一般的な、現代風の街になりつつあるという故郷について、彼はどのように考えているのだろう?
今起きている変化については、僕ではない誰かが表現してゆけば良いと考えています。僕はそこにかつてあったものや、記憶や脳裏に残像として残っているものに価値があると思い、映画の中に取り入れてきました。それが自分に出来ることだと思いますし、作品を通して、自分が生活していた凱里の姿がおぼろげに立ち上がってきたと感じます。また、今後も凱里を撮り続けると思います。今あるモダンな街は、自分の頭の中にある凱里とかけ離れているからです。
ビー・ガンが立ち上がらせようとする凱里の記憶には、その土地に住む人々も深く関係しているに違いない。出演者がほぼ監督の友人や親族で構成される「凱里ブルース」については勿論、中国で40億円以上の興行収入を記録し、有名俳優が主演する「ロングデイズ・ジャーニー」にも、ビー・ガンは親族をキャスティングした。そして彼らにもまた、変化は訪れる。
映画作りを介して徐々に、僕は身の回りの人々を深く理解するようになりました。平凡に見える人々にも波瀾万丈な物語があり、それぞれが人生を背負っていることを知りました。
同時に彼らの人生がゆるやかに変化していった例もあったようです。例えば「ロングデイズ・ジャーニー」に出演してくれた僕の異父兄弟は、勉強が全く出来ませんでした。しかし彼が「役者」ということで、地元で一番頭の良い高校に特別に入学させてもらったようなのです。僕は車で彼を学校まで送っているのですが、その道中、「ロングデイズ・ジャーニー」についての感想を訊ねると「本音を聞きたいか?」と言われました。「もちろん」と返すと「実のところ難解でよくわからない」と言われました。それを聞いた時、僕は少し落ち込みましたが、学校に到着する手前で将来の夢を訊ねると、彼は「将来は映画監督になりたい。だけど役者も引き続きやっていきたい」と答えました。僕はこれこそ最高の答えだと考えています。なぜなら、彼はすでに「わからないもの」を好きになってしまっているからです。
あの回転サーブの卓球少年が、いつか映画監督になることを願っている。こんなに愛くるしい知らせがあるだろうか。そして土地や人に変化をもたらす「時間」こそが、ビー・ガン映画の3つめのキーワードだ。
実際、この日のインタビューで最も印象的だった監督の発言が以下のようなものだった。
「凱里ブルース」
「凱里ブルース」では、時間をなるべく完全無欠の、甘美なる状態で表現したいと考えていました。過去や未来が同時に存在する時間そのものを、まるまる映像の中で表現したいということです。
過去でもあり、未来でもある「完全無欠の甘美なる時間」。その眩暈のしそうな言葉たちはいつしか、回り続ける時計や永遠を思わせた。このことは、彼がこれまで二作の長篇で「回転」にありったけの魔法をかけてきたことにも関係するのだろうか? 腹に力を入れて訊ねると、その答えにまたしても骨抜きにされてしまった。
(映画の中で回転を扱う)意図はとてもシンプルです。我々が生きているこの地球も、ゆるやかに回っていますよね。永遠なるものや美なるものをどうしたら表現できるかと考えた時、回転よりも優れた方法が思いつかないと感じたんです。「ロングデイズ・ジャーニー」のある重要な回転のシーンでは、遠い星が近づいてくるかのような、すごく微細な音を入れているのですが、それに気づく人はあまりいません。我々がこの星の回転について、普段気づかないのと同じように。
ビー・ガン主要短篇作品レビュー
「金剛経」
(12年、22分)
「The Poet and the Singer」の題でも知られる短篇。空を稲妻が突き抜けるような激しい雷の映像、その点滅で幕を開ける。冒頭と終幕のほかはモノクロで、映るのは男、煙、殺し。仰々しい劇伴や血とたやすく結びつきそうなそれらを、ビー・ガンは蝶々や川のたゆたい、詩で縫い合わせた。冒頭で電灯が点滅し「金剛般若経」が引用される「凱里ブルース」の完成に向けて立てられた、贅肉のない道しるべ。
「秘密金魚」
(16年、1分23秒)
「金馬奨」(中華圏を代表する台湾の映画賞)のため制作された広告映像。「ロングデイズ・ジャーニー」を「記憶や夢の中に墜落していく作品」と表し、空中から墜落する夢をよく観るというビー・ガンが、画面の垂直で遊びまくる(滝水、眠る人!)。撮影で野良猫がうまく撮れず、生態系を理解するために現在は4匹の猫と住み始めたという監督、この映像の鳥とはすぐに仲良くなれたのだろうか。使用曲はYang Yuyingの〈Gently Tell You〉
いどぬま・きみ/1992年生まれ、都内在住。明治学院大学卒。『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』などの上映イベントを企画。『肌蹴る光線 —あたらしい映画—』で18年、逸早く「凱里ブルース」を上映。