「SOSタイタニック 忘れえぬ夜」のストーリー
一九一二年四月のある朝、二等航海士ハーバート・ライトラー(ケネス・モア)は誇りをもって、処女航海に出ようとする世界最大の客船タイタニック号にのりこんだ。二十世紀造船技術の傑作と称されるタイタニック号は、サザンプトン港を出た。北大西洋に浮ぶ壮麗なこの巨船には、設計者トーマス・アンドルーズをはじめ、実業家、芸術家、上流人士、欧州各国からの移民、船員等々、二千二百七人の人々がのりくんでいた。四月十四日、日曜日の夜の十一時四十分、悲劇は始まった。目の前に突然現れた巨大な氷山を見張りが発見し、船が向きを変えようとした時、かすかな衝撃があった。その時、タイタニックの船腹は氷山の角で三十フィートも裂かれていたのだ。この致命傷に気づいた設計者アンドルーズは、船の生命があと一時間半であることを船長に告げ、離船準備を命令させた。ライトラー二等航海士の仕事は救命ボートを用意することだった。しかし乗船者の半分を救う量しか、ボートはないのだ。まず一、二等船客が、女、子供を先に乗りはじめた。通信士は必死にSOSを発信したが、十マイル先にいたカリフォルニアン号の通信士はもう寝てしまっていた。四八マイル先を航行していた定期船カルパチア号が、四時間で救援にかけつけると告げてきたが、それでは遅いのだ。海水は滝のように流れこんだ。三等船室に閉じこめられていた移民達が、われがちにボートに殺到した。ライトラーはやむなく威嚇射撃を行った。船は船首から海中に没しつつあった。船のオーケストラが、暗夜に“主よ御許に近づかん”をかなでていた。衝突後二時間四十分で巨船は多くの客と共に海中に没した。船長スミスも、設計者も海底に消えた。ライトラーは辛うじて転覆したボートにすがって、急行したカルパチア号に救助された。生存者僅かに七百五人、実に千五百二人が大西洋のもくずとなった。翌朝、遭難現場を通過する船上から、ひとりライトラーは悲劇の海を見詰めた。