「ライン悲愴曲」のストーリー

プロシア中興の英主フレデリック大王の波瀾に富んだ生涯の物語である。1700年代プロシアが未だ弱小であった頃、その王フレデリック・ヴィルヘルムは、鉄の如き意志と励精倦むことを知らぬ努力とを以てプロシア国を強大になさんと志した。彼は王子がフランス文学や音楽に心酔するのを快からず思っていた。で、父子の間の性情の相違は常に一抹の暗影を宿し王子は父に対して、子としてでなく奴隷として待遇する事を難ずるなど、反抗の気をも示したのである。その後、王子は遂に堪りかね、友人カッテ中尉と共にプロシアを脱れイギリスへ走らんとした。が、事未だ成らずして発覚し、二人は捕えられた。その上、カッテの死刑に王子をしてそれを目撃せしめさえした。しかし、やがて王子の心中にも、「汝の総ては国家に属す、汝個人のものに非ざる」自覚が生れて来た。父子の間は次第に緩和せられて行った。好個の青年武人たる王子フリッツにも軍事一方のみの生活が続いた訳ではなかった。父王の命によって結婚した新妻プランスウィッヒ侯の姫エリザベートとラインスベルクの離宮で送った月日は、後に至っても王子にとっての楽しい想出となったものである。父と子の間の長い長い確執も父王の落命の床に於て始めて結ぼれが解けた。そしてフレデリック第二世が位に即いた。後年称してフレデリック大王と云われたのはこの人である。フレデリックは当時流行の法律の弊害を認め彼は貴族からより多くの税を徴し、拷問を禁じ信仰の自由を認めた。しかしオーストリアにマリア・テレザが王位に即いて後、大臣カウニッツ伯は策を巡らしフレデリックを陥れんとした。が、大王の機知はロシア、オーストリア、フランスの連合軍の包囲の内にあって能く苦戦を続けて行った。而して自ら汚い百姓家を本営として策戦に余念なかった。この時、内憂外患一時に起り、フレデリック遂に立つ能わざるやを憂わしめたが、老将等の忠誠は彼をして再び立って戦わしめた。そして紀元一七五七年十二月四日、暁の雲をついてロイテンの丘にオーストリア軍とプロシア軍との決戦の第一発は轟いた。苦戦、そして悪闘。が、勝利はプロシアにあった。フレデリックの頭上には栄光があった。