「巨人 大隈重信」のストーリー

明治元年三月二十三日天皇に謁見する為、皇居に向っていた英国公使パークスの行列に二人の暴漢が襲いかかった。時を同じくして、長崎で国禁のキリシタン四千名を処刑しようとしたところ、教徒が外国公館に訴え列国は強硬な抗議をしてきた。誕生間もない新政府の命とりにもなりかねないこの二つの事件。この難局に、大隈重信は伊藤博文、井上馨の推挙によりあたることとなった。大隈三十一歳の時である。パークスの頑強な談判の前に“法律は他国の圧迫によって改められるべきでない”と論破する大隈の言は若輩ながら見事であった。事件の落着をみた翌年、大蔵、民部を兼任することになり妻綾子をめとった。しかし、大隈の欧米流の考えについてゆけない重臣達は事あるごとに彼の失脚を狙っていた。首席参議になった大隈は、藩閥政治の弊害を破り、憲法をつくり、国会を開設しようと奔走したが、これを敵視する政府をはじめ、親友伊藤までが、彼の罷免を決定した。これを知った世論は、大隈側についた。かくて政府は国民感情を鎮める為、政商保護を取消し、明治二十三年には国会を開設するという公約を発表した。これを時と大隈は野に下り、立憲改進党を組織し、早稲田専門学校を創立した。あらゆる苦難をのりこえた大隈の新事業も、時を経るにつれその真意はくまれた。明治二十一年、再び政界に入り不平等条約改正に着手した大隈の前に、反対派の声がはばんだ外国人判事に裁判権を持たしたという事に意を曲げているのだ。しかし信念を曲げない大隈の言論は、天皇の御裁可を戴き新条約は成立した。これをよしとしない右翼、玄洋社の壮士来島恒喜に大隈は狙はれ片足を失ったが、明治三十五年、早大創立二十周年の祝詞は、巨人大隈を讃えていた。