「空を拓く 建築家・郭茂林という男」のストーリー

1965年、日本中が前年に行われた東京オリンピックの余韻に浸る中、前代未聞の超高層ビルの竣工式が行われた。まだ高さ制限31mだった1960年代前半、このビルの建築チームにリーダーとして参加したのが、戦前に台湾から海を渡り、戦後も日本に残った建築家・郭茂林だった。それから4年。1968年(昭和43年)に日本初の100メートルを超す超高層ビル“霞が関ビル”が誕生。これをきっかけに、日本は一気に超高層時代へ向かう。東京大学で建築を研究し、精鋭メンバーを率いてこの巨大プロジェクトを成功へと導いた郭は、当時の建築基準法改訂にも尽力。H型重量鉄骨の開発、各種建築新工法などを考案し、数々の超高層ビル建設に参加する。浜松町の世界貿易センタービル、新宿の京王プラザホテル、池袋のサンシャイン60……。彼の手による建築物は、次々と日本一の高さ記録を更新。そして、新宿副都心開発を手掛けた後、台湾の台北駅前にある新光三越ビルも設計し、初代台湾人総統の李登輝と共に台北の都市開発を推進する。数えきれないほどの実績を積み重ねながらも、売名行為をせず、常に第一線を走り続けた建築家・郭茂林とはどんな男だったのか。2010年秋、90歳を越えて故郷・台北を訪れた郭は、そこで自分の半生を見つめ直し、建築家としての原点を探す。2012年4月、帰国後90歳にて永眠。常に未来を見据えてきた建築家の半生を振り返る。