【連載】『原一男のアメリカ凸凹疾走ツアー第1回』米MoMAで特別上映された鬼才・原一男監督、マイケル・ムーアと再会!

原一男のアメリカ凸凹疾走ツアー【連載1】

2019年6月、北米4カ所にて、ドキュメンタリー監督・原一男の大々的なレトロスペクティブが開催された。MoMAなど由緒ある団体が、単独の日本人監督の回顧上映を催すのはひじょうに希なことであり、原監督の世界的評価を裏付けるものといえよう。上映に合わせ現地へと赴いた原監督。果たして、日本が誇るドキュメンタリーの“鬼才”はアメリカといかに出逢ったのか? 監督自らが綴る旅の記録、短期集中連載第1回「マイケル・ムーアとの約束」!!

プロローグ〜全作品のDCP化

今回のアメリカ&カナダツアーは、MoMA(ニューヨーク近代美術館)、トロント大学、ロバート・フラハティ・セミナー、そしてハーバード大学フィルム・アーカイブの4カ所で上映に合わせたもの。それぞれ歴史ある団体だが、と相方のプロデューサー、小林佐智子の飛行機代、移動費・宿泊代など経費を捻出するのは、彼らも大変だっただろうと想像に難くない。
だが私たちも、相当に大変だったのだ。上映のフォーマットは、ちょっと前まではフィルムだった。だが現在は、映画祭のほとんどが、DCPというフォーマットに全世界的に変わりつつある。主催者側から、DCPで私たちの作品を送ってほしい、という要請を受けてからが大変だった。私たちはDCPなるフォーマットを作ってなかったのだ。今回は、一挙に全作品を上映することになり、ということは全作品をDCP化せざるを得なくなったわけだ。この費用がばかにならない。1本の単価が高い上に全作品だから、貧乏プロダクションには、とてつもなく高額になる。プロデューサーの小林と、現在、我が疾走プロダクションの業務を支えている島野千尋女史の悲壮感漂う頑張りで、奇跡的に、DCPバージョンを作り上げた。ホントに大変だったのだ。出発の当日まで、我々のチームは、ネガフィルムからデジタルデータを作成し、DCPを作成し、それぞれの主催者に発送作業をするなど、不眠不休での作業が続いた。
さて、なんとか間に合ってホッと一息ついたところで、私と小林の2人だけでは移動など肉体的に厳しい面がある(註1)、ということで島野女史も加えて3人のチームとなった。我々のスケジュールはもちろん、上映作品・講演企画、我々の移動・宿泊の経費などの交渉は難事業だっただろうと思うが、我々のチームに参加してくれているNY在住のベテランプロデューサーの黒岩久美さんが一手に引き受けてくれて、今回のツアーが実現したのだ。が、そのことを逆に言えば、私に対する期待度が大きいという証左でもある。私は相当に緊張してアメリカ大陸へと旅立った。

註1……原監督の長年のパートナーである小林佐智子さんは、「ニッポン国VS泉南石綿村」の完成直前に骨折。その影響もあり、今回の旅では車椅子を使用する必要があった。

“鬼才”MoMAに降り立つ!

私たち疾走プロの全作品のレトロスペクティブを組んでくれたMoMA が用意してくれたホテルは、MoMA から1ブロック北の「Warwick」ホテル。後で聞いたのだが、私が泊まった部屋は、かの有名なハリウッドの大スター、ケイリー・グラントが泊まった部屋なのだそうな。へえ、と驚いたのなんの。さらに、ビートルズローリング・ストーンズも泊まった、という名門ホテルだったのだ。
今回のMoMA は、疾走プロのドキュメンタリー5作品のみならず、日本では大コケにこけて、批評も全く無視された劇映画「またの日の知華」(04)も含んでのレトロスペクティブである(会期:6月6日~14日)。MoMA 側は、私が登場する初日に、なんとマイケル・ムーア監督をトークゲストとして呼んでくれていた。ご存知マイケル・ムーア監督は私など足元にも及ばない、世界的な人気監督である。そのおかげだろう、満員の観客で幕を開けたのだった。
マイケル・ムーア監督とは、実は2007年4月、ミシガン大学の主催で対談をしたことがある。私は彼と、アメリカのドキュメンタリーと日本のドキュメンタリーの違いについて存分に語り合いたい、と願っていた。が彼の新作「シッコ SiCKO」(07)が完成したばかりということもあって、2時間の対談時間の大半は、その新作についての話題で占められてしまった。私がしつこく、彼自身の、作り手としての内面の葛藤を聞きたくて、話の流れを変えようとするのだが、一貫して彼は新作の話に終始した。私の意図が完璧に裏切られたという悔しい記憶が残っていて、今回もまた彼の自慢話になると困るなあ、と不安だった。そんな危惧があったが杞憂だった。
マイケル・ムーア監督いわく、ワシントンで「ロジャー&ミー」(89)の編集をしているとき、気晴らしに散歩に出た時に街の小さな映画館で、タイトルも聞いたことがないドキュメンタリーが上映されていて、ふと入って観たのが「ゆきゆきて、神軍」(87)だったのだそうだ。「ロジャー&ミー」のラストでムーアは、当時のゼネラルモーターズの会長であるロジャー・スミスにアポなし突撃インタビューをしているが、無謀過ぎるかと彼は不安だった。が「神軍」では、主人公・奥崎謙三は、夜討ち朝駆け、相手が真相を言わない時には、殴る蹴るの暴力沙汰。監禁して脅迫するなど屁の河童、そんな奥崎にびっくり仰天した。自分のやり方など可愛いものだと安堵した、と、その時の思い出を率直に披露してくれた。
実は「神軍」がアメリカで初上映されたのが1988年の「ニューディレクターズ・ニューフィルムズ」という映画祭で、まさに、ここMoMA が、上映した場所だった。その時、上映後に私は人生の中でたった一回だけのスタンディングオベーションを受けた。このエピソードを今回、観客に披露すると、それを受けて、マイケル・ムーアが「今日の上映はスタンディングオベーションがなくて残念でしたか?」といったものだから、観客たちが全員立ち上がって、なんと、スタンディングオベーションが始まったのだ。私は恥ずかしいやら照れるやらで、なんと形容していいのかわからないが、マイケル・ムーアの友情に心から感謝したのだった。

友よ、また会おう

ケン・ジェイコブス(左)とマイケル・ムーアとともに

マイケル・ムーア監督とは、過去にいくつか因縁話がある。「キャピタリズム~マネーは踊る」(09)が日本で公開されることになり、そのキャンペーンで彼が日本にやってきたとき、東京での試写会に彼に会いに行った。再会を喜んだあと、彼は、私が大学教授を務める大阪芸術大学に行ってみたい、と言い出した。なぜ私の勤務先に彼が興味を持ったのかは理解できないが「どうしても、見てみたい」というのでOKした。そして彼はホントに、大阪芸大にやってきたのだ。映像学科の大森一樹学科長と相談して、せっかくだから授業を一コマ、やってくれるかい? と頼んだら、気さくにOKと言ってくれた。用意した教室は、いつもの私の授業とは比較にならないくらい多くの学生で溢れかえって、盛り上がった。大学側は、一銭の報酬も払わずに大物監督がゲストに来てくれたのだから、大喜びだった。
それからもう一つ、ミシガン大学での対談の後、マイケル・ムーアが自ら出資して映画祭を運営している、そこに私を招待するから来るかい、と聞いてきたのだ。私は、もちろん二つ返事でOKした。で日程が迫ってきて、映画祭のスタッフから私の事務所に電話がかかってきたようなのだ。だがそのとき、事務所の固定電話が故障中。結局、私と連絡がつかないということで、その話が流れてしまった。私はムーアにその時の事情を説明して、「私は、あなたとドキュメンタリーの話をきっちりとやりたい。だからあなたの映画祭に私を呼んでほしい」と申し入れた。「わかった。この場で、あなたを招待することを決定する」という答え。今回のツアーは私にとってとても大きな収穫があったツアーだが、このマイケル・ムーアとの対談という企画が決まったことが、最初の収穫になったのだ。

日本から遠く離れて

左から原監督、小林佐智子PD。イベントに駆けつけてくれた想田和弘夫妻とともに

MoMA では、他にも嬉しいことがあった。アメリカ実験映画界の巨匠ケン・ジェイコブス監督(註2)が夫妻できてくれたことだ。彼との会話で最も印象に残っていることは、「知華」のラストで知華が殺されるのが、悲痛だった、と言ったことだ。「なぜ、知華は殺されなければならないのか?」と私に聞いてきた。「知華」は小林佐智子のオリジナルシナリオだから小林に「あなたが答えて」と振った。小林は「元々は、体育の女教師が次々と男を変えていって転落して、最後は男に殺されたという週刊誌の小さな記事を見つけて、それをモデルに書いた。なぜ殺されたのか、と私もその謎を解こうとしてシナリオを書いたのだ」と説明。その場に、私と同じくらいの年齢の男性がいて、私は「知華」は大好きな映画だ、と言ってくれて、しばし「知華」を巡っての論争の場になった。「知華」は、日本ではほとんど無視されたが、こうしてNYで、熱く語ってもらえるなんて、なんて幸せなことだろうか。
もう一人、再会できて嬉しかった作家がいる。「さようならCP」(72)をまだ観てなかったので、と足を運んでくれた津野敬子監督(註3)。私はNYに来るたびにこの人を訪ねる。いつも、大きな刺激を受けるからである。今回も上映後の短い時間だったが、彼女の近況を聞いた。津野さんは、若い頃、NYに来て、ダウンタウンに住みつき、自分の作品を作り始め、評価を受けてきたが、この人の凄いところは、自分の作品づくりのみならず、NYで有色人種として差別を受けてきた子供たち、貧困ゆえに真っ当に教育を受けていない子供たちを集めて映像教育を実施していることだ。チャイナタウンの一角に、古くなった消防署のビルを借りて、そのビルを少しずつ改造しながら、教室を作り、撮影機材、編集機材を買って、子供たちに映像作りを教える。いやそれだけではない。人間教育を続けているのだ。前回(昨年)訪ねたときに、映画館を作りたいんですよ、と語っていた。消防署だった建物だから、空き空間はまだまだある。だから様々なところから助成金をもらいながら、ホントに粘り強く活動を続け、とうとう映画館を持てるところまで辿り着いたのだという。聞いてるだけで胸が熱くなる。私だって「CINEMA塾」(註4)を計20年近く活動をしてきているから、自分たちの映画館を持ちたい、という夢はよく分かる。津野さんは、映画屋なら多くの人が持つ、その夢を叶えてしまった。それも、アメリカ社会の中で、差別と貧困の中で生き、人として誇りを持ってほしいと願っている、その子供たちのために、である。

【第2回に続く】

 

註2……アメリカ実験映画の代表的作家のひとり。「トム、トム、笛吹きの子」(69)など、映画の構造そのものをコンセプトとする作品で知られる。

註3……ビデオジャーナリスト。1972年に夫のジョン・アルバートとともにNYに設立したDCTVは、アメリカで最も歴史ある市民メディアセンターとして知られている。

註4……1990年代後半に原一男が立ち上げた、新しい時代の映画人を育成するための私塾。映画製作のほか、公開セミナーなどを多数実施している。

出展:『キネマ旬報』2019年9月上旬号より

 制作:キネマ旬報社


【筆者プロフィール】
原一男(はら・かずお)
映画監督。疾走プロダクション代表。1945年、山口県生まれ。
ゆきゆきて、神軍」(87)、「全身小説家」(94)等で知られる日本屈指のドキュメンタリスト。
新作「れいわ一揆」が待機中。

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