『原一男のアメリカ凸凹疾走ツアー第3回 』ドキュメンタリーの聖地に立つ!
- 原一男
- 2019年12月16日
2019年6月、北米4カ所にて、ドキュメンタリー監督・原一男の業績を称える大々的なレトロスペクティブが開催された。それに合わせ現地へと赴いた原監督(プロデューサーの小林佐智子、島野千尋が同行)。果たして、日本が誇るドキュメンタリーの“鬼才”はアメリカといかに出逢ったのか? 監督自らが綴る旅の記録、第3回!!
国境線を越えて
▲出発前のホテルでの1コマ。これからの”戦い”に備えて休息をとる。
次の目的地は、ロバート・フラハティ・セミナーが開催されるコルゲート大学だ。所在地はニューヨーク州の中央部にあるハミルトン郡なのだそうだ。
ニューヨークといえば、マンハッタンしか知らない田舎っぺ(?)の私は、へえ、アメリカってやっぱり広いんだなあ、と感心するばかり。そのコルゲート大学へは、陸路を車で移動することになった。トロントを出発する朝、私たち3人(原、小林、島野)を迎えに来た車は、大型のSUV。乗り心地は最高だ。フラットな道のりを快適に飛ばす。
4時間くらい走っただろうか。右手にナイアガラの滝が見えてきた。ちょっと寄り道して近くで見たかったが、時間の余裕がなかった。滝のすぐそばにカナダとアメリカの国境があり、検問所があった。
私たちが海外へ行くとき、ほとんどが飛行機を利用する。だから、「国境」というと、空港での入管や税関の手続きがすぐに想起される。実は、陸路で出入国するのは、私にとっては初めての経験であり、内心かなり緊張していた。それは最近の、空港での厳しいチェックの体験からくるものだ。しかし、同時にワクワクもしていた。国境が持つ独特のイメージに魅かれていたからだ。
私は映画の世界に足を突っ込む以前は、報道写真家になりたかった。世界の国境線をテーマにした写真集を出したい、と考えていたことがあった。私たちの国ニッポンは島国だ。だから隣り合う国の間に引かれた国境線という存在に憧れ(?)に似た気持ちを抱いていたのだ。陸続きでありながらふたつの世界に分断してしまう国境線。ベルリンの壁。アメリカとメキシコを分断する有刺鉄線。同じ民族でありながら憎しみと悲しみを生みだす元凶である北朝鮮と韓国の軍事境界線……。私の想像力は果てなく広がる。そのカナダとアメリカの国境の検問所。厳しいチェックがあるはず、と私の心は躍っていた。
だが、実際見てみると、その検問所は、高速道路の料金所とほぼ同じ造りであった。我々は車から降ろされることもなく、パスポートを係官に渡して待つこと1分少々。係官が無愛想な顔で、通ってよし、というジェスチャーで首を振って、無事通過。あっけなかった。空港でのそれとは大違いだった。
緑の中の聖地
そこから1時間ほど走っただろうか。風景が変わってきた。人家が少なくなってきて、緩やかな丘状の畠や林が多くなってきた。やがて、辛うじて街としての佇まいを感じる程度になり、ついに目的地のコルゲート大学に着いた。特に大学の門があるわけでもなかった。樹々も整頓された感じで、緑が美しく、校舎の目の前に池があり、広大な敷地が広がっていた。驚いたのは、建物と建物の間の距離が、日本の大学と比べものにならないくらいゆったりとしていることで、ああ、こんな環境で学べたら素敵だろうなあ、と思えたのだ。
とりあえず、主催者側のスタッフが、我々が泊まる宿舎に案内してくれた。車で5分ほどの移動。横田基地周辺にある米軍住宅のようなハウスが我々の宿舎だった。中は、質素でシンプル、設備はホテルほどではないものの、十分な広さがあり、これはこれで1週間を快適に過ごせそうだった。
言い添えておくと、他のゲストは、学生寮で合宿するような感じだったというから、車椅子で移動しやすく、階段の昇り降りのないフラットな宿舎を選んでくれたのは、小林と私に対する特別な配慮だったのだろう。
ところで、ロバート・フラハティという人物がどんな人か、ご存知だろうか。 ウィキペディアには、こう紹介されている。
〈ロバート・ジョセフ・フラハティ。アメリカ合衆国の記録映画作家、映画監督。ドキュメンタリー映画の父として知られる。映像作品にドキュメンタリーの語が用いられたのは、フラハティの「モアナ」を紹介する1926年2月8日付のニューヨーク・サン紙の記事が最初とされる。〉
ドキュメンタリー映画史上欠かすことのできない、超有名な人物の名前を冠しているわけで、それだけでも、このセミナーが掲げる高邁な理想を想像できるだろう。アメリカが映画大国であることは誰しも認めるだろうし、様々な映画関連の団体が存在するのだが、その中でも、このロバート・フラハティ・セミナーは群を抜いて特異で、映画を学ぶ者にとっては、ある種の聖地のような輝きを放っている。
▲コルゲート大学の宿舎。空の広さも忘れがたい
真剣勝負のあとで……
さて翌日。セミナーは夜からスタートということで、私のミッションとしては、午前中にマスタークラスが組まれていた。聞けば、このマスタークラスは、世界各地から選ばれたスカラシップたちのために特別に組まれたプログラムということだ。30歳前後の若い人たちが35人。これまでも国内外の数々の映画祭でマスタークラスを受け持ってきたが、ここは一味違っていた。一般の映画ファン向けというトーンではなく、大学の特別講義ふうなのだ。それは私にとっても、願ったり叶ったりだった。
いざ講義を始めてみると、いつものおもしろおかしく、というノリではなく、真剣勝負のようなピンとした空気が場に張り詰めてきた。それは、スカラシップたちの目の色が違っていたからだ。持ち時間は2時間。遠いアジアの、日本からの講師の話を聞くのは初めてだろうなあ、と思いつつ、私自身、これまでのマスタークラスより格段に緊張感を持って彼らに語りかけた。聞いている彼らも、私を注視して目をそらすことがなかった。非常に空気が濃い時間だった。2時間の持ち時間とはいえ、通訳が入るから実質は1時間。持ち時間が終わったとき、ああ疲れた、でも内容的にはまだ半分。もっと話したい、と感じたのだった。
そんな心地よい疲労に見舞われながら、お昼は大学の食堂でとることに。教師や学生たちがグループで食事をしながら議論できるようにという配慮だろう、広い空間に、大きなテーブルが多く設置されていた。メニューは、ビュッフェ方式。なかなかバラエティに富んだ豪華な食べ物が並んでいて、日本の大学の学生食堂の安かろう、不味かろうの貧しいメニューとは天地の差だ。
ご存じの方もいると思うが、ヨーロッパのほとんどのホテルがビュッフェ方式の朝食付きだ。珍しいものだから、あれもこれもとつい欲張って皿に大盛りにしてテーブルに着く。そして食べ始めてすぐに「しまった、取りすぎた」と気づくのだが、残すともったいない、と思い、頑張ってお腹に詰め込む。決まって、ああ、食べすぎた……と後悔するのが落ち。ここのビュッフェも、そうだった。幸い、セミナーは夜からだったから、宿舎に戻って昼寝をすることにした。
もっと激しい議論を!
さて、いよいよだ。20時から、ロバート・フラハティ・セミナーの本番が始まった。私たちのデビュー作「さようならCP」(72)が、オープニング的な意味合いを込めて上映された。これは素直に嬉しかった。今回のアメリカツアーのために、島野君と小林とが、お金のやりくりから技術的な問題点まで様々な課題を抱えながら、DCPを作ってくれたおかげだ。こうして鮮明な画面を見ていると、苦労した甲斐があったんだなと思う。二人とも、ご苦労さん。
上映後は、討論するための場が別に設けられていて、全員移動。さっそくディスカッションが始まった。とある男性がその口火を切ったのだが、なんと痛烈に、非難的な口調。あなたたち制作者は、横田さんをはじめとする障害者の人たちに対して、とてもひどいことをしている。被写体となる人たちに、撮影のアポイントを取ってから撮影したのか? と。撮影中に、映画をやめたい、と言い出した横田に対して私と「青い芝の会」(脳性麻痺者自身による問題提起などを目的として組織された障害者団体)のメンバーが頭にきて横田家に押しかけ、私が喧嘩を売りながらカメラを回したシーンを指しての発言だ。場が一気に緊迫した。
私は彼の意見に苦笑いをしながら聞いていた。「CP」が完成して初めての上映会を、東大全共闘の学生たちが駒場の大教室を借りて実施してくれたときのことを思い出していた。このときも、上映後のQ&Aの場で、映画に対して、というより、主人公の横田たちに対する私たちの態度がひどいということで、非難囂々だったのだ。
せっかく率直に「CP」に対して反感を表明してくれたのだから、売られた喧嘩は買ってこそ、ディスカッションである、さて、どう反撃しようかとあれこれ考えていたら、司会者から、もう少し他の人の発言を求めましょう、とお預けを食らった。すると2番目の発言者は、そういう失礼な言葉を製作者に向けるべきではない。もっと冷静に製作者の意見に耳を傾けるべき、と援護してくれた。その後は、散発的に批判する意見はあったものの、冷静な空気の中で質疑応答が続いた。もっと激しい議論を期待していた私は、正直、不発だったなあ、と思った。
この「CP」は私たちの作品の中でもっとも説明的な要素が少ない。だから、一見して分かりにくいという印象を多くの観客が抱くと思っている、と断った後で、私は、横田とこの映画を作るにいたったいきさつ、「青い芝前史」とでも言うべきエピソードを語った。ディスカッションの時間は、1時間を目処にと決められていて、司会者が私の話を遮ろうとしたが、もう少し長く話をさせてほしいと断り、話し続けた。私にすれば「青い芝前史」を知ってこそ、この作品の思想性やテーマが理解できる、と思うからだ。一気にまくし立てる私の話にみんなじっと耳を傾けてくれた、と思う。時間は大幅にオーバーしたが、やはり喋って良かったと思っている。
▲上映後のディスカッションにて。いささか大人しい議論に、物足りなさが残った
ここでセミナーの構成を説明しておこう。午前の部は、朝9時から上映がスタートする。午後の部は、ランチ後、14時から。そして夜の部は、ディナーの後、20時から上映開始だ。上映後にディスカッションという流れはいずれも同じ。どんな作品が上映されるかの事前の情報は一切ない(この作品、前に観たから私は観なくていいわ、ということのないようにという配慮だそうだ)。この構成から窺えるように、朝から晩まで、いや夢の中まで、映画をめぐって論争しなさいよ、と参加者たちはアジられているのだ。建前は、そうなのだ。が、どうも現実はそうなってないのでは、と私は不満を募らせていった。
何が原因なのだろうか? ひとつには、司会者が、参加者の発言を議論が膨らむような方向へと導いていないように思える。ふたつには、プログラムされた作品の多くが、そもそも議論を呼ぶような作品ではないのではないか。ジャンルは実に様々だ。実験映画、アニメーション、劇映画ふうなもの、日記ふうなもの、昔のフッテージを集めたもの……。だが、私からみれば、どれも小粒すぎる感じだ。私たちの「CP」が唯一、議論を誘発する作品じゃないか、と思うほどだ。
今回のセミナー全体のプログラマーのシャイ・ヘレディアさんが、「CP」をオープニングに持ってきたことで論争が起きて良かった、と言っていたことを後で耳にした。そうなんだ、やはり主催者は、激しい論争が起きることを期待しているんだ、と私は納得した。(次回へ続く)
制作:キネマ旬報社
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【筆者プロフィール】
原一男(はら・かずお)
映画監督。疾走プロダクション代表。1945年、山口県生まれ。
「ゆきゆきて、神軍」(87)、「全身小説家」(94)等で知られる日本屈指のドキュメンタリスト。
新作「れいわ一揆」が待機中。