孤高の監督の3作を公開する〈ニナ・メンケスの世界〉、著名人コメント到着

 

孤高の監督ニナ・メンケスの初期2作「マグダレーナ・ヴィラガ」(1986)「クイーン・オブ・ダイヤモンド」(1991)、ならびに現時点での最新作「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」(2022)が、〈ニナ・メンケスの世界〉と題して5月10日(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国で順次公開される。著名人のコメントが到着した。

 

「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」 © BRAINWASHEDMOVIE LLC

 

〈コメント〉

「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」によせて
石川慶(映画監督)
ニナ・メンケスは映画史を丹念に紐解くことにより、いかに映画言語の中に“男性のまなざし”が潜在的に組み込まれているかを突きつけてくる。映画を作る者すべてが(たとえ女性であっても!)、無意識に性差別的な言語を使ってしまっているということだ。まるで呪いだな、とゾッとしながら今準備中の映画のショットの総点検をはじめている。

伊藤さとり(映画パーソナリティ)
主人公の眼差しだけで紡がれるショット。
それは彼女が性的搾取されることでの虚無と怒り。
この視点を撮り続けたニナ・メンケスのドキュメンタリーは賞賛された映画達に潜む監督の性的視点がもたらす影響。
全世界の男性製作陣、映画ファンに観て欲しい。
これは映像社会への問題提起であり、未来への改善提案。

「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」によせて
伊藤詩織(映像ジャーナリスト)
巨匠と呼ばれる監督達による数々の映画作品を垣間見ながら、私は何度も、何人もの俳優たちを搾取してきたのだと気付かされた。これまで違和感に感じていた、言語化できなかったもやもやを、ニナ・メンケスは多くのエビデンスと共に可視化してくれた。カメラによって切り取られてきた女性の体、それは映されている者をモノ化して見る、支配的な目線を観客に与えるのだと多くの監督は強く認識しなくてはいけない。これからの映画体験を永遠に変えてくれたことに感謝する。

「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」によせて
上野千鶴子(社会学者)
映画の観客は男の視線によって「洗脳」されている。1975年にフェミニスト映画批評家、ローラ・マルヴィが歴史的な論文で理論化した、「男のまなざし」が、半世紀後に#MeToo運動を経て、ニナ・メンケスの手によって過去の映像作品の引用の織物としてみごとに視覚化された。ジェンダー化された視覚言語と映画界の雇用の性差別と性暴力は互いに結びついていることが、100本の論文を読むよりよくわかる。

「マグダレーナ・ヴィラガ」によせて
オートモアイ(アーティスト)
ニナは不可視化される暴力を決してなかったことにせず、真っ直ぐと見据えながら美しく鮮烈に切り取る。現実世界と心象世界が交差するマグダレーナ・ヴィラガ。主人公アイダは深い闇へ堕ちていきながらも孤独ではない。誰にも触ることのできない心の中の海には常に姉妹がいるから。祈りのような言葉が響く「ここには誰も来れないって覚えておいて」。私達は時代を超えて呼応する。物語の魂に、プールサイドのシスターフッドに。

「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」
呉美保(映画監督)
「巨匠」の「名画」で築き上げられてきた歪な価値観。誰も疑うことなく継承してきた不平等な性の映像表現。ニナ・メンケス監督は、錚々たる映画を次々と喝破する。この時代、この日本で、この映画が公開されることに、大喝采を送りたい!

北原みのり(作家・ラブピースクラブ代表)
女たちが無意識に従っているもの。それは法律などではなく、「男の眼差し」である。「男の眼差し」を徹底的に分析し批評し抗い闘い、その上で新しい希望を創造していこうとするフェミニズムの原点がここにある。苦しみの原点に向き合うことは自分への信頼、女への信頼を取り戻すことなのだと知る力強い映画。

「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」によせて
鴻巣友季子(翻訳家・文芸評論家)
ヒッチコック、ゴダール、デ・パルマ、タランティーノ。映画とは未知の広い世界を見せてくれるものだと無邪気にも思っていた。ところが、スクリーンのむこうにあるのは「世界」ではなく、視覚言語を駆使した男性のまなざしの再現だった。メンケスの映画を観れば、フィクションの見方が変わる。

「クイーン・オブ・ダイヤモンド」によせて
五所純子(文筆家)
灼ける光。褪せる砂。観音開きでひらかれるギャンブルとウェディング。いかにも興奮/鎮静、成功/失敗、幸/不幸と結ばれそうなものたちが、徹底して結ばれない。まるで麻酔でも打たれたみたいに、単純労働のリズムで広がっていく、微温的な地獄。うっすら流れる「イパネマの娘」がボサノヴァは暗い音楽だということを、だらりと続く結婚式がハッピーエンドは死だということを、思い出させてくれた。ラストシーンの爽快さ、あの車は家畜から野生化した馬のマスタングだろうと見なしつつ、ヒッチハイクが女を楽園に導くことはあっただろうかと映画史ごと走り去る。干からびた西部劇。夢のように退屈なアメリカ。喉が乾いた。

古谷田奈月(小説家)
女の虚無、男の空虚さ、社会の上に広がる虚空—──ニナ・メンケスのまなざしを通すと、“無”にこそ血や肉が備わっているように見える。独自のサーモグラフィーでそれらを感知し、メスを入れるべきはここだと示しているように。そのようにして暴き出されるのは、事実、すでに深く血肉化している私たちの病理だ。病巣は膿んでいる。ひどくいやな臭いもする。でも、だからこそ幸運だ、メンケスに見つめられたところから私たちは変わっていけるのだから。

「マグダレーナ・ヴィラガ」によせて
スズキエイミ(現代美術家)
心を蝕み慰め合う娼婦達の空虚な日々、1人の男が殺された。
“マグダレーナ・ヴィラガ”で描かれる青色は憂鬱であり、聖なるもの、そして忌まわしきもの。
それらの青は、血の赤色を引きたてて、アイダの精神の形を表象していく。
監督が、主演を務める自身の妹と心を通わせていることが手に取るように伝わってくる。
その呼応がこの映画の大きな基盤となって息づき作品をより深いところへ導いているのだろう。
日本初公開、彼女達の呼応に触れてみて。

「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」によせて
岨手由貴子(映画監督)
映画史における「男性のまなざし」について、映画制作者として身につまされる思いで鑑賞しました。
女性やマイノリティに対して、どんな風にカメラを向けているか? 都合よく客体化していないか?
美化された犠牲の物語を描こうとしていないか? 私たちは立ち止まって考えてみる必要があると思います。
この明快かつ痛快な語り口に、笑っている場合ではないのです。

「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」によせて
田嶋陽子(英文学・女性学研究者 元参議院議員)
「夢のハリウッド」はレイプ・カルチャー発祥の地。日本にも「イヤよ、イヤよは、いいのうち」というレイプ・カルチャーはあるけれど、ハリウッドは興業収入シェア80%を占めるだけに、その影響力は世界的な規模で、罪深い。映画の中でレイプされた若い女性が「あなた、いい人。ハンサムね」とまで言わせられている。それだけに、アメリカのフェミニストたちの怒りは半端ではない。今、ハリウッドは変わる時期に来ている。

「クイーン・オブ・ダイヤモンド」によせて
玉田健太(国立映画アーカイブ研究員)
77分の壮大な時間体験──
「クイーン・オブ・ダイヤモンド」は、日常に永遠を映し出す

「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」によせて
鳥飼茜(漫画家)
何重にも仕掛けられた呪い、罠、それらはこれまで私達に「見られる」という甘い夢すら与えてきた。そして当然ながら、怒りと気まずさという屈辱を与えた。その支配関係を描く時にさえ、「男の目で」女を描いてしまった事に愕然とした経験が私にはある。「もはや自由だ」と思うだけでは自由は表現できない。彼女達が真摯に挑戦したように、足元に結ばれた幾つもの結び目を一つずつ解くことからしか自由は描けない。年を取り「男に見られる女」ではなくなっても、それでもまだ尚、女の私達は自由を求めている。

「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」によせて
野中モモ(翻訳者・ライター)
映画は罪深い。
ニナ・メンケスはその罪と魅惑の豊かな歴史を、たくさんの事例と証言をもって解き明かしてみせる。
もし彼女の視点が極端だと感じてしまうのなら、それこそ私たちの生きる社会がいかに男性による選別と承認を土台に設計されてきたかの証拠かもしれない。

「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」によせて
秦早穗子(映画評論家)
ニナ・メンケス最新作「ブレインウオッシュ セックス-カメラ-パワー」は、彼女が物語に寄せて、映像で表現してきた意図をより鮮明にする最新のドキュメンタリー・レクチャーだ。男の視線だけで創り上げられた論理、光と陰のトリックの中で浮上する女の像を逆転させる。歴史の道のりの中で、征服者たらんとした一方的驕り。何より、女が思い込んできた観念を破壊する。

樋口泰人(boid主宰・映画評論家)
ニナ・メンケスの映画は差別と抑圧と搾取の中で生まれた知性とともにある。
その論理は強固だ。始まりと終わりが確実にあるその始まりに向けて、彼女はゆるぎないショットを放つ。
それはわれわれの脳を直撃し埋め込まれていた無意識を爆破するだろう。脳は洗われ、映画とそれが示す世界の見え方が確実に変わる。
そんな場所からケリー・ライカートやグレタ・ガーウィクが生まれたのだ。

森直人(映画評論家)
正直、ぐうの音も出ない。我々はもはやニナ・メンケスの“反・洗脳”を通過せずには現代映画も映画史も語ることはできないだろう。極北的傑作「クイーン・オブ・ダイヤモンド」をいままで未見だったことも恥ずかしい!

山﨑博子(映画監督)
ニナとはカリフォルニア大学ロサンジェルス校大学院でお互いに映画製作に切磋琢磨した仲である。常になんらかのヒョウ柄の衣服をまとっていた彼女の集中力の高さはひときわ際立っていた。妹のティンカはとても美しく優しかった。選ばれた映画作家だけが勝ち得たミューズとなって、ニナの映像世界を唯一無二の存在にしていた。このたびようやく日本初公開となり、奇跡のようでとても嬉しい。

 

 

提供:マーメイドフィルム、Respond 配給:コピアポア・フィルム 宣伝:マーメイドフィルム、VALERIA

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