「モリエール」のストーリー

1622年1月15日、パリの中心地で室内装飾を営むジャン・ポクラン(アルマン・ドルカンプ)の息子として生まれた、ジャン・バチスト・ポクランは、富裕な幼年時代を送った。学校では、ラテン語を学び、休みには、祖父ルイ・クレッセ(ジャン・ダステ)に連れられて芝居見物にでかけたりしていた。母マリー(オディール・コワントパ)は、そんなジャン・バチストを可愛がリ、子守唄をいつも歌ってあげた。そのやさしい母が突然死に、その悲しい日に、酒を飲みご馳走を食べる医者たちの醜い姿を目のあたりに見てショックを受けるジャン・バチスト。成長しオルレアンの大学に法律を学びに向かったジャン・バチスト(フィリップ・コーベール)は、キリスト支配を確立しようとする秘密結社〈聖体秘蹟協会〉の狂信的な運動に反感をもち、民衆といっしょになって、町のカーニバルの日、反対運動を展開する。民衆の自由弾圧を企てる町の警察署長をまじえた〈聖体秘蹟協会〉の幹部、大学当局者たちは、四旬節に先だつ4日間の外出禁止を命じたが、その朝、群衆は仮面をつけて、禁足令をうち破って練り歩いたのだ。ジャン・バチストもその中にいた。警察からのがれるために入った芝居小屋で、彼は舞台に立つ美しい女優に心を奪われる。芝居を終えたこの女優とジャン・バチストは知り合い、夜の外に出た。カーニバルの最後を飾る花車か燃えながら二人のそばを走リぬけていった。これが女優マドレーヌ・ベジャール(ジョゼフィーヌ・ドレンヌ)とジャン・バチストとの運命的な出会いだった。マドレーヌへの愛はそのまま演劇への情熱となり、ジャン・バチストは〈王室附室内装飾業〉を棄てた。マドレーヌの母マリー・エルヴェ(ルーバ・グエルチコフ)の家でマドレーヌとその兄妹で〈盛名座〉が結成され、ジャン・バチストも加わり、芸名をモリエールと名づけた。 初演の失敗でパリを後にした一行は、南へと向かった。モリエールらの巡業が続く。折りからルイ13世が死に摂政の時期にあったフランスは、貧しく人々は飢えていた。一時はコンチ大公(イヴ・グールヴィユ)の庇護を受けた一座は、しかし演劇はキリスト教の道から外れるものと見なされ、庇護を打ち切られるが、やがて、パリに戻った一座は、王弟殿下へ紹介される。ルイ14世の御前で、モリエールの自作の喜劇「才女気取り」「スガナレル-疑ぐり深い亭主」「亭主学校」「痴話喧嘩」などが次々に上演され、モリエールの名声は高まった。その間、モリエールは、ムヌーという愛称で親しまれていた20歳も年下のアルマンド・ベジャール(ブリジット・カティヨン)を正式な妻に迎えた。1662年のことである。やがて「タルチュフ」上演がキリスト信者の反発をまねき、さらにイタリアの音楽家リュリ(マリオ・ゴンザレス)がモリエールを押しのけて王室に進出してきた。新作でモリエールと共に「病いは気から」に取り組んでいたマドレーヌが、1672午2月17日に息を引きとった。翌年パレ・ロワイヤルで「病いは気から」が上演されるが、その途中で、モリエールも死んだ。「マドレーヌはどこだ」これが彼の最後のことばだった。奇しくも、それは、マドレーヌが死んだ日のちようど一年後の2月17日であった。