「書くことの重さ 作家 佐藤泰志」のストーリー

厳しい冬と短い夏の街、函館。佐藤泰志はこの街に生まれ育ち、20歳まで過ごす。父母は青函連絡船を往復して青森産の黒石米を運び、函館で売りさばく“担ぎ屋”として生計を立てていた。幼い頃から作文を書いた佐藤は、中学2年の文集に「芥川賞作家になる」と将来の目標を書いている……。〈第一章 きみの鳥はうたえる〉1982年1月。「きみの鳥はうたえる」が芥川賞候補になり、函館の実家で結果を待つ佐藤。一方、東京・築地の料亭では、芥川賞選考会議が開かれ、計8作品について喧々諤々の議論が行われた。だが結果は「該当作なし」。佐藤は作家として生きる道が開けたことから、再び東京に戻ることとなる……。〈第二章 多感な青春〉1966年。佐藤は函館西高校2年になっていた。この秋、戦時下の中国を舞台に若い日本兵の苦悩を描いた小説「青春の記憶」で第4回有島青少年文芸賞優秀賞を受賞。高校3年間は文芸部に所属、独自に執筆活動をしながら投稿を重ねていた。そんな中、「市街戦の中のジャズメン」(後に「市街戦のジャズメン」と改題)を書き、第5回有島青少年文芸賞優秀賞を受賞。しかし内容が高校生にふさわしくないという理由から、新聞掲載はならなかった。そして高校卒業から2年後、青函連絡船に乗って上京する……。〈第三章 作家への道〉国学院大学に進んだ彼は、函館西高校の同期生らと同人誌「黙示」を発行。小説、詩だけでなく、漫画や政治評論まで間口が広かったことから、文学作品で構成したいと考え、突如6号で離脱。新たに高校の後輩達と「立待」を発行する。大学4年間は、「立待」と共に「北方文芸」にも小説を書いた。学生結婚、そして大学卒業後はアルバイトをしながら作家への道を目指す。1976年、「深い夜から」が第一回北方文芸賞佳作となるが、翌年頃から精神の不調を訴え、以後精神安定剤を飲み続け、療法として体操やランニングを続けた。1980年、「もうひとつの朝」が「作家賞」受賞。長女、長男にも恵まれ、4人家族となっていた。1981年~82年の函館での生活を経て、再上京。1983年~1985年にかけて、「空の青み」「水晶の腕」「黄金の服」「オーバー・フェンス」と計5回、芥川賞候補となるが、受賞は叶わなかった。小説を書き続ける合間に、「アルバイトニュース」のエッセー、書評、放送時評、文芸誌新人賞の下読みなどの仕事をした。1990年初の長編「そこのみにて光輝く」で第2回三島由紀夫賞候補となるが落選。〈第四章 海炭市叙景〉1988年から36篇の連作を構想する「海炭市叙景」を文芸誌「すばる」に断続的に掲載。しかし1990年「すばる」4月号掲載の「楽園」で終了、構想した全36篇の半分であった。1990年10月10日、佐藤は自ら命を絶つ。亨年41。

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