解説
二度目の嫁ぎ先で苦労する女と困窮する農民のために我が身を犠牲にしようとする男の運命を描いた時代劇。監督は「地下鉄(メトロ)に乗って」の篠原哲雄。原作は藤沢周平の同名小説。出演は「夕凪の街 桜の国」の田中麗奈、「MAKOTO」の東山紀之、「明日への遺言」の富司純子ほか。
この作品のレビュー
ユーザーレビュー
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ミャーノフ大佐
原作藤沢周平。同じ藤沢作品の映画化で山田洋次の「たそがれ清兵衛」や「武士の一分」の完成度と比べると、やっぱり数段見劣りするなあ。篠原監督も落ち着いた画面でゆっくりした時間の流れで描いているんだけど、それは判るんだけど。脇もいい役者をつけているんだけど、若い役者がダメだなあ。まず、田中麗奈ちゃんが時代劇に合わないなあ。現代的なきれいさだから時代劇に出ると違和感を感じる。着物が似合わない。それと東山紀之、テレビで時代劇をやっているけど、どうしても少年隊のイメージしかない。これが岡田准一だと時代劇に合うんだけどなあ(「武士の一分」なんかキムタクだよ)。それに子役、ひもじい農民の子供なのに丸々と太っている。製作側から配役を押しつけられたのかな。セットや大道具なんかはよく出来ているんだけどなあ。やっぱり演出が下手なのかなあ。
ストーリーの構成だが、途中まで野江(田中麗奈)と手塚(東山紀之)が話の中心だったのが、途中から重臣諏訪とその取り巻き、手塚に移って、ラスト近くでまた野江の話に戻ってくる。途中で違う映画になってしまう。それと諏訪の芸者遊びのシーンが浮いてしまっている。
よく思うのだが、良い映画とはなんなのか。何が違うのか。同じ原作を使ったとしても傑作も駄作もある。「たそがれ清兵衛」なんか完璧なのに。何故、この映画が上手くいってないのか。映画として完成度の高いとはなんなのか、考えてしまう。
「山桜」のストーリー
江戸後期。北の小国、海坂の地。野江(田中麗奈)は若くして最初の夫に病で先立たれ、その後磯村家に嫁いだものの、夫(千葉哲也)と舅(高橋長英)は武士でありながら蓄財に執着し、姑(長島暎子)からは出戻りの嫁と蔑まれる日々を過ごしていた。二度の失敗は許されないと心に言い聞かせ、野江は嫁として懸命に耐え続けていた。叔母の墓参りの帰り、山道で薄紅色の花をつけた一本の山桜に出会う野江。その美しさに思わず手を伸ばすがなかなか花に届かない野江に、一人の武士が声をかける。男は、野江が磯村に嫁ぐ前、縁談を申し込んできた手塚弥一郎(東山紀之)だった。密かに見初めてくれていたとの話だったが、野江は母一人子一人の家と聞き、会うこともなく断ってしまっていた。今は幸せか、案じていたと告げ、弥一郎はその場を去る。それは、山桜に引き寄せられたかのような、ただ一度きりの偶然の出会いだった。どこかで自分のことをずっと気遣ってくれている人がいると思えるだけで胸の中にぬくもりが広がり、野江は励まされた。それから半年後、弥一郎は城中で藩の重臣である諏訪平右衛門(村井国夫)を斬った。飢饉が続き困窮する農民を虐げ私服を肥やす諏訪に対し、これまで藩内に声を上げる者はなかった。そんな中、弥一郎は我が身を犠牲にして刃を振るったのだった。弥一郎を侮蔑し嘲弄する夫に逆上した野江は、思わず手にした夫の羽織を打ち捨てたことで、離縁を言い渡される。弥一郎には即刻切腹の沙汰が下ると思われたが、擁護する声も強く、藩主が江戸から帰国する春まで裁断を待つこととなった。野江は獄中の弥一郎の身を案ずる。再び春になり、野江は山桜の枝を手に手塚の家を訪れる。息子を待ち続ける弥一郎の母(富司純子)に迎えられた野江は、彼女から予想もしなかった言葉をかけられる。それは、野江の心を溶かすものだった……。
「山桜」のスタッフ・キャスト
スタッフ |
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キャスト | 役名 |
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「山桜」のスペック
基本情報 | |
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ジャンル | 時代劇 |
製作国 | 日本 |
製作年 | 2008 |
公開年月日 | 2008年5月31日 |
上映時間 | 99分 |
製作会社 | 「山桜」製作委員会(バンダイビジュアル=ジェネオンエンタテインメント=テレビ朝日=テンカラット=日楽堂=デスティニー) |
配給 | 東京テアトル |
レイティング | |
カラー/サイズ | カラー |