有馬稲子 アリマイネコ

  • 出身地:大阪府豊能郡池田町(現・池田市)の生まれ
  • 生年月日:1932/04/03

略歴 / Brief history

大阪府豊能郡池田町(現・池田市)の生まれ。本名・中西盛子(みつこ)。実父が共産主義者だったことから、大阪府下を転々とする。4歳の時、見かねた祖母・芳枝に連れられ韓国・釜山へ。おば・かね夫婦が暮らしており、子供がいなかったため、養女になる。かねは藤間流名取・藤間金柳でもあり、躾と日本舞踊を徹底的に教え込まれた。養父の死で、一時帰阪するも再び釜山へ。第二次世界大戦末期、釜山高等女学校へ入学、授業はなく軍服のボタンつけが日課だった。終戦後は密航船で引揚げ、実父母のいる大阪市天王寺区へ帰国。あこがれだった新劇に近づくため友達の勧めもあり宝塚音楽学校を受験し、943 人中合格者69人のひとりに。36 期生となる。現在は予科・本科の2年制で卒業生のみ宝塚歌劇団へ入団できる制度だが、当時は本科から舞台に立てた。花組へ編入され、またたく間に頭角をあらわし、娘役トップスターに。在団中、歌劇団生徒の大半を動員した「宝塚夫人」51 に出て、映画デビューを果たす。「せきれいの曲」「若人の歌」51 に出演後、退団。1952 年1月、東宝と1年の専属契約。第1回作品は53 年3月「ひまわり娘」。三船敏郎の相手役で明るくて美しい事務員を演じた。何本か同じような役柄が続くが、市川崑監督の「愛人」では屈折した娘を演じ、評価される。54 年1月、契約更改にあたり「他社出演も会社と話し合いのうえなら可」という条件を認めさせ、自ら出演したい小説を提示したが、いずれも実現しなかった。さらに出演依頼を受けた今井正監督の「ここに泉あり」55 では、松竹専属の岸恵子が出演できたのに、東宝に拒否され無念の涙を流した。同年4月、その岸恵子と久我美子、元婦人文庫編集長・若槻繁も加わり『文芸プロダクション・にんじんくらぶ』を設立。趣旨は「どの会社にも拘束されることなく、自由な立場で、最も良心的な作品に出演することによって、俳優自体の向上、日本映画の質度を高めたい」。このあと、若杉光夫監督の富士プロ・オムニバス映画「愛」の第1話「結婚記念日」に出演する。香川京子の代わりだった。東宝と掛け合い即答を得られないまま箱根ロケに参加、翌日承諾され、初めての他社出演を勝ち取る。トラブルは続き、日活の五所平之助監督「愛と死の谷間」、青年俳優クラブの市川監督「億万長者」は認めてもらえなかった。東宝での次回作は原爆で被災した娘を演じる「君死に給うことなかれ」に決まったものの、皮肉にも撮影直前、心労が重なり2か月の休養を余儀なくされた。代役には司葉子が抜擢された。『ごてネコ』と別称されるようになったが、面目躍如となったのは、休養中の7月。『キネマ旬報』8月上旬号の匿名座談会で非難されたことに対し、『東京新聞』8月13日付『一人一題』で噛みついた。同月、東宝ラインアップに上っていた豊田四郎監督「夫婦善哉」のヒロイン蝶子役に決定。製作準備に入り、監督の指示を受け大阪へ飛ぶ。蝶子の仕事である“ やとな芸者” 研究のため、泊り込んで研究。リハーサル前日に帰京すると、突然の製作延期。あまりのショックに自宅へ引きこもってしまう。翌9月6日、辞表提出。その後、辞表は契約が切れる年末まで若槻が預かることに。翌55 年4月、実質的にはフリーという優先本数契約を結んで松竹入り。何本か出演するが、なかなか本領発揮までには至らず、その年は終わる。56 年は、小林正樹監督「泉」、渋谷実監督「女の足あと」に連続主演。初めて評価される喜びを味わう。後者は渋谷から徹底的にしごかれた。続いて、当時珍しいカラー映画「白い魔魚」に出る。中村登監督お得意のメロドラマ。頭が先に走り身体が追いつかないといわれた欠点を吹っ切ったように見え、同じ中村監督の「朱と緑」は同志でライバル岸恵子の東京娘に対して大阪娘を伸びやかな演技を見せた。岸は結婚のため日本を離れ、松竹看板女優だった淡島千景と草笛光子が相次いで去り、事実上のトップスターの座につく。57 年は試練もあった。小津安二郎監督の「東京暮色」は近年再評価も進むが、当時は“ 失敗作” との声があった。岸恵子に当てて書かれた中流家庭の不良娘を演じた。半面、番匠義彰監督の「抱かれた花嫁」でヒロインに起用され、松竹大船伝統のホームコメディで評判をとる。「大忠臣蔵」では遥泉院に扮した。この年、岡田茉莉子が東宝から移籍。以後ふたりは松竹の二枚看板女優として競うことになる。相乗効果からか、作品にも監督にも恵まれ、58 年から59 年には映画女優のピークを迎える。出演を切望し、そのつどあきらめざるをえなかった今井正監督の「夜の鼓」58 で三國連太郎と共演。不義を犯す武士の妻を熱演した。小津監督初のアグファカラー「彼岸花」58 では佐分利信、田中絹代夫婦の長女役。シンのある中流家庭の娘を監督の要望にこたえた。この頃、大江健三郎ら若手作家と芸術を語る集まりを主催し、話題になる。過密スケジュールがたたり、東映東京で出演を切望していた内田吐夢監督「森と湖のまつり」58 は主演から助演となった。58 年末から59 年7 月にかけては契約本数消化の感があったが、木下惠介監督「風花」59 では初の手ほどきを受け、にんじんくらぶ企画「人間の条件/第一部・第二部」59 ではサブストーリーの中国人労働者と娼婦の悲恋の場面で好演が光り、再び木下監督「惜春鳥」59 では胸を病む佐田啓二を愛する薄幸の芸者を演じた。演技の充実期が日本映画全盛時代と重なり、役柄とは裏腹に幸運な女優人生のピークを迎えた。58 年5月、日本舞踊の藤間流宗家から“ 藤間柳女” の名で名取りとなる。そして二度目の近松もの、東映京都の大作「浪花の恋の物語」59。内田吐夢監督、相手役は荒削りな魅力を持った中村錦之助(のち萬屋錦之介)。梅川・忠兵衛を演じる。彼女は初めて会ったその日から恋に落ちた。そのうえ、松竹へ戻り次に出た「わが愛」60 では佐分利信とコンビを組み、戦中戦後にかけて妻子ある男にすべてを捧げた若い娘の激しくもひたむきな愛情を、清潔感をたたえた芝居で演じ、女心を哀切ににじみ出させた。60 年4月、松竹と年2本の他社出演を認める専属契約を結ぶ。4月から5月半ばまでヨーロッパ旅行へ。当時、まだ海外渡航自由化前で貴重な経験となる。帰国後は松本清張原作の「波の塔」60 や「ゼロの焦点」61 に出演。羽仁進監督でにんじんくらぶ作品「充たされた生活」61 を原作者・石川達三から直接交渉して映画化権を得たもの。一部では高く評価されるものの不満足な結果に終わる。61 年11 月27 日、錦之助と結婚。しかし、4年後には当事者不在のまま、東映・大川博社長が離婚を発表した。ATG で撮った吉田喜重監督「告白的女優論」71 までは試行錯誤が続き、舞台出演や東宝現代劇特別公演『奇跡の人』などに意欲的に取り組む。テレビにも出るが、にんじんくらぶは辞めた。舞台は東宝演劇部と契約。帝劇『風と共に去りぬ』などに出演。この間、劇団民芸公演『報いられたもの』に客演。これが縁で民芸へ入団する。そんななか、再婚話が持ち上がり、69 年、実業家と再婚。家庭第一という夫の考えで民芸も退団。しかし長くは続かず、83 年に2回目の離婚を経験。その後は舞台を主にこなした。80 年には、代表作となる『はなれ瞽女おりん』に出会い、数々の演劇賞を受ける。映画は2008 年、美術監督・木村威夫の映画監督処女作「夢のまにまに」まで特別出演程度。著作は自伝『バラと痛恨の日々』(中央公論新社)と、10 年4月、日本経済新聞の『私の履歴書』を1か月にわたり連載。自伝でも述べているが、不倫と堕胎を告白。赤裸々な連載となって話題を呼んだ。主な受賞・叙勲は88 年に芸術選奨文部大臣賞、95 年紫綬褒章。2003 年勲四等宝冠章。

有馬稲子の関連作品 / Related Work

作品情報を見る

  • 葬式の名人

    制作年: 2019
    大阪府茨木市市制70 周年記念事業の一環として茨木市が全面協力、川端康成の短編小説をモチーフにした群像コメディ。息子と二人で暮らす雪子のもとに、高校時代の同級生の訃報が届く。卒業から10年の時を経て集まった同級生たちは、奇想天外な通夜を体験する。映画評論家で「インターミッション」など監督業にも進出する樋口尚文がメガホンを取った。また、川端康成の母校・大阪府立茨木高校の卒業生で、劇団とっても便利の脚本を担当、日本チャップリン協会会長を務める大野裕之が脚本を手がけた。『十六歳の日記』『師の棺を肩に』『少年』『バッタと鈴虫』『葬式の名人』『片腕』などの川端康成の短編小説を下地にしている。シングルマザーの渡辺雪子を「旅のおわり世界のはじまり」の前田敦子が、雪子共に奇想天外な通夜に翻弄される茨木高校の野球部顧問・豊川大輔を「多十郎殉愛記」の高良健吾が演じる。2019年8月16日茨木市先行ロードショー。
    75
  • 夢のまにまに

    制作年: 2008
    「あゝひめゆりの塔」から「父と暮らせば」まで、数多くの名作で美術を手掛けた木村威夫が、90歳にして手掛けた長編映画監督デビュー作。戦争体験を軸に映画専門学校の校長と一人の学生の交流を描いた、木村監督の自伝的要素の濃い作品。「にあんちゃん」の長門裕之と「無法松の一生」の有馬稲子、ベテラン二人が共演。
  • いのちの海 Closed Ward

    制作年: 2001
    ある精神病院で起きた殺人事件を通し、人生に絶望した少女が再生していく姿を描いたドラマ。監督は「ハロー!フィンガー5」の福原進。帚木蓬生による山本周五郎賞受賞の原作を基に、「眠れる美女」の石堂淑朗と西村雄一郎が共同で脚色。撮影監督に「あの、夏の日―とんでろ、じいちゃん―」の坂本典隆があたっている。主演は、映画初出演の上良早紀と「まあだだよ」の頭師佳孝。優秀映画鑑賞会推薦、芸術文化振興基金助成事業作品。スーパー16ミリからのブローアップ。
  • 生きてはみたけれど 小津安二郎伝

    制作年: 1983
    生涯五十四本の映画を作り、キネマ旬報ベスト・テン三年連続第一位という前人未踏の記録を始め、日本映画史に数々の名作を残した小津安二郎監督が逝って二十年。この映画は、小津作品の名作の中から忘れられない名場面を拾い上げ、その間を小津安二郎と関りあった多くの俳優、監督、スタッフ、文化人等の証言と六十年の生涯の克明な記録によって、継ぎ合せ、彼の一生を描く。脚本構成は井上和男と高岡享樹の共同執筆、監督は「喜劇 黄綬褒賞」の井上和男、撮影は「渚の白い家」の兼松煕太郎がそれぞれ担当。登場する人々は、岸恵子、司葉子、有馬稲子、淡島千景、岡田茉莉子、杉村春子、桜むつ子、東野英治郎、笠智衆、中村伸郎、須賀不二男、三上真一郎、木下恵介、今村昌平、佐々木康、新藤兼人、斎藤良輔、厚田雄春、浜田辰雄、今日出海、横山隆一、川喜多かしこ、ドナルド・リチー、佐藤忠男、中井貴恵、野田静(野田高梧未亡人)、野村八重子(伏見晃未亡人)、小津新一(兄)、小津信三(弟)山下とく(妹)。
  • 告白的女優論

    制作年: 1971
    女優とは何か? この作品は、映画「告白的女優論」に出演することになった三人の女優の、撮影二日前の生活を追いながら、三つの物語が同時進行するスタイルをとっている。この告白的テーマに浅丘ルリ子、岡田茉莉子、有馬稲子の三女優がみずからの女優キャリアとイメージを賭け、人間に隠された様々な欲望・葛藤を表現しながら「女優」というテーマに挑戦する。スタッフは「煉獄エロイカ」と同様、脚本吉田喜重と山田正弘。監督は吉田喜重。撮影は長谷川元吉がそれぞれ担当。
  • 徳川家康

    制作年: 1965
    山岡荘八の同名小説を「この首一万石」の伊藤大輔が脚色、監督した歴史時代劇。撮影もコンビの吉田貞次。