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タイロン・パワー
本名タイロン・エドマンド・パワー。舞台の人気俳優だった父の影響で、10代からシカゴのシェイクスピア劇団に入る。デビューは、31年の『ヴェニスの商人』。映画入りする父とハリウッドへ行く。父急死の後も、ハリウッドにとどまり、「鉄血士官校」(32)、“Flirtation Walk”(34)に端役出演。ブロードウエイでバージェス・メレディスのアンダースタディ(代役)をつとめてから、キャサリン・コーネルの劇団に入る。“St. Joan”に出演中を、フォックスのタレント・スカウトに見出され、“Sing Baby Sing”のため、テストを受ける。不合格だったが、とくに望まれ、“Girls Dormitory”(36)であらためてデビュー。つづく「勝鬨」(37)が好評で、同社の若手スターとして売り出した。 38年には、「スエズ」の大ヒットで、マネー・メイキング・スターのベスト10に入る。 同年、「シカゴ」、「世紀の楽団」でヘンリー・キングと組み、以後、彼の演出によるヒット作が多い。「ナチュラルで慎しみ深い」持ち味と謳われ、ジェイムズ・ステューアト、フランチョット・トーンの路線が踏襲された。 39年には映画雑誌の人気投票で、“ハリウッドのキング”に選ばれた。ちなみに、“クイーン”は、ジャネット・マクドナルドであった。41年、「血と砂」の完成後、舞台出演を希望、『リリオム』の地方公演に参加する。単なる美男俳優に終わることをきらい、意欲的だったが、スター・システムの壁は厚く、失敗を恐れたフォックスが、短期間しか休暇を与えなかったため、という。映画資本への忠実な協力者でありながら、パワー自身には、いささか不本意な全盛期だった。50年代に入り、グレゴリー・ペックが台頭。38年以来守ってきたトップ・スターの座を奪われ、ユニヴァーサルの「ミシシッピーの賭博師」(53)、コロムビアの「愛情物語」(56)などで、転換を試みる。「私は、今まで大衆が(愚作に対し)いかに辛抱強いかの記念碑をおびただしく建ててきた」 フォックスとの専属契約を解除した53年、自嘲的に語ったというパワーの言葉が印象的だ。 舞台への情熱もあい変わらずで、ブロードウエイで、チャールズ・ロートンと“John Brown's Body”(53)に共演。テレビでも、マイ・セッタリングと共演した“Miss Julie”で好評を得た。 舞台の演技を認められるのを好み、映画から遠ざかることによって、マンネリズムから脱出できると信じていたという。 58年ビリー・ワイルダーに起用された「情婦」で、従来のイメージをくつがえす好演をみせ、再評価の機運高まる。フェイ・エマースンと“Back to Methuselah”で全米を公演後、マドリッドで、「ソロモンとシバの女王」のロケに参加。58年11月15日、ジョージ・サンダースとの乱闘シーンを撮影直後、心臓マヒで急死した。父の死がやはり、撮影中だったのも、なにやら因縁めく。監督のキング・ヴィダーは、彼の死により、自作が、「不必要で無価値な映画」になったと述べているが、演技派としての再出発が期待された折柄、きき逃がすことはできない。 39年アナベラと結婚、48年離婚。49年リンダ・クリスチャンと結婚、55年離婚。ロミナ、タリンの2子あり。58年デボラ・ミナドスと結婚。1子タイロンあり。
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