映画人物を探す
検索結果
-
メアリー・ヒーリー
-
メアリー・ビアード
-
メアリー・ビギンズ・クラーク
-
メアリー・ピックフォード
本名はGladys Smith。4歳のとき父が死亡したため、母は彼女を巡業劇団の娘役にして家計の足しにした。はじめ、『アンクル・トムズ・ケビン』などに出たが、9歳ですでにスター格となり、彼女の名をつけた“Baby Gladys Smith”といっただし物に主演した。1906年にはブロードウェイへのぼり、有名なベラスコ劇団に参加し、“The Warrens of Virginia”などに出演。すでに、母、弟のJack(1896-1933)、妹のLottie(1895-1936)も舞台生活に入っていた。この弟妹も、やがてメアリーをおって映画俳優となる。09年、映画入りを決意した彼女は、バイオグラフ社でD・W・グリフィスにあい、日給10ドルで契約し、翌日早くも“Her First Biscuits”(一説に“The Lonely Villa”)の撮影をおこなった。“The Violin Maker of Cremona”で主役となり、バイオグラフ・ガールとして売り出し、相手役の二枚目オーウエン・ムーアと結婚した。10年、ムーアとともにIMPへ移ったが、翌年、バイオグラフ社へ戻り、グリフィス作品に出演し、みずから脚本も執筆。12年の“The New York Hat”は大ヒットとなった。一時、ニューヨークの舞台へ復帰したが、すでに映画界きっての大スターをほうっておくわけもなく、13年アドルフ・ズーカーのフェイマス・プレイヤーズ社が、週給500ドルで契約し、「落花流水」などに主演させた。人気はウナギ登りで、3年後には週給一万ドルになるほどだった。16年、ズーカーの肝入でメアリー・ピックフォード・スタジオが設立され、配給はズーカーとジェシ・ラスキーの合併したパラマウント・アートクラフトがおこなうことになり、“アメリカの恋人”(America's Sweetheart)とまでいわれるようになったメアリーの黄金期に突入する。17年「農場のレベッカ」「少公女」、18年「闇に住む女」、19年「春のおとづれ」と佳品がすくなくないが、彼女の作品の多くを担当した名脚本家フランセス・マリオンにおうところも大きかった。18年、ファースト・ナショナル社と三本の契約。そのときの条件というのが一本35万ドル、プラス母へ5万ドル、週給1000ドルという、当時としては破格の待遇であった。その三本は「孤児の生涯」(足ながおじさん)、「十五、六の頃」「想出の丘へ」。酒びたりのムーアとの結婚生活は破滅寸前まできていたが、そのころダグラス・フェアバンクスとの間柄がはなやかに取りざたされた。大戦中はこの2人にチャップリンが加わって戦時公債募集運動をくりひろげていたが、19年、3にグリフィスが参加して、ユナイテッド・アーティスツを設立。そして、ダグとの結婚生活もはじまった。ハリウッドのキングとクイーンの結婚-それは“ピックフェア”(Pickfair、二人の名をくっつけたもの)とよばれ、たいへんなもてはやされようだった。22年「嵐の国のテス」、23年「ロジタ」、24年「ドロシー・ヴァーノン」と主演作はつづくが、152cmの小柄な身体のメアリーの当たり役は、少女もしくは青春映画の主人公であって、年相応の女性役は不評だった。29年トーキー第一作「コケット」はアカデミー主演女優賞受賞。ついで「じゃじゃ馬馴らし」にダグと共演し、その直後、夫婦で来日したときは、たいへんな人気だった。31年「お転婆キキ」をへて、33年の“Secrets”は悪評におわり、そろそろ限界をみた彼女はさっさと引退してしまった。このころからダグとの仲もくずれはじめ11歳年下の俳優チャールズ“バディ”ロジャーズを可愛がり、35年結婚。女優業は引退したものの、ヴォードヴィルの舞台にたったり、ラジオにでたり小説を出版したりの忙しさ。36年にはUAの筆頭副社長となり、その後チャップリンとともにオーナーを務めていたが、53年手離した。製作作品も三本あるが、その一つがマルクス兄弟作品なのはおもしろい。また37年にはメアリー・ピックフォード化粧品会社を設立したり、金儲けのうまさでも女優史上随一であった。55年には自伝“Sunshine and Shadow”を発表。アメリカ映画サイレント期きっての大女優であったが、とびぬけた才覚の持ち主でもあった。75年にアカデミー特別賞を受賞。79年5月29日、心臓発作のため死去。
-
メアリー・ピーターソン
-
メアリー・ピーチ
-
メアリー・ファラー
-
メアリー・ファーブラザー
-
メアリー・フィリップス
-
メアリー・フィルビン