ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ
やんきーどぅーどぅるだんでぃ Yankee Doodle Dandy解説
86年3月30日、86歳で死んだジェームズ・キャグニーがブロードウェイ・ミュージカルの父といわれたジョージ・M・コーハンに扮した伝記映画。エグゼクティヴ・プロデューサーはジャック・L・ワーナーとハル・B・ウォリス、監督はマイケル・カーティズ、脚本はロバート・バックナー、エドモンド・ジョセフ、音楽監督はレオ・F・フォーブステイン、振付はジョン・W・ボイル、リロイ・プリンツ、シーモア・フェリックスが担当。
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「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」のストーリー
1937年、ジョージ・M・コーハン(ジェームズ・キャグニー)はほぼ10年ぶりに舞台にカムバックした。この作品でコーハンはフランクリン・D・ルーズベルト大統領を演じたが、何とその大統領自身からホワイトハウスへの招待の電報が届いた。そこでコーハンは大統領と対面し、自分が歩んだ道を回想する。彼の父ジェリー・コーハン(ウォルター・ヒューストン)、母ネリー(ローズマリー・デ・キャンプ)はともにボードヴィルの芸人だった。やがて妹ジョニーも生まれ、一家はコーハン4人組として巡業を続けた。旅から旅の暮らしでコーハンも大人になり、あるとき白髪の老人役をやった。その舞台を見ていたのがのちに結婚することになるメーリー(ジョーン・レスリー)だ。コーハンは彼女の歌を認め、劇場主に無断で自作の歌をうたわせたことが原因で劇場主と大ゲンカ、完全にほされてしまう。そこで作詞・作曲の仕事に活路を求めるが、買ってくれるところもなく失意のドン底をはい廻るが、のちに製作者としてコンビを組むことになるサム・H・ハリス(リチャード・ウォーフ)とめぐり会いついに「リトゥル・ジョニー・ジョーンズ」の上演にこぎつけた。これは初期のコーハンの代表作となり、彼はスター街道を歩み始める。そして2年後の「ブロードウェイから45分」でも成功を納め、ブロードウェイにはジョージ・M・コーハンの時代がやってくる。やがて第2次世界大戦が始まった。コーハンは入隊を志願したが年齢オーバーではねられ、代りに前線慰問に情熱を注いだ。1920年代のブロードウェイは以前にも増してコーハンの時代になり、いくつもの劇場で彼の作品が上演された。仕事の上では絶頂期を迎えたが、代りに次々と家族の死に見舞われた。プロデューサーのサム・H・ハリスとも長年のコンビを解消、1928年の「ビリー」で引退。妻のメーリーと世界旅行に出て、帰国後は農場で暮らすようになった。10年もたつと彼の名前すら知らない若い人が出てくる、そんな時代になった。その頃、旧友サム・H・ハリスからカムバックの要請が来た。それが「私はむしろ正しくありたい」だった。長い回想が終わったとき、大統領は彼に名誉勲章を授けた。
「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」のスタッフ・キャスト
スタッフ |
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キャスト | 役名 |
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「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」のスペック
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