ディスタンス(2016)の映画専門家レビュー一覧
ディスタンス(2016)
山形国際ドキュメンタリー映画祭2015アジア千波万波部門に選出されたセルフ・ドキュメンタリー。本作が初監督作品となる岡本まなが、北海道に暮らす父と母、祖母、兄と自分自身の姿を記録し、現在はばらばらになってしまった家族について思いを巡らせる。
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映画評論家
北川れい子
このセルフ・ドキュメンタリーには葬儀のシーンはないが、家族の冠婚葬祭で積年のわだかまりが解消することはよくある話で、ひょっとしたら岡本監督、兄の結婚話をきっかけに、家族にカメラを向けるようになったのか。離婚した両親。祖母。父親と断絶中の兄。カメラを向ける監督は、妙に嬉しそうな声でよく笑い、映される家族たちも、兄以外はテンションが高い。いや兄の言動にしても、監督である妹にある種、迎合している節も窺える。撮影・編集は達者だが、みんな映されたいのね。
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
ホームビデオの延長だ。だがそれが悪いことだとは思えない。こういうものが増えてもいい。軽便なキャメラがダイレクトシネマやヌーヴェルヴァーグを産み、ハンディカムがアダルトビデオを変えたように、機材の変化によって映像とそれを観ることの感性は変わっていくべきだ。本作は撮ることの機材的な容易さが招く緩やかさのなかに、それを非難できなくする、光る瞬間を持つ。兄の顔は父に似ており、家族全員の音楽に対する反応がまた似ている。家族とは反復、甘美な呪い。その記録。
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映画評論家
松崎健夫
厳しい〈現実〉から目を逸らし、受け入れたくないがために、相手に対して冷たくしてしまうことがある。当然、〈現実〉は何も変わらない。本作はビデオカメラというフィルターを通すことで〈現実〉と対峙する監督の姿を、観客は監督の「眼」=「ビデオカメラ」で〈見る〉行為によって共有してゆく。同時に過去の家族ビデオ映像が記憶や思い出の役割を担い、観客は監督の人生を追体験し〈現実〉を考えてゆく。つまり〈見る〉行為が、やがてある結末を導いてゆくことは必然なのである。
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