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- 今村昌平
略歴 / Brief history
【エネルギッシュに人間の欲望と性を描いた巨人】東京都生まれ。父は開業医。早稲田大学文学部在学中は小沢昭一、北村和夫、加藤武らと演劇活動に熱中、舞台演出家を志していたが、黒澤明「酔いどれ天使」を見て感動、映画を志す。卒業後の1951年6月、松竹大船撮影所に入社。小津安二郎の「麦秋」から「東京物語」までの作品や、野村芳太郎、大庭秀雄、渋谷実らの現場で働く。54年、製作再開した日活に誘われて移籍。同時期に松竹から来た川島雄三に付き、多くを学び取る。「幕末太陽傳」では脚本も共同執筆した。58年に監督昇進、旅役者一座を猥雑な活気とともに描く「盗まれた欲情」が第1作。悪党喜劇「果しなき欲望」まで、デビューの年に3本手掛けて撮影中に吐血。寝椅子で指揮する獅子奮迅の姿が話題となった。59年、在日朝鮮人一家がたくましく生きる「にあんちゃん」で芸術祭賞。しかしヒューマニズムが絶賛された反動から、次作は米軍基地の利権を貪るやくざが豚の大群に踏みつぶされる「豚と軍艦」(61)を撮る。作風を〈重喜劇〉と自称し、底辺に生きる人間の欲望や生命力に目を向ける姿勢を鮮明にする。63年の「にっぽん昆虫記」では売春斡旋業の女性の半生を克明に取材。64年の「赤い殺意」では愚鈍に見えた女がいつしか男たちを支配していくさまを粘っこく描く。65年、日活を退社して今村プロを設立。第1作の「『エロ事師たち』より・人類学入門」では、勉強のためブルーフィルムの現場に参加した。67年にATGと共同製作した「人間蒸発」は初のドキュメンタリー。人間探求は民俗学、文化人類学の領域まで深まり、68年、日本映画史上前例の無い神話的な大作「神々の深き欲望」を完成。一作ごとに大きな反響を呼んだ60年代は〈賞の今村〉と称されたほどであった。【赤貧生活とグランプリ】70年代もテレビ『からゆきさん』(73)など野心的なドキュメンタリー番組を手がけつつ、劇場用映画はなかなか撮れない状況が続く。後進育成のため75年に横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)を設立するが、金策に追われる。79年、「復讐するは我にあり」で第一線に復帰。83年の「楢山節考」がカンヌ映画祭グランプリ。89年の「黒い雨」から再び沈黙するも、97年の「うなぎ」で再びカンヌの最高賞にあたるパルム・ドールを受賞。同賞の2回受賞は日本人初の快挙とはいえ、もともと欧米では黒澤・小津に続く日本の巨匠と早くから位置付けられていた。最後の作品は世界の作家が参加したフランス製作オムニバス「11′09″01/セプテンバー11」(02)の一編。長男の映画監督・天願大介が脚本を書いた。
今村昌平の関連作品 / Related Work
作品情報を見る
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11’0901/セプテンバー11 日本編
制作年: 2002世界を代表する11人の監督が11分9秒1フレームという共通の時間枠で描く「9.11」オムニバスの1本。監督は「赤い橋の下のぬるい水」の今村昌平。 -
赤い橋の下のぬるい水
制作年: 2001居場所を失った中年男と、特異な体質を持つ女の愛を描くファンタジー。監督は「カンゾー先生」の今村昌平。辺見庸の原作2篇を基に、「うなぎ」の冨川元文、「AUDITION」の天願大介、今村昌平、杉山美枝が共同で脚色。撮影を「餓狼の群れ」の小松原茂が担当している。主演は、「降霊」の役所広司と「告別」の清水美砂。第20回環境映画祭フィクション映画部門賞受賞、第25回日本アカデミー賞優秀主演男優賞(役所広司)受賞、第54回カンヌ国際映画祭正式出品、芸術文化振興基金助成作品。