吉田喜重 ヨシダキジュウ

  • 出身地:福井県福井市佐佳枝下町
  • 生年月日:1933/02/16
  • 没年月日:2022/12/08

略歴 / Brief history

【松竹ヌーヴェル・ヴァーグの前衛芸術派】名は“きじゅう”と読まれることが多い。福井県で生まれ、戦後に東京へ移転する。高校時代からフランス語や詩・演劇脚本に取り組み東京大学に進学。本来は哲学科を志したが父の希望で仏文科に進んだという。監督デビュー後の1964年に女優・岡田茉莉子と結婚、公私にわたるパートナーとなった。松竹大船撮影所へは55年に入社、1年上に大島渚と山田洋次、2年上に篠田正浩がいた。助監督として大庭秀雄や木下惠介に師事する。60年、大島の台頭を追って助監督身分のまま「ろくでなし」で監督デビュー。続いて2本監督作を発表し、松竹ヌーヴェル・ヴァーグの一翼を担ったが、大島の退社を機に松竹は新路線から撤退、要注意視された吉田も木下組の助監督に戻されてしまった。しかし岡田茉莉子が企画した「秋津温泉」の監督に指名され、ここでようやく監督契約に至る。当作は高く評価されたものの、その後も社の姿勢とは折り合えず、「日本脱出」(64)の最終1巻まるごとカットという事件で松竹を退社、独立プロの「水で書かれた物語」(65)であらためて注目されたのち、66年に現代映画社を設立した。以後、「エロス+虐殺」(70)、「戒厳令」(73)など意欲作を発表したが、70年代後半はテレビドキュメンタリー等の活動に移り、86年の「人間の約束」が13年ぶりの劇映画となる。88年「嵐が丘」ののちにもビデオによる映画論に取り組むなど空白期があり、2003年公開の「鏡の女たち」は15年ぶりの劇映画最新作であった。同年、フランス政府より芸術文芸勲章オフィシエ賞を贈られる。【水と鏡で光と人を映し出す】主に自作・共作のオリジナル脚本で撮り、作家主義を貫こうと戦い続けてきた監督である。「ろくでなし」に代表される最初期は松竹ヌーヴェル・ヴァーグらしく社会に反抗的な作風で、「秋津温泉」以降はエロスとタナトスを映像美で抽出することに傾倒していく。その多くで露出オーバーのモノクロ映像が用いられ、時間や空間まで跳び越える構成・文体は時に難解と評される。あるいは「告白的女優論」(71)のように観念的と言われることもあるが、日本の前衛芸術の到達点を「エロス+虐殺」にみる評価は揺るがない。水、鏡、裏切りといった作家的モチーフが全体に貫かれ、ドキュメンタリー作品でも“見る/見られる”といったまなざしのモチーフを軸とする。ビデオ作品『吉田喜重が語る小津さんの映画』(94)や著書『小津安二郎の反映画』(98、芸術選奨文部大臣賞)でも示されるように、小津の批判者であり良き理解者でもあった。2022年12月8日、東京都渋谷区の病院において肺炎のため逝去。享年89歳。

吉田喜重の関連作品 / Related Work

作品情報を見る

  • 鏡の女たち

    制作年: 2002
    吉田喜重監督が14年ぶりにメガホンを取り、広島の原爆が根本に横たわる“戦争”映画。名バイプレーヤー、室田日出男の最後の映画出演作品となった。第55回カンヌ国際映画祭特別招待作品。
  • 嵐が丘(1988)

    制作年: 1988
    中世、ある一族に拾われた少年の数奇な愛と運命を描く。エミリ・ブロンテ原作の『嵐ヶ丘』の映画化で、脚本・監督は「人間の約束」の吉田喜重、撮影は「郷愁」の林淳一郎がそれぞれ担当。
    70
  • 人間の約束

    制作年: 1986
    三世代が同居する一般的な家庭を通して、夫婦の愛、親子の絆といった問題を描いていく。佐江衆一原作の『老熟家族』を基に吉田喜重と宮内婦貴子が脚本を共同執筆。監督は「戒厳令」以来12年ぶりにメガホンをとった吉田喜重、撮影は「いたずらロリータ 後ろからバージン」の山崎善弘が、それぞれ担当。
  • 狂言師・三宅藤九郎

    制作年: 1985
    国立劇場の能楽堂で演じられた『木六駄』の舞台模様などを通し、九世三宅藤九郎(83歳、狂言師)の芸の道を辿る。
  • 星のオルフェウス

    制作年: 1979
    ギリシャ神話の5つのエピソードを今日的に表現したアニメーション映画。エグゼクティブ・プロデューサーは辻信太郎、製作はウォルト・ディフェリアとテリー・荻洲と津川弘、アニメーション監督はタカシ、音楽はアレック・R・コスタンディノス、編集はジャック・ウッズ、製作デザインはポール・ジュリアン、レベッカ・オルテガ・ミルズ、レイ・アラゴン、宇野亜喜良、深井国、監修は吉田喜重、脚本・ナレーションは伊丹十三が各々担当。
  • BIG-1物語 王貞治

    制作年: 1977
    ハンク・アーロンの755号を越える756号のホームランを打ち、国民栄誉賞を受賞した、王貞治の姿を描く。監督は「戒厳令」の吉田喜重、撮影は読売映画社撮影班がそれぞれ担当。一九七七年九月三日、王貞治はハンク・アーロンの持つ記録の七五五号を越える七五六号のホームランを打った。重圧の中で打ったホームランは王貞治にとって、十九年におよぶプロ生活の一つの決算でもあった。そして、長嶋茂雄、川上哲治をはじめ、周囲の人々が王貞治を語る。王貞治の生きざまや人間像にもカメラは迫る。そして、過度の集中力を要求されるプロ野球にあって、しかもその最高峰にあって、少しもおごることなく黙々と練習にはげむ姿に、野球を越えた偉大な人間“王貞治”を見るであろう。