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【集中連載3】戦後最大の国際的スター三船敏郎(2)
2020年12月26日スティーブン・スピルバーグやアラン・ドロンといった世界を代表する映画人と対等に仕事をし、尊敬された日本人はいただろうか? 「世界のミフネ」と呼ばれた三船敏郎 生誕100周年を記念し、創刊100周年を迎えた「キネマ旬報」に過去掲載された三船敏郎に関するよりすぐりの記事を「キネマ旬報WEB」にて連載する特別企画。過去に「キネマ旬報」に掲載された記事を読める滅多にないこの機会をお見逃しなく。 今回は、1984年5月&6月発売の「キネマ旬報」に掲載された、水野晴郎による三船敏郎本人へのインタビュー後半をお届けします。 戦後最大の国際的スター三船敏郎 三船敏郎さん。実に気さくな方である。そうして礼儀正しい方。堂々たる貫禄の中に常に笑顔をたやさず、こちらの心をひきつける。日本の『サムライ・ミフネ』として、世界の人々の心をとらえている一因はここにあるのだと思う。話は泉のごとくつきない。日本人の目から見た世界の映画づくりの裏話。何とも面白い。大プロデューサー三船敏郎として、大いに世界へ発言してほしい。いつまでも世界の映画にかかわってほしいと思う。 水野晴郎(以下、省略) 三船さんは、外国でいろいろな作品に出ていらっしゃいますが、最初がメキシコでの作品でしたね。 三船 そうです。「エル・オンブレ・インボルタンテ」、日本の題名は「価値ある男」。サンフランシスコとヴェニス映画祭で主演賞をもらいました。 撮影の方法は、日本とはずいぶん違うものですか。 三船 全く同じですよ、現場に行けば。ただ、出ずっぱりでセリフの数が多かったんで苦労しました。黒澤(明)さんの「用心棒」を撮ってる時に、この映画の話がきたんです、メキシコ大使館を通じてね。「用心棒」を撮りながら、暇があれぽ、テープに入れてもらったセリフを、イヤフォンで聞いて、それで全部覚えていったんです。映画は脚本の順番通りに撮るとは限りませんからね。最初にオアハカという所にロケーションに行ったんですけど、それがラスト・シーン。全部覚えてから行ってよかった。 撮影に入ったら台本を見ないという三船さんの習慣が役に立ったわけですね。でも、セリフを覚えるって簡単に言っても、実は大変なことですよね。 三船 大変ですよ。しかも、こっちは、スペイノ語のセリフなんて初めてですから、それこそ、耳から覚えていくほかないんです。スペイン語でテープに入れてもらって、くり返しくり返し聞いて。人の二倍も三倍も苦労しなけりゃならない。メキシコのナルシソ・ブスケットという名優に入れてもらって、感情込めてね。完壁なテープを送ってくれて、それで覚えていったんです。 メキノコ映画にお出になった後に英語の映画にもどんどん出ていらっしゃいますが、例えば「レッド・サノ」は、英語で撮影されたんですか、フランス語ですか。 三船 英語でした。テレンス・ヤング監督は、まずいところは、アフレコでどうにでもなるからと言って、付きっきりで指導してくれましてね。 現場でセリフが変わるとか、場面が変わるとか、書き直しがあったりしますと、困るでしょうね。 三船 あわてちゃいますよ(笑)。 ヘンリー・フォノダ、チャールトン・ヘストンのような名優と共演したリリー・マーヴィンと真正面から対決なさったり、他の日本の俳優さんではできないことを、敢然とやっているという感じですね。 三船 たまたま、そういうものに巡り合ってきたということですよ。 演技の発想は、基本的にはどこの国でも同じなんですか。 三船 国によって風俗、習慣が違う様に多少の違いはあります。 この人とはうまく合うとか合わないとか、個人的に相性のようなものはあるめでしょうね。 三船 合わないといってもしょうがないしね。てめえは、てめえなりにやるほかないですよ。しかし結局は人間同士だからね、通じ合う。 「太平洋の地獄」などは、リー・マーヴィンと、お二人だけの芝居でしたね、頭からしまいまで。 三船 彼はとにかく酒が強くて、二十四時間飲みっばなしでしたね。朝からビール飲んで。仕事中は、ジャングルの中に入って、横倒しになった木の陰で寝てるんですよ、大いびきかいて(笑)。監督(ジョン・プアマン)と二人で、ほっぺたひっぱたいて、「起きろ、起きろ」(笑)。面白い男でした。 ああいった役(注*太平洋戦争末期のカロリン群島に流れついた米海軍大尉で、三船扮する生き残りの日本海軍大尉と憎悪と友情の握り合った複雑な感情を抱いたまま行動を共にする)だから、酔っぱらっていても、分からないですね。 三船 もう陽に焼けて真っ赤な顔してるしね。酒が入っていても分かりゃしない(笑)。 「レッド・サン」「グラン・プリ」など海外での映画製作は、三ヵ月、四カ月と、相当長くかかるんですか。 三船 長いですね。「グラン・プリ」は前の年の一年間、各国のグラン・プリを全部見て廻って準備をして、翌年やったわけです。僕はモナコから参加したんだけど、十ヵ月くらいかかりましたね。 それに、お出になってると、日本での映画出演は若干少なくなってしまいますね。 三船 そうですね。「グラノ・プリ」はMGM作品でしたけど、あの頃は、メイジャーがたっぷりと金を出して、ゼイタクな撮影をやってました。 イヴ・モンタンとのおつき合いは「グラン・プリ」からですか。 三船 イヴ・モンタンも英語ができないんで苦しんでましたな。毎日コーチがつきっきりで、隣りの部屋で、大きな声出してやっていた。こっちも負けずにやって(笑)。一人しかいないコーチをモンタノにもってゆかれて、こっちは独学でしたよ(笑)。 男は心で泣いても顔には出さん 振り返ってみまして、いわゆる戦記ものをけっこうやっていらっしゃいますね、日本映画もアメリカ映画も含めて。「連A口艦隊司令長官・山本五十六」「太平洋の翼」、アメリカ映画の「ミッドウェイ」。我々、見ていて、この人を置いて他にいないというくらい軍人役がフィットしていると感じるんですが、単に格好の問題ではなくて、人間的なものを含めた、軍人の姿とでもいいますか、どこか哀しみを奥に秘めているんですね。 三船 今も田中(友幸)さんと、ニミッツと五十六の決定版を作ろうと準備してるんです。ヘストンも出るといってるんですけどね。とにかく資金が必要です。向こうからの資金の参加を得たいと、交渉中です。 それは楽しみですね。ヘストンもそういったキャラクターの合う役者ですね。三船この間も、ユル・ブリソナーと一緒に飯を食ってきたけど、ニミッツはブリンナーではないんですね。ブロンソンでもない。今誰かを選ぶとしたら、やはヘストンが一番似ている。 ヘストンは基本的には了解ですか。これは面白いな。比較的に海軍ものが多かったようですけど、「日本のいちぽん長い日」では、阿南(惟幾)陸相に扮して、よかったですね。 三船 監督が岡本喜八さんでした。 作品もよかったですが、三船さんの阿南さんの姿は、苦渋と意志の力を見事に表現していて、感動しました。 三船 当時、日本でいちばん苦しんだ人だと思います。 そういう役柄に取り組まれる時はデータなどをいろいろお調べになりますか。 三船 「連合連隊司令長官・山本・五十六」の時は、ご遺族からお話をうかがったり長岡へお墓参りをしたり、その他資料をいろいろ頂きました。アメリカ映画「ミッドウェイ」の時は、脚本を読んだら、東京初空襲の時に山本司令長官が、広島の料亭で芸者をはべらかして酒を飲んでいた、というところから始まるんですよ。元参謀の方々から詳しくお聞きして、そういう事実はないと確信したので、そのことを申し入れました。ウォルター・ミリッシュに。 あの大プロデューサー。「ウエスト・サイド物語」などを作った人。 三船 そこのところを全部変えてもらったわけです。ロサンジェルス郊外に、赤い太鼓橋のかかった日本式庭園があってその庭を借りましてね。庭で読書しているところに参謀が来て「東京が爆撃されました・…」と報告する形に直してもらいました。そういうディスカッションは徹底的にやります。事実にないことはやれない、と。 三船さんが外国ものにお出になる時は、必ずそれをやってらっしゃるとい話ですが、必要ですね。今後もぜひぜひやっていただきたい。 三船 日本人として出る場合は、多くの日本の方もあとで見るわけですからね。日本人としてこんなことは考えられないというようなことはできません。それをはっきり申し入れます。しょっちゅう現場でもめてますけどね(笑)。 向こうの二世、三世、あるいは中国系の人のやっている日本の将校にしてもちんけな形になってますもんね。私なども、事実を記憶しているだけに気になる。 三船 「太平洋の地獄」のジョン・プアマンはイギリスの監督でしたが、兵隊の経験は無いんです。リー・マーヴィンは、海兵隊の経験があるんですね。サイパンで日本の兵隊に銃剣で刺された傷跡を見せてくれました。「止まれ」って言葉が分からなかったんで、ジャングルをどんどん入って行ったら、ザックリやられたって言ってました。こっちも兵隊あがりだし、お互い話は合いました。最初は、向こうが航空隊の少佐で、こっちが海軍の兵曹だったんですよ。そうすると階級に差ができてしまう。昔、満州にいた時、親父から、軍人は国が違っても上官に対して敬礼しなければならないと聞いてましたから、同列同級にせいと強く「ミツドウェイ」ヘンリー・フォンダ(左)とヘストン左よりグレン・フォード,ロバート・ミッチャム,ヘストンに要求して。向こうは大尉に降格、こっちは大尉に昇格(笑)。あと、筏を作って脱出するというシーンで、筏の作り方でもめるわけです。そこで、私に地団太踏んで泣けって言うんですよ。じょうだんじゃない。「大日本帝国軍人は泣かんのである」(笑)と断固としてつっぱねて、二、三日撮影にならなかった。「日本の男は、心で泣いても顔には出さん」と頑固なこと言って(笑)。 でも、ちゃんとお通しになって、結果いいものがでぎるわけですからね。 三船 日本人が見て、何だあんなバカなことをしやがって、と言われたくないから、こっちは必死ですよ。 「レッド・サン」のような時代劇でも意志を通されますでしょうね。 三船 「レッド・サン」の時の監督テレンス・ヤングは理解があって、打ち合わせの時から、「俺は日本の時代劇を知らない。お前に全部まかせるから勝手にやれ」と。責任負わされたはいいけど、それがまた大変なことになってね。なぜか「レッド・サン」テレンス・ヤングと列車の中で峠を着たりね(笑)。日本の時代劇のコスチュームを全部紹介してやったんです。「いい。いい。思った通りやれ」。それで全部日本から運んだ。スペインの一番南のアルメリアで撮影したんですが七、八ヵ月かかりましたね。 そうすると、直接の演出はテレンス・ヤングでしょうけど、日本側演出は三船さんということですね。 三船 お前の思った通りにやれっていうんで、やらしてもらったわけです。 とてもスケールの大きな映画でした。「将軍」の時はどうでしたか。 三船 あれは、エリック・バーコヴィッチが脚本を書いたんだけど、原作はジェイムズ・クラヴェル。パーコヴィッチは、今またクラベルの「ノーブル・ハウス」の脚本を書いています。彼が「コンニチワ、ハイ、イイエ、ワカリマシタ、ワカリマスカ」なんて言葉を外国人に教えたいんだという。僕は将軍の役だから、チェンバレン(リチャード)のやった人物(注*日本のサムライに捕えられるイギリス人航海士アンジン)に、「ワカリマシタカ、コンニチワ、アンジンサーン」なんて言えないと言ったんですよ(笑)。「分かったか」でいいんだ。「ワカリマシタカ」は、現代語だ。当時、そんな言葉はないってね。そういう言葉のことでもめちゃって、一晩撮影にならなかったことがありました。「ワカッタカ」という言い方だっていろいろあるでしょう。「ワカッタカーアッ!」と強く言うのと、「ワカッタカ」と静かに優しく言う言い方もあるし。そういう説明を一所懸命しても、どうしても「ワカリマシタカ」と言えと言う。「ワカリマシタカ、アンジンサーン」(笑)なんて俺は言えない。将軍として言えないって、頑として言わなかった。向こうも意地になってた(笑)。 そうした意気込みが結果的に相手に通じちゃうんじゃないかという気がしますね。 三船 だろうと思いますね。それでいいと思うんですよ。結局、「将軍」は、アメリカをはじめ、各国であれだけの多くの人が見てくれたのは、ジェイムズ・クラヴェルさんの功績ですけどね。日本の作家が幾ら立派な作品を作っても、あそこまでいかなかったと思います。そういいった功績は認めますけど、おかしなところがずいぶんありました。そこまでこちらは介入できませんが、自分の役のところだけは、主張しました。日本の習慣として、動あの時代の身分の人はこういうことであったと……。 三船さんは、喜劇には、あまり興味ありませんか。 三船 いやーあ……(笑) 「社長洋行記」のように、ゲストとして出演なさったのはありますね。 三船 ありますよ、時々。それと日常で喜劇みたいなことやってる(笑)。ステイーヴン・スピルバーグの「1941」、こ、れはもう完全なコメディ。まじめくさってやればやるほど、ばかに見える(笑)。それが狙いですけど。 あの作品は何日間くらいかかったんですか。 三船 僕の出演はわずかだったんだけど、二ヵ月くらいは現場にいましたよ。最初のうちは、兵隊さんに扮する様ざまな東洋の人たちに、毎朝、敬礼練習から、キヨツケーッ、ミギヘナラエッ、などから始めて、とにかく、初年兵教育から始めたわけです(笑)。ステノーヴンがやってくれっていうので。帽子を斜めにかぶってダーラダーラと潜水艦の上を歩かれたんじゃ困るんでね。こっちは、毎日、朝から初年兵教育。やあ、くたびれましたよ(笑)。 教官で。 三船 撮影に入っても、胸の注記っていうのかな、あれは伊・19(船の印)でしたね、伊・19の何の誰と、服の胸のところに名前を書いてやる。毎日洗濯するもんですから、毎日書いてやらなきゃならない、一人ひとりに。余計な仕事でくだびれちゃった。セリフは日本語だったからよかったですけどね。雑用が多かった(笑)。 スピルバーグの演出ぶりはどうでしたか。 三船 そんなには細かい注文はありませんでしたよ、私には。ただ、「モーイッペン」「モーイッペソ」で、フィルムをふんだんに使って……。「1941」は幾らかかったのかな。日本の金に換算して……百億か。プロデューサーが、のんきなおじさん(笑)。自分でも脚本を書いて監督もしている、鉄砲が好きな……ジョン・ミリアス。ステイーヴンが金をガボガボ使ってるのに、ニコニコしている(笑)。ヘーえ、こらぁ大物だなと思った。まだ回収できないって言ってましたがね(笑)。 いろんな物を壊した映画でした。 三船 ステイーヴンは才能のある人だけど、この時まだ三十一か二だった。鮨が好きでね。彼の誕生日にスタジオに鮨の職人呼んで、鮨パーティをやってやった。 スピルバーグも映画少年だったらしくて、黒澤さんの映画もよく見てるんですね。それで三船さんにも出てもらったんでしょうね。 三船 自分でも言ってたね。「JAWSジョーズ」もそうだし、「1941」のファースト・シーンの霧は、「蜘蛛築城」の真似だと。女の子が裸になりながら海にドッボーン。下から潜望鏡が出てきてキャーッ(笑)。このシーンは、クロサワの真似だって言ってた。 じゃあ、念願だったわけですね、三船さんに出ていただくのが。 三船 それで、ステイーヴンは「黒澤さんは『用心棒』みたいなものをどうして撮らないんだ。『用心棒』みたいなのを撮るんだったら、俺、金出すよ」と言うんです。黒澤さんに話したら、冗談じゃないよ、今さら「用心棒」は撮れないよって。 「用心棒」「椿三十郎」「隠し砦の三悪人」の影響はすごいんですね、今のアメリカの若い監督に。ジョージ・ルーカスにしてもそうですしね。 三船 そうね。「隠し砦の三悪人」は、サンフランシスコに不思議なアメリカ人がいて、誰が売ったのか知らんけど、あれ一本だけフィルムを持っていて、商売して歩いている(笑)。「用心棒」も、あの当時、「用心棒」何とかなんて会社つくって、「用心棒」一本で食ってた連中がいました(笑)。東宝がどんな形で売ったのか知らんけど、駐在員が騙されたのか、売り切っちゃったんですね。もったいないと思いますね。「上意討ち」もそうだ。あの作品は引っ張りだこなんですよ。去年、八月に二世ウィークがあるというんで、ロサンジェルスに二週間ばかり招かれたんですが、新しくリトル・トーキョーに日米劇場がでぎたんです。二世ウィーク中にこの劇場を何に使うんだと聞いたら、何もアイデアがないという。遊ばせとくのはもったいないじゃないか、東宝の支社に伺本もフィルムがあるはずだから、フィルムを借りて皆さんに安く見せたらどうかと言ったんです。ちょうどNHKの大河番組「山河燃ゆ」の撮影があったもんだから、一世の方々が住んでいるアパートにご挨拶にお訪ねしたりしたんですけどね。そういう方々をご招待してもいいじゃないかと提案したんです。ところが、「上意討ち」なんて、フィルムがもうズタズタなんだね。ああいうのは、焼き直して、きちんとしたプリントを持っていないとダメですね。見てくれる人に失礼だ。 今ある企画 ラスト・サムライ スピルバーグと三船さんの顔合せも面白いけど、私は、ジョン・ミリアスと組んでも面白いんじゃないかと思いますね。 三船 いやあ、あの人は怠けもん(笑)、といったら悪いけどね、のん気なんですよ。鉄砲が好きでね。顔合わせると鉄砲撃ちに行こう、行こう(笑)。のん気なことばっかり言ってるんですよ。「コナン・ザ・グレート」は、スペインで撮ったらしいんだけど、プロデューサーが、ディノ・デ・ラウレンティスで、えらい撮り直しがあったらしいんです。第二次ロケーションをやって大変な金遣ったようで、お互いに悪口をボロンチョンに言っていた(笑)。ミリアスは現場にはあまり行かないんですよ。プラモデルなんかやってる。坊やに日本のプラモデルを持っていったことがあるんです、「1941」の時に。伊・19のプラモデルだったんですけど、そしたら気に入っちゃってね。日本に来た時などいっぱい買い込んでた(笑)。「コナン・ザ・グレート」の時もミリアスに会いに現場に行ったら、監督なのに彼がいない。遊びに来たといったら、オートバイでブルルルッと会いに来て、ついでにチョコチョコッと仕事をやって、また帰ってプラモデルやってた(笑)。大物なんだな、あれは(笑)。才能はある人ですけど、なかなかおみこし上げないんですねえ。 「コナン・ザ・グレート」では、日本の剣法を取り入れてましたね。 三船 あの時も、刀を日本で作ってくれって来てね。日本のキャメラマンも誰か紹介しろと。いろいろやってやったんだけれども、いつの間にか別なやつでやってるんだな、これが(笑)。 「風とライオン」を見ても、アスは、、ミリ日本の時代劇が大好きだという「レッド・サン」アラン・ドロンと事がわかるし、剣戟の型を大分取り入れてやってるんですね。 三船 ステイーヴンもミリアスも、「クロサワ、ミゾグチ、オズなど、日本映画を見て、ずいぶん勉強した」と自分ではっきり言ってます。尊敬している、とちゃんと言う。立派だと思うんです。日本の若い助監督などは、巨匠なんて古い、みたいなこと言うけれどね。 逆にそれを告白してね。「スター・ウォーズ」なんか「隠し砦の三悪人」ですものね。「七人の侍」は、彼らにとっては聖書といえる。こうした作贔は、アメリカの新勢力が出る前に、イタリア映画にもずいぶん影響を与えましたね。 三船 イタリアでは、もめたのがありましたね。「用心棒」とそっくりのやつがあった。 セルジオ・レオーネ監督の「荒野の用心棒」。 三船 東宝のローマ駐在員が見つけて、あれ、これどっかで見たことがあるなと(笑)。川喜多(長政)さんに報告したらしいんですよ。ちょうど、川喜多さんとパリに行ってた時でしたけど、川喜多さんの何十年来の常宿、パリのキャリフォルニアというホテル。ある日、そこのロビーで川喜多さんが、ガンガン怒鳴ってるんですよ。ブロッコリとか野菜みたいな名前のプロデューサーを前に置いて。フロントにいる頭の真っ白い支配人が、「ムッシュ・カワキタがあんなに大きな声出してるのは初めて見た」と言ってましたよ。国際人でしたね、川喜多さんは。堂々と相手を向こうに回して難詰していた。明らかに版権の侵害だ。ストーリーそっくりそのままじゃないか、と。 「用心棒」以外の日本の時代劇も、ずいぶんイタリアには真似られましたもんね。影響はものすごくあった。 三船 マカロニ・ウエスタンの時代も過ぎましたね。あの当時稼いでいたのは、ブロンソンとクリント・イーストウッド。ブロンソンも、今、ロサンジェルスでショボーンとしているね、仕事がなくて。 ブロンソンは、レオーネの「ウエスタン」あたりから、スターとして出てきたんですもんね。一時は、日本でもすごい人気でしたけどね。 三船 ロサンジェルスからは、うちに毎年、年鑑ブロックが送られてくるけど、俳優さん、女優さんをはじめ、映画関係の九〇パーセントが失業状態だと言うことです。なかなか厳しいですね、アメリカも。日本ばかりじゃありません。アメリカは、かつては鉄鋼、自動車、三番目に映画と、ハリウッドの映画は、基幹産業の一つだったんですけど、今はご存じの通りですからね。去年の暮にコロムビアから「空手キッド」という映画出演の話しがあったんだけど、スケジュールの都合で降りちゃったんです。そのコロムビアは、コカ・コーラが買っちゃったでしょう。ユニヴァーサルは、観光映画村の元祖でMCAの傘下だしね。センチュリイシティの二十世紀フォックスは、デンバーの石油王が買っちゃった。新宿副都心じゃないけど、ビルがボンボン建って、スタジオなんかどっかいっちまえって言う感じだね。 ずいぶん変わってきましたね。 三船 頑張っているのは、みんな独立プロの人たちですよ。メイジャー会社の名前だけは残ってますけどね。 配給会社という形でね。 三船 スタジオはレンタルで借りられますから、独立プロはスタジオを持ってなくてもいいわけですよ。気の合った連中が集まって、一所懸命自分で面白いものを作ろうとする人だけが残ってゆく。スピルバーグ、ルーカス、ミリアス・・・。 フランスではアラン・ドロンが、三船さんと映画を撮りたがってましたね。以前、アラン・ドロンが侍になって日本で撮るという話を聞きましたが……。 三船 無理ですね。前に、企画立てたことがあるけど。黒澤さんに相談したところ、あいつじゃあだめだよ、って。 アラン・ドロンとのおつき合いはいつ頃からですか。 三船 「レッド・サン」から。それからあと、ダーバンのCMを十年ぐらいやってくれたんですけど。フランスも映画が低調ですし、ADマークの化粧品なんか作って、商売のほうに夢中になってね。それでちょっとトラブルがあって、サイナラー(笑)。ソニーさんにいろんな子会社があって、アラン・ドロンのマークの化粧品を売り出したんです。契約の問題かなにかでダーバンさんとまずくなっちゃって、以来、私はノー・タッチ。 ジャン・ギャバンさんともお知り合いだったようですね。 三船 亡くなる直前に、化粧品のバルカン、今、マストロヤン(マルチェロ)がやってるCM、それをやってくれるというので契約書を作って。彼は飛行機は絶対嫌いだって言うんで、ジュネーブで撮ることになっていた。じゃあ、あさって何時の汽車に乗る、なんて言ってた時にパタッと亡くなったんです。彼は、昔、フランスの水兵さんだったんですよ。で、俺が死んだら海へ流してくれって……。あとでお訪ねした時、弁護士事務所で、未亡人に会ったんですが、「あの人、お酒飲んじゃいけないというのにガブガブ飲んで…あなた方にもご迷惑かけた。この話はないことにしてくれ」と、契約書を破いてくれた。金よこせなんて言わないんです。実にちゃんとした、しっカりした人でしたね。そのお葬式の写真まで、あとで送ってきてくれました。 黒澤監督にはよくお会いになりますか。ぜひまた一緒にお仕事してほしいですね。 三船 時々、会うんですけどね。今、「乱」を撮っておられる。ぜひ成功してもらいたいですね。「ミッドウェイ」の時のウォルター・ミリッシュ、ああいう大プロデューサーに、いろいろ相談した事があるんですよ。そうしたら、アメリカの興行ペースに乗せるんだったら、アメリカの役者を二、三人入れなきゃだめだ、というんです。日本の映画となると、アート・シアター扱いになるからと。アメリカで商売しようと思ったら、アメリカの人が出ないとダメらしい。 三船さんのこれからの外国での出演予定はいかがですか。 三船 まあ、いろいろ来てましてね。バート・レイノルズのところからも来てる。「ピンク・パンサー」の監督からも来てるんですけど、これが題名がおかしい。 ブレイク・エドワーズですね。 三船 「ラスト・サムライ」(笑)。南アフリカのヨハネスブルクで撮りたいと言ってます。あとは「戦場にかける橋」のパートII。今、準備してます。私も出稼ぎもやらなきゃいかんし(笑)。 いろいろ、やって下さい。侍というと三船さん。外国のライターはそういうイメージで書いているんじゃないですかね。ともかく、さらに世界に飛躍して、これからも私たちを楽しませて下さい。 三船 敏郎(ミフネ トシロウ) 日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。1951年にヴェネツィア映画祭で最高の賞、金獅子賞を受賞した黒澤明監督「羅生門」に主演していたことから世界中より注目を浴び、1961年には主演した黒澤明監督「用心棒」、1965年にも主演した黒澤明監督「赤ひげ」にて、ヴェネツィア国際映画祭の最優秀男優賞。その他にも世界各国で様々な賞を受賞し、アラン・ドロン、スティーブン・スピルバーグなど世界中の映画人たちへ多大な影響を与えた、日本を代表する国際的スター。1920年4月1日 - 1997年12月24日没。 三船敏郎生誕100周年公式ページはこちら -
問題作批評:日活ロマンポルノ「白い指の戯れ」【後編】
2020年12月25日来る2021年に、日活ロマンポルノは生誕50年の節目の年をむかえます。それを記念して、ロマンポルノの魅力を様々な角度から掘り下げる定期連載記事を、キネマ旬報WEBとロマンポルノ公式サイトにて同時配信いたします。「キネマ旬報」に過去掲載された、よりすぐりの記事を「キネマ旬報WEB」にて連載していく特別企画「あの頃のロマンポルノ」。 連載第1弾は、斎藤正昭氏と飯島哲夫氏によるコラムを「キネマ旬報」1972年9月上旬号より、前編、後編の二部構成にて、転載いたします。 ロマンポルノ作品として1972年第46回「キネマ旬報ベスト・テン」の第10位に選ばれ、脚本賞を神代辰巳、主演女優賞を伊佐山ひろ子が獲得した『白い指の戯れ』をピックアップ。飯島哲夫氏による映画評(後編)をお届けいたします。(※脚本賞と主演女優賞は第6位の『一条さゆり 濡れた欲情』とあわせて受賞)。 1919年に創刊され100年以上の歴史を持つ「キネマ旬報」の過去の記事を読める貴重なこの機会をお見逃しなく! ポルノを否定するポルノ 三回見た。 ヒロインゆき(伊佐山ひろ子)が、鳩の群れにたたずむショット。ヒーロー拓(荒木一郎)が、おもむろに空を見上げ横向きざまペェッと吐き捨てる、タイミングはずしたようなストップモーションに、新人・村川透の秀れた映画感覚があった。 あるいは、「彼にとって女はあなた一人じゃないの、女のところを転々と泊り歩いているのよ、所帯もってそっから出勤するスリなんて考えられる?」というスリの洋子(石堂洋子)のセリフにさえ、脚本・神代辰巳の存在をありありと感じ、妙な親しみを覚えるのである。 渋谷の、とある喫茶店の片隅、レッカー車に涙ぐんでいたゆきと、なにげなく話しかけた二郎(谷本一)との出合いは、ボーイ・ミーツ・ガールなのだろう。さらに、ゆきと拓の出会い、看板の字を逆さに読みながら歩くあたりも、そんなふんいきだが、村川透はゆきの初体験を、ゆきへのあくまでキョトンとした表情を通して見事に描いた。 「初めてじゃないけど本当はよく知らないのよ」とケタケタ笑いく〈一つ、一人でするのをセンズリ何とか……〉なる春歌をつぶやいていたのは「濡れた唇」(神代辰巳)のコールガール洋子である。 「濡れた唇」はこの洋子とフーテン金男(谷本一)の話であるが、「白い指の戯れ」の二郎は、金男そっくりに現われながら、映画の三分の一ほどで、あっさり消えてしまう。もしかすると、この風変りな構成は「濡れた唇」の続きを意識した、さりげない企らみかもしれぬ。二郎の愛人もまた洋子である。洋子は、ゆきに悪魔のささやきを吹き込む重要な役割りになって、ついに、最後まで存在するのだ。 ▲「白い指の戯れ」より 四人の男女が刑事の追跡をのがれ、ままごと遊びのようなフリーセックスを進行させながら、「うまくやっていけるよ」と気ままに思い描く性共同体幻想、「濡れた唇」の全裸で刑事にひかれゆくヒロインと、クシャミするヒーローの寒々とした姿に対し、村川透は、コソドロ・スリ集団を、まぎれもない現実の性共同体として描き、権力との緊張関係を持ちこたえようとした。彼らは、絶えず刑事の目を意識する。その恐怖の入り混じったスリリングな感性と、性の回路の微妙な交錯。 八王子駅で襲った直後、ゆきは拓によって、初めて性の快楽を知り、張り込み中の刑事にくちびるをぐっとかみしめる。拓に燃えながらスリ仲間の山本(五条博)に身をまかせたあと、ゆきは初めてひとり、万引きのスリルを味わう。ゆきと拓のセックスのあとには、必ず刑事が登場する。従って、バッカジャナカロカ・ルンバを歌い、阿波踊りのリズムに興じる、あっけらかんとした、嬉々とした場面が、解放の瞬間として、生きてくるのだ。 春歌・秋田音頭からバッカジャナカロカ・ルンバに至るシークェンスの、何という見事さ。自らの性体験をはるかにエスカレートさせてきたゆきが、ここで何だか恐くなったと告白すれば、それは「仲間になった証拠よ」と洋子が言い聞かせる。村川透は、ゆきにおける大いなる転生の契機をあくまでおおらかな春歌・秋田音頭に託したのである。 ひとの嬶すりゃ忙しもんだ 湯文字ひも解くふンどしこはずす 挿入(いれ)る持ちゃげる気を遣る抜ぐ拭ぐ 下駄めっけるやら逃げるやら 拓やゆきたちがめざしたのは東北の旅だったが、村川透のふるさとは山形だという。何故、東北へ行くか。ディスカバー・東北、七十年代資本の論理…… 悲劇のヒロイン(小川節子)、挑発的セックス(白川和子)、そのいずれでもない「濡れた唇」や「白い指の戯れ」は、〈ポルノ〉にあって〈ポルノ〉を否定する世界かもしれない。セックス場面に株式市況が入る謎! 文・飯島哲夫 「キネマ旬報」1972年9月上旬号より転載 前編はこちらから 「白い指の戯れ」【Blu-ray】監督:村川透 脚本:神代辰巳・村川透 価格:4,200円+消費税 発売:日活株式会社 販売元:株式会社ハピネット・メディアマーケティング. 日活ロマンポルノ 日活ロマンポルノとは、1971~88年に日活により製作・配給された成人映画で17年間の間に約1,100本もの作品が公開された。一定のルールさえ守れば比較的自由に映画を作ることができたため、クリエイターたちは限られた製作費の中で新しい映画作りを模索。あらゆる知恵と技術で「性」に立ち向い、「女性」を美しく描くことを極めていった。そして、成人映画という枠組みを超え、キネマ旬報ベスト・テンをはじめとする映画賞に選出される作品も多く生み出されていった。 オフィシャルHPはこちらから -
「世界のミフネ」生誕100周年!戦後最大の国際的スター三船敏郎(1)
2020年12月25日スティーブン・スピルバーグやアラン・ドロンといった世界を代表する映画人と対等に仕事をし、尊敬された日本人はいただろうか? 「世界のミフネ」と呼ばれた三船敏郎 生誕100周年を記念し、創刊100周年を迎えた「キネマ旬報」に過去掲載されたアーカイヴから三船敏郎に関するよりすぐりの記事を「キネマ旬報WEB」にて連載する特別企画。過去に「キネマ旬報」に掲載された記事を読める滅多にないチャンスをお見逃しなく。 第一弾は、1984年5月&6月発売の「キネマ旬報」に掲載された、水野晴郎による三船敏郎本人へのインタビューをお届けします。 戦後最大の国際スター三船敏郎の巻 戦後あの混乱の中で、東宝第一期ニューフェイスとしてスタート。以来、黒澤明監督をはじめとする巨匠たちの薫陶を受けながら、自身も日本映画の柱となられた三船さん。淡々と語る様々な作品の想い出の中から、その道が決して平坦ではなかった事実がにじみ、越えて来た努力の豊かな稔りが香る。まさに戦後の日本映画の歩みをその姿で具現している大スター。もっともっと映画に出てほしいと願う気持ちでいっぱいになった。 水野(以下、省略)三船さんは、日本の生んだ国際スター。しかもしかもワン&オンリーの大スターで、後が続かないですけどね。 三船 とんでもない。 それだけに、今日はじっくりといろいうなお話を伺いたいのですがー。少年時代は、青島と大連にいらっしゃったんですね。 三船 ええ。私は、中国の青島の生まれで子供の頃に大連に移って、兵隊に行くまでいました。兵隊も現地の関東軍だったんです。公主嶺の第七航空教育隊に入って、半年間バカンバカソぶん殴られて、牡丹江の第八航空教育隊に転属になった。そしてちょうど南方の戦線がちょっとあやしくなった頃、山下奉文閣下が関東軍司令官で来られて、現役の兵隊を全部連れて南方へ移動したわけです。その時、我々教育隊生は、日本へ帰れというんで、初めて日本の土を踏んだということです。 ということは、関東軍の中でも、学生の身分だったんですか。 三船 いえいえ。ただの一銭五厘(赤紙のハガキの値段)の兵隊です。まあ、我々の時代は、二十、二十一にもなれば兵隊にとられましたからね。兵隊にとられれば死ぬもんだと思ってましたから、かってなこと、ずいぶんやってましたよ(笑)。 関東軍でしたら、満州の中をあちこち回られたんでしょうね。 三船 いえ私は、公主嶺と牡丹江しか知りません。子供の頃、修学旅行で奉F天(落陽)、新京(長春)、鞍山とかを回ったことはありますけどね。 お父さんは、写真館とか貿易関係のお仕事をなさっていたということですが。 三船 青島では貿易もやってましたけど、事業に失敗して、私が兵隊に行く頃は大連の写真屋一軒だけだったんですよ。 それで、三船さんもその写真館には携わってらしたんですか。 三船 親父も年をとってましたし、病弱で入院してましたんで、いやいやながら跡を継いでやってたわけですよ。それが、芸は身を助くになっちゃってね(笑)。第七航空教育隊はー原隊が浜松で、今でも航空自衛隊の基地ですーそれぞれが無線、通信、気象など特技経験者だった,んです。私は写真が特技だったので航空写真の方に入ったんです。いつか部隊長の家庭を撮れと言われましてね。それが傑作で、「技術優秀である」というので教育隊に残されて、命拾いしたんです。戦友はほとんど戦死してます。 そうしますと、終戦時を境とした戦前と戦後のお気持ちの落差というのはずいぶんありましたでしょうね。 三船 そうですね。戦争中は、とにかく兵隊に行けば死ぬもんと思ってましたからね。戦争末期は、教育隊には、兵隊さんが半年間に一万人ずつ入ってきていたんですが、第二乙、丙なんて、鉄砲も担げないような兵隊さんぽっかりでしたからね。終戦の二十年の春には、熊本の特攻隊の基地に手伝いに行ってたんですよ。そんなような状態でしたね。 日本にはご親戚は無かったんですか。 三船 いえいえ、親父の本家が秋田にありましたし、たくさんいました。 終戦後は、すぐ東京にお出になったんですか。 三船 ええ。たった一円二十銭と軍隊毛煮・ぷ持主布二枚持ってね(笑)。食糧も何もないしね。田舎は秋田だから、米はあるんで、時々行って一儀ずつ担いできちゃあ食いつないでたんですよね。 東宝にお入りになるきっかけは何だったんですか。 三船 教育隊で写真をやってた時の先輩や同僚の中に、映画関係の人がずいぶんいたんです。なかなか仕事にありつけないんで、そういった先輩たちを尋ね歩いて、トライボード(三脚)でも担ぐから、撮影部あたりに何か仕事させて欲しいと頼んだんです。それでなんとなく映画界に入ることになったという感じです。 それがまた、なぜ撮影部ではなく俳優になられることになったんですか。 三船 ちょうどその頃、東宝で三年間続いた大争議がありましてね。仕事を探してもらってた先輩が「ちょうどニューフェイスを募集している。そっちの方に履歴書回しておいたぞ」。そんなんでこういうことになっちゃったわけです(笑)。 その前に演技の経験は、全然なかったわけですね。 三船 ええ、全然(笑)。i我々が伝え聞いていることでは、ニューフェイスの試験の時に、山本嘉次郎監督が「面白い個性だ」と、三船さんをピック・アップなさったということですが、本当ですか。 三船 違うんです。あの先生は「あいつはダメだ」(笑)。でも、撮影部の、もう亡くなられましたけど、三浦(光雄)さんとか、いろいろな方が応援してくれてね。それでどうにかこうにか補欠で入れてもらったんです(笑)。 いわゆる、戦後の東宝のニューフェイス第一期生ですね。 三船 ええ。他にも何人かいました。 久我美子さん、若山セツ子さんなどがそうですね。男の方はどういう方がいらしたんですか。 三船 今、うち(三船プロ)にいる伊豆(肇)君、堺ブーチャン(左千夫)、まだ仕事を続けてる人は、そんなとこかな。 それで、東宝撮影所で演技訓練を受けられたんですね。 三船 男女あわせて、三十七、八人いたんですけどね。争議が長びいてしまって、授業も細ぽそという感じで。争議中に、大スターが皆さん(注*長谷川一夫、大河内伝次郎、高峰秀子、山田五十鈴、花井蘭子らが新東宝へ移った)いなくなっちゃったんです。それで、ニューフェイスで映画を作ろうと、活動が始まったんです。 三船さんのデビュー作は「銀嶺の果て」ですね。 三船 ええ。谷口(千吉)さんの監督で黒澤(明)さんの脚本で。谷口監督がロケで撮ったフィルムをどんどん撮影所に送って、それを黒澤さんが編集なさった作品です。その時、「あのやろう、人相悪いし、ギャングいけるんじゃないか」っていうんで、「酔いどれ天使」になった(笑)。だから、これが黒澤さんとのご縁のはじまりです。 「銀嶺の果て」は、谷口監督のダイナミックな演出が見事に盛り上がった作品でした。大ロケーション映画で、大変だったでしょうね。 三船 そうなんです。白馬、黒菱、唐松の山小屋に半年以上こもったんですからね。毎朝三時、四時に起きて、機材を担いでね。第一ケルン、第二ケルン、第三ケルンと登って行くんです。なんか荷物担ぎになったみたいだった(笑)。 その時は、東宝の社員で、給料制ですか。 三船 いえ、社員じゃないんです。契約者。しかも、ニューフェイスのチンピラですからね。二千円か三千円か、そんな程度でしたよ。 共演の若山セツ子さんが実にフレッシュで、悪人の心に光を当ててゆくという感じで適役でした。 三船 そうでしたね。志村(喬)さん、小杉義男さん、河野秋武さんらが共演でね。 谷口さんとは、その後もいろいろな作品でお付き合いなさってますが、どういう方でしたか。 三船 谷口さん、黒澤さん、本多猪四郎さん、丸山(誠治)さん、みんな山本嘉次郎先生のお弟子さんでしたからね。 いわゆる嘉次郎一家。 三船 その中でも、谷口さんが一番先輩格だったようですね。すごく面白い人でしたよ。 その頃の作品で、山本監督の超ヒット作がありますね。「新馬鹿時代」。エノケン〆(榎本健一)、ロッパ(十口川)がヤ工演なのに、えらく三船さんが印象に残ってるんです。 三船 いやあ(笑)。 すごい貫禄のあるギャング・スターという感じで。 三船 ご冗談を。下手な役者で(笑)。メシも食わねえようなひょろひょろで。何か知らんけど、そこへ座れと座らされただけなんですけどね(笑)。 先ほど、「銀嶺の果て」がきっかけで、黒澤監督が「酔いどれ天使」にキャスティングなさったということですが。 三船 そうですね。「銀嶺の果て」がきっかけで、 黒澤さんに「酔いどれ天使」で使っていただいて、以来ずっと、勉強させていただいたということです。 「酔いどれ天使」では、いきなりあれだけの大役をやられたわけですからご苦労も相当のものだったでしょうね。 三船 そうですね。でも、まあ、人相が悪いから、演技しなくても、そのままでいいんだといわれて(笑)。ただ無我夢中でした。 だんだん病気が重くなってゆく時のメイク・アップがすごかったですね。 三船 ちょっとオーバーでしたらけどね「静かなる決闘」三篠美紀(右)「醜聞」山口淑子(右)106(笑)。あれ、てめえで塗りたくったんですよ。 はーあ。ご自分でなさったんですか。木暮(実千代)さんとのラヴシーンとか、ジルバを踊るところなどは、特に我々はウワーッという感じで見ましたね。痛快感というか爽快感たっぷりで。 三船 今や古い話になりました(笑)。 でも、映画史上に永遠に残りますよ。あの映画の頃が、戦後日本映画の黄金出品期だったような気がするんです。三船そうですね。映画しか娯楽のない時代だったから。とにかく、作れば全部お客さんが入ったわけですからね。だから、東映さんなど、第二東映まで作ったりした。テレビの到来とともに、映画も変わってきました。 「酔いどれ天使」は、全部、砧撮影所のセットだったんですね。 三船 今の砧の奥の方、橋を渡った向うにオープンがありましてね。あの池もわざわざ造ったんですよ。 メタンガスがブクブク出ているどぶ池ですね。 三船 あれ、黒澤さんの発想です。すごく工夫して造ったんです。 確かに、初期はギャング・スター役が多かったですね(笑)。でも一方では「静かなる決闘」のように、大変、理知的な、自分自身をグッと抑える役もなさってる。その兼ね合いは、大変だったんじゃないですか。 三船 自分では、演じ分けているという「酔いどれ天使」意識はないんですよ。 「静かなる決闘」は、大峡作品ですね。 三船 まだ、東宝が争議中だったので、山本先生を中心に、映画芸術協会っていう名称で、新橋に事務所を設けて、黒澤さんとかみんなでチームを組んでは、方々に出稼ぎに行ってたわけです。大映、松竹……。大峡京都では「羅生門」を撮りました。 松竹では「醜聞」を撮った頃ですね。「野良犬」は新東宝でしたか。 三船 お金を出したのが新東宝で、スタジオは、今の東映さんが使っている大泉でした。元の新興キネマ。全部、あそこで撮りました。 「野良犬」は、その後、現代まで続いている刑事アクションのはしりといえますね。汗をびっしょりかいて歩いているシーンが印象的でしたが、真夏の撮影でしたか。 三船 確か夏から秋にかけてだったと思います。あれも、相当日数かかってましたからね。 ラスト・シーンが強烈でした。木村功さんとお二人でパターンと倒れて、ハーッハーッと息をつく。戦後の二つの青春がそこで交差したという感じで。その頃外国ものの翻案がいくつかありますね。「白痴」や、『マクベス』を基にした「蜘蛛築城」。そうした作品に取り組む時は、原作が世・ぽ芥的に知られているだけに、また格別むずかしいと思うんですが、いかがでしたか。 三船 いやあ、発想も企画も全部、黒澤さんですからね。こっちは、そのつど、体ごとぶっつかるだけです。もう、それのみ(笑)。 「蜘蛛巣城」の最後のシーンで、三船さんの城主が討たれるところ。あそこでは、本当の矢が射られたそうですね。 三船 そうなんです。はじめ、エキストラたちを助監督が集めて、ベニヤ板に丸を書いて、小道具の弓に矢をっがせて、その丸に矢が当たった者を引っぱってきて、そいつらにやらそうとしたんですよ(笑)。あーぶない、あぶない。どこへ飛んでいくか分かりゃしない。みんなが心配してね。それで、今でもお付き合いしてますけど、鎌倉にお住まいの流鏑馬の金子家教先生や、その方のお父様で亡くなられた武田有鄭先生など、弓道何段という方々にお願いして射っていただいたんです。でも安全が保障されたというわけではないんです。黒澤さんは、アップでも望遠レンズを使いますからね。ずーっと遠くにキャメラを据えるんですよ。そのキャメラの後ろから射るからとにかく遠い。矢一本それぞれ癖がありますしね。ほんとの鏑矢ですよ。こんなとこ(首元)にきたのもあります(笑)。皆さん有段者だっていうんで安心してたんですけど、こっちが逃げ回るところにピュビュビューソとくるでしょう。生きた心地しなかった。弓のシーンだけで三日か四日かかりましたね。いやーあ(笑)。笑いごとじやないけど……。個人的には自分も弟子入りして流鏑馬をやりますけど、今でも仲間と語り草ですよ。見てる方も怖かったと。 それはそうでしょうね。動きながらだから余計ですね。ウィリアム・テルの場合はじっとしているからよかったけど(笑)。でも、黒澤監督の作品の場合は、そういったエピソードが多いんでしょうね。 三船 そうです。なかなか妥協しない人で、やるといったらやる人だから。 でも、それがOKになった時は、ホッというか、ドドッと疲れが出るんじゃないですか。それこそ、その後は酒でも一杯ですか。 三船 いやいや、一杯どころじゃないですね。もう。がーっくりですよ(笑)。 「羅生門」もそうですけど、それまでの現代劇にくらぺて、コスチューム・プレイの場合は、取り組む際に特に気をつけることはありましたか。 三船 いやあ、こっちは、時代考証など何も知りませんからね。時代劇に関しては、ヴェテランはたくさんいらっしゃったけど、こっちは、とにかく何の訓練も受けたことのない、ただのど素人で、そのまんまで出たわけです。「羅生門」だって、ただただ無我夢中……。 「羅生門」の時に、黒澤監督が豹の動きを三船さんに映画で見せて、「あの動きをつかめ」とおっしゃったというエピソードを聞いてますが。 三船 とにかく、役としては山賊、野盗のたぐいですからね。山をかけずり降りてサササッと木陰に隠れたり、サササッと出て来て、盗んだりね(笑)。豹のようにすばやく、が黒澤さんの狙いだったんでしょうね。 ほんとうに野生的でした。 三船 こちらも若かったからよく走りましたね。今はとてもできないけど(笑)。 京マチ子さんも、こめ映画で国際的に飛びたっていきましたけど、最初にお会いになった時の印象はいかがでしたか。 三船 やっぱり体当たりでやってるというか、気迫が感じられたね。京さんは、今でもちっとも変わってまぜんね。相変わらず舞台やテレビで活躍してる。 あまり人々は語りませんけど、京さんとの「馬喰一代」は、爽快な映画で私は、大好きです。大峡作品で、木村恵吾監督。北海道ロケでしたね。 三船 いえ。あれは、信州の霧ケ峰で撮ったんです。 キネ旬のこの対談で京さんにお目にかかりましたら、京さんも「馬喰→代」は、ものすごく好きで、印象に残っているとおっしゃってました。やはり「羅生門」見ても感じましたけど、三船さんと京さんは、リズムが合うんだと思いますね。三船さんは、セリフを最後まで頭にたたき込んでから撮影現場に臨まれるそうですから、共演者としても、ぶつかりがいがあるんでしょうね。 三船 まあまあ、どうでしょうか。黒澤さんあたりに厳しくしっけられましたから(笑)。 やはり、かなり厳しい指導でしたか。 三船 撮影現場に脚本を持って入ることは許されませんでしたからね。全部覚えていかなきゃならない。撮影に入るまでに何十回、何百回と、ホンを読み直して、セリフを必死で覚えたものですよ。 黒澤さんの場合は、リハーサルを立ち稽古の形でやられたそうですね。 三船 ずいぶんやりました。 舞台と同じで、頭から最後まで完壁に覚えてから撮影に入るというのは、その後、三船さんが外国の方々とお仕事をなさる時に、ずいぶんプラスになったんじゃないですか。 三船 それはもう。 三船さんは、早くからフケ役をやってらっしゃるせいか、今も全然お年を召していない。おなかも出てないですね(笑)。さすがに鍛えていらっしゃるから。 三船 いやいや、ある程度は出てますよ(笑)。 海外への旅は、全然億劫ではないですか。 三船 いや、こたえますねえ(笑)。 海外での作品も多いですけど、「グラン・プリ」でも、フケ役でしたね。 三船 フケ役が多かったね。黒澤さんの作品でも「生きものの記録」とかね。だから、ずいぶん勉強させられたし、鍛えられてたから、「グラン・プリ」でも慣れたものですよ(笑)。ただ、今、若いですねと言われると、なんだか照れちゃうね。「私はもう六十三ですよ」って。もう還暦すぎてる。大正九年ですからね。 「生きものの記録」の時は、同じフケ役でも、最後のシーンのフケ役と途中のフケ役と、えらく段差を付けてられましたね。もうブラジルへ行けないってことになって、ガクーッときた感じが、すごく出てた。 三船 最後は、もう気が狂っちゃってましたから、ちょっと極端にね。 「赤ひげ」は、壮年の役でしたね。 三船 いろいろな年齢の男性を、勉強させていただいたというわけです(笑)。 小林正樹監督も、黒澤監督と同様に、相当粘られるんじゃないですか。三船なかなか粘りますね。 「上意討ち」は、いい作品でしたね。 三船 とにかく丁寧に撮る人ですから。ワン・カット撮って、またワソ・カット。二人の対話のシーンでも、それぞれの方向から一人ずつ撮って、ライティングもそのつど変える。中を抜いて撮ることは絶対しないんです。 そのシーンどうりに、順番に撮っていくわけですね 三船 ええ。実に几帳面に撮っていく。 そういう点、稲垣(浩)監督は、トントンとお撮りになったようですね。 三船 そうですね。ご自分で活動屋とおっしゃってましたけど、パッパッパッと実に手際よくうまい具合に進む。 稲垣演出には、特別なまろやかさみたいな味がありましたね。「風林火山」などは、お好きな作品なのではないですか。すごくパワーが感じられた。 三船 私のプロの作品でしたから(笑)。 稲垣監督との一番初めは「佐々木小次郎」ですか。 三船 そうですね。 その「佐々木小次郎」の時の武蔵は、やがて当たり役になる「宮本武蔵」にっながってゆく事になるんですね。 三船 あの頃、アメリカから来てた兵隊さんで日本語の達者な人が、このフィルムを買って帰ったんですよ。そして、ウィリアム・ホールデンがナレーションを入れてくれて、あの作品、アカデミー賞(外国語映画賞)もらったんです。東宝の本社にその時のオスカー像があります。 ウィリアム・ホールデソがナレーション入れてるんですか。知りませんでした。 三船 ただ、「サムライ」というタイトルになってましたね。 「幕末」の時の伊藤大輔監督はいかがでしたか。もっとも、この作品は錦(萬屋錦之介)中心でしたね。 三船 これは、中村プロ作品だから、ちょっとお手伝いしただけです。 初期には田中絹代さんとも共演してらっしゃいますね。 三船 「白痴」かなにかで大船に行ってる時に、木下恵介さんのお話がきて、田中絹代さんと現代劇を一本撮りました。 「婚約指輪」ですね。これは貴重な顔合わせですね。田中さんはどう方でしたか。 三船 ずいぶんやさしい方だったですですよ。いろいろ面倒みていただいて……。 田中さんとは「西鶴一代女」で共演されてますね。 三船 あの時は、京都でしたけど、溝口(健二)先生は独特の方でね。昼に、スタヅフはみんな、食事に出て行きますけど、溝口さんはセットに残るんです。それで弁当を用意させて、田中さんと、それと僕の分もちゃんと用意してくれて、セヅトの中で食べるんです。よーく覚えてます。シーンとしたセットの中で、食べながら、時々、ポツリ、ポツリと演技指導をしてくれるんです。あそこはこうした方がいいよ、とか、いろいろなお話をしてくれた……。 「西鶴一代女」の溝口健二さん、ただ一本のお付き合いでしたね。やはり厳しい方でしたか。 三船 そうでしたね。僕はほんのちょい役でしたけど、セットの小さな小道具一つでも、思いどうりのものがないと「探してこい。これじゃあだめだしって、半日、一日待ったことがありましたね。 「荒木又右衛門・決闘鍵屋の辻」は、森一生さんの大傑作で、今までの荒木又右衛門と違って、リアリスティックでしたね。脚本は黒澤監督。 三船 これまでの講談ヒーローを否定してね。 そうやって、様々な巨匠と組んでいかれたことで、どんどん磨かれていったんですね。 三船 いい仕事に恵まれました。 日本では、独立プロダクションというと、三船さんが一番頑張ってらっしゃいますが、経営は容易なことではないと思います。アメリカの場合は、今や、メジャー会社が映画を作るのじゃなくて、それぞれ独立プロダクションが作っていますね。一時期、三船さんを中心として勝(新太郎)さん、石原裕次郎さん、錦之介さん、皆さん力いっぱいなさってましたけど、財政的に難しかったり、健康を害されたりして……。またがんばっていただきたいですね。 三船 そうですね。当時は、そんな名称ふさわしいかどうかしらないけど、スター・プロなんて言われてね。このプロダクションも、もう20年近く続けていることになるんですよね。戦後、テレビの上陸とともに映画が少し具合が悪くなった時、一番初めに見切りをつけたのは東宝ですからね。砧の撮影所を閉鎖することにしたわけです。その時に、森岩雄さん、藤本真澄さん、川喜多長政さん三人が、俺たちが援助するからといって、三船プロダクションを作ってくれたんですよ。ですから、こちらも責任あるから、今大変厳しいんだけど、歯ぁ食いしばって維持してきましたが、もう限度ですよ。この敷地、二千坪くらいあるんですけどね、不動産屋とか建築業者が譲れと来るんですよ。田園調布に次ぐ住宅地だって、成城のはずれですけどね。でもね、ちょっと待て。俺のスタジオ売っちゃったら、三船プロつぶれた、なんて言われる。そう思ってがんばってきたんですけどね…。 日本映画の為にがんぼってこられたわけですね。今度も、久々に劇場用映画を完成なさいましたね。 三船 ええ。「海燕ジョーの奇跡」を松竹さんと提携でね。海外でロケしました。 やはり、我々映画ファンとしては三船さんの映画での活躍を一番拝見したいわけですからね。 三船 敏郎(ミフネ トシロウ) 日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。1951年にヴェネツィア映画祭で最高の賞、金獅子賞を受賞した黒澤明監督「羅生門」に主演していたことから世界中より注目を浴び、1961年には主演した黒澤明監督「用心棒」、1965年にも主演した黒澤明監督「赤ひげ」にて、ヴェネツィア国際映画祭の最優秀男優賞。その他にも世界各国で様々な賞を受賞し、アラン・ドロン、スティーブン・スピルバーグなど世界中の映画人たちへ多大な影響を与えた、日本を代表する国際的スター。1920年4月1日 - 1997年12月24日没。 三船敏郎生誕100周年公式ページはこちら -
三船敏郎 「価値ある男」メキシコでの撮影秘話
2020年12月24日スティーブン・スピルバーグやアラン・ドロンといった世界を代表する映画人と対等に仕事をし、尊敬された日本人はいただろうか? 「世界のミフネ」と呼ばれた三船敏郎 生誕100周年を記念し、創刊100周年を迎えた「キネマ旬報」に過去掲載された三船敏郎に関するよりすぐりの記事を「キネマ旬報WEB」にて連載する特別企画。過去に「キネマ旬報」に掲載された記事を読める滅多にないこの機会をお見逃しなく。 今回は1961年9月下旬号「キネマ旬報」に掲載された、映画「価値ある男」の撮影を終え、メキシコから帰国した三船敏郎本人へのインタビューをお届けします。 ======== 映画界で、純金製男性 一 100パーセント男性の爽やかさを持っているのは三船敏郎と、裕ちゃん。映画以外いっさい目をくれないというのも、このひとらしくうれしい。 外国から狙われた男 山本恭子(以下、山本):メキシコからお帰りになってもう大分になりますね。 三船敏郎(以下、三船):ちょうど一と月くらいですかネ。 山本:そのあいだインタビュー、インタビューで、うんざりなさったでしょう?おきらいなことだから……。 三船:いや別に。ぼくはなんにも喋らんから……(笑) 山本:でも、これからさっそくお訊ねしますけれど、よろしくお願いします。(笑) 三船:満足な答えができるかどうかわかりませんがね。 山本:三船さんが、外国から映画出演の申込みをお受けになったのは、こんどがはじめてじゃありませんね、だいぶ前に、イタリア映画に出演のお話があったんじゃないですか? 三船:ええ、「七人の侍」をやってるとき、「アッチラ大王」に出演の話がありましたけれども、「七人-」が撮影に一年かかっちゃったので、だめになりました。 山本:じゃあ、向うで諦めちゃったわけですね。 三船:まあそうですな。あれは、アンソニイ・クインが代りに出たのが日本へ来ましたね。 山本:「侵略者」という題名で……。 三船:その他、小さな話はたくさんあったんですよ。「サランボオ」というのもあったし、最近では、アンソニイ・クインと谷洋子の共演したのがあったでしょう?エスキモーの話で……。 山本:ええ、ええ「バレン」。 三船:あれも、最初は東宝と合作の話だったんです。こっちのステージを使おうとかなんとかだったんですけれども、うまく話がまとまらなかったんですね。ディズニーで、早川雪洲さんの出たものも……。 山本:「南海漂流」という題名で、RKOにはいってますね。 三船:なんでも船が難破して、海賊に助けられる話ですよ。 山本:すごく狙われていらっしゃるんですね、外国から狙われた男。(笑) 三船:そうじゃないんですけれども。個人的にきたのはそれくらいです。他にもそうでないのがチョクチョクあったようです。 契約しなければ帰らない 山本:今度のメキシコ(「価値ある男」)のお話は、どんないきさつで、まとまったんですの? 三船:今度の映画のイスマイル・ロドリデス監督は非常に熱心な人で、最初話があったのは一昨年のことなんです。メキシコから照会があったんですが、ほったらかしておいたんです。それから去年、ぼくがロスアンゼルスへ行ったときも、やかましく言ってきたんですが、そのときも忙しかったので、そのままニューヨークへ行ったら、向うのホテルへ電話をかけてきて、どうだと言うんですね。旅先で、ぼく一人では勝手にすぐきめるわけにはいかんから、日本で改めて話をしたいと言って帰ってきたんですよ。そしたら、イスマイル・ロド・リゲス氏が、去年の十月に日本へやってきたんです。 山本:へえ?とうとう日本まで? 三船:ええ。脚本を持ってきてこれだというんです。「価値ある男」となってましたけれど、どういうんでしょう?だれか変てこに訳したんじゃないかな。原題は「animas Trujano」というんです。話を簡単に言うと、メキシコはカソリックが浸透していますから、小さな町でもぜんぶ教会を中心に町ができているところだし、そういう宗教的行事が一年三百六十五日くらいあるわけです。そのお祭りの主宰者ですか、そういうようなもので、町会の総代みたいなもの、マイヨルドーモというのですが、それになりたい奴の話なんですね。 山本:そして、それになれるんですか? 三船:結局なれるんですね。あんまり向うが熱心なんで、その脚本を翻訳して、黒沢(明)さんや菊島(隆三)さんに見せたんですけれど、面白そうじゃないかというし、それにイスマイル氏は契約してくれなかったら帰らないというし、(笑)二週間も毎日足をはこんでくるんです。 山本:ついにそれにはほだされて……? 三船:太平洋を隔ててはいるが、まあ隣りの国だし(笑)、日本とメキシコを結ぶ絆にもなるのじゃないかということでね。 山本:なんだか、ギャラはおきめにならかったとか? 三船:ええ、出演料といったものの代りに、フィルムを日本へもらうという条件です。もちろん往復の旅費とか滞在費は別ですがね。イスイマル監督曰く「われわれ映画で飯を食ってるんだから、映画を通じてもっと民間外交に役立てなければならない」なんていうような、立派なことを言うもんだから、ぼくも賛成々々、そうだ、そうだというわけで引受けちゃったんです。(笑) 山本:こちらのウィーク・ポイント、いや、ストロングですか(笑)それをっいてきたわけですね。イスマイル監督は、前から三船さんの映画を見ていたんですか? 三船:だいたい見ていましたね。 山本:それで惚れこんだわけね。 三船:そういうわけでもないでしょうが、いけるんじゃないかということで話を持ってきたんですね。初めは彼も半信半疑のところはあったんでしょうね。ぼくの扮するのは、日本人じゃなくて、メキシコの先住民族の純メキシコ人ですからね。インディオと言ってますがね。アニマス・トルファーノという名の人物です。こっちも不安だったから、扮装して、「これでいけるか?」と言ったら、「大丈夫だ」というんでね。喋るのがスペイン語だというから、はじめはどうかと思っていたんですが…… 山本:ぜんぜん、吹き替えなしですか?雑誌なんかで拝見した記事に、台詞はぜんぶ暗記なすったって出てましたけれど…… 三船:元来台詞というものは暗記するもんですからね。覚えていかなきゃなりませんよ。 山本:しかし、スペイン語でしょう?前に勉強なさったことがあるんですか、少しくらい? 三船:いや、丸暗記です。単語の意味なんかも一つもわかりやしない。これが覚えられなかったら、九官鳥やオウム以下だと思ってね。(笑) 山本:台詞の数は? 三船:六百いくつで、なかには長ったらしいのもあるんだから、演説じゃないけれども。いちばん困ったのは、せっかく覚えたのが、向うへ行ってから後半、ずいぶん変ってきちゃってね。覚え直さなきゃならないし、前に覚えたのが邪魔するし、こりゃえらいものを引受けちゃったと思ったが、いまさら帰るわけにもいかず、しようがないから、やっちゃいました。(笑)それがAPにはいった通信では、向うでメキシコ各界の名士を集めて試写会をやったところ、これが大へん反響があって、絶讃されたというんですね。それで、イスマイル氏はハリキッちゃって、ヴェニス映画祭へ出品することになったそうです。 山本:そうすると、三船さんは主演者としてヴェニスへいらっしゃらなきゃァ。 三船:急遽行くことになったんですよ。日本からは「用心棒」を出すんです。これは招待出品ですが、ヴェニスの場合には、招待出品でも賞の対象になるんです。 山本:三船さんのものが、日本とメキシコと、二本になるわけですね。それはますます御苦労さんですね。外国へ行ったり、外国で仕事をしたりすることは、ずいぶん疲れませんか? 三船:それほどでもないですな。 黒沢式演出?のメキシコ映画 山本:メキシコの撮影所の設備というのは、立派なんですって? 三船:立派ですよ。中南米ではメキシコとアルゼンチンがいいといわれてます。 山本:メキシコは、映画の質もいいものがありますね。日本にエミリオ・フェルナンデル監督の「真珠」というのが来ましたけれど……。 三船:その監督さん、今でも活躍してますね、みんなが、めいめいプロダクションを持って映画を作っています。国立映画銀行というのがあって、映画製作専門に融資をしています。全国の映画館の六〇%くらいは、国家経営なんですね。国民に安い娯楽を提供しようということで、入場料は四ペソ日本円で百二十円くらいかな。 山本:一本の製作費にどれくらいかけるんでしょう。 三船:こんどの場合は、だいたい中級作品の上くらいでしょうね。日本の金でどのくらいかけてるのかな。こないだ日本で封切られた「ぺぺ」。あれはメキシコのスター(カンティンフラス)が出演した映画ですけれど、ハリウッド製で、コストが高くてメキシコでは上映できないそうです。四ペソの安い入場料では……。 山本:撮影所の設備なんか、例えば東宝なんかとくらべてどうですか? 三船:ステージなんか、ずいぶん大きいのがありますね。三十五くらいステージのある撮影所なんだが、冷房装置なんかはないですよ。もちろん、その必要もないからだけれども。 山本:メキシコというと砂漠とサボテンで暑いところという感じですね。 三船:向うは空気が乾燥してますから、冷暖房はもちろんいらないんですけれども、そのほかの設備は、はるかにいいですよ。衣裳部屋なんか各ステージについているし、休憩する部屋はみんな持っています。 山本:ハリウッド式なんですね。 三船:撮り方なんかもハリウッド式ですよ。カメラを回しつ放しでやるんです。途中でNGを出しても、そこからあともどりしてやるわけですけれども、カメラは回しっ放しです。あるシーンを通しで撮っちゃうんです。セリフをとちっても、そのままやっちゃうんですよ。芝居をするのと同じですね。そうすると台詞はぜんぶ覚えなければならないから、こっちはなおさら大変なんです。こまかくカットにきってやってくれると助かるんですけれどもね。 山本:演技のほうはいいにしても、言葉が大変ですね。 三船:黒沢さんの演出が、どちらかというとそんな風だから、長いショットで撮られるのには馴れてるんだけれど……。 山本:しかし、これからもあるでしょうね、外国からの出演申込みが……。 三船:メキシコでも、引き続いて二本くらい撮っていけと言われたんですけれども「価値ある男」の結果を見てからにしょうということで帰ってきました。 山本:すごく朝早くから、夜おそくまで強行撮影だったんですって? 三船:それは、ぼくがベルリン映画祭に出席することになって、それまでに間に合うように撮れということでやったんです。朝六時に起き、七時にはロケに出発です。 山本:日本と似てますね。 太陽と美人の国メキシコ 三船:メキシコでも、引き続いて二本くらい撮っていけと言われたんですけれども「価値ある男」の結果を見てからにしょうということで帰ってきました。 山本:すごく朝早くから、夜おそくまで強行撮影だったんですって? 三船:それは、ぼくがベルリン映画祭に出席することになって、それまでに間に合うように撮れということでやったんです。朝六時に起き、七時にはロケに出発です。 山本:日本と似てますね。 太陽と美人の国メキシコ 三船:ぼくのいたあいだはちようど乾燥期で、晴天ばかり、天気待ちということがないから、どんどん撮れます。ステージでの撮影は、土曜、日曜の二日は休みでしたけれども、八時ごろからはじめて、夜十時まででしょう? 山本:お食事は? 三船:二時、三時まで食事で、そのあと十時まで撮ってます。それからラッシュを見て、うちへ帰ってくると十二時ですね。 山本:食事にはどんなものを召上るんです? 三船:むこうの料理ですね。 山本:私だったら、お腹がすいて倒れちゃうわ。 三船:食事がおそいですからね。昼食なんかゆっくり食べていますよ。土曜日なんか、午後じゅう昼飯食ってますよ。(笑)ですから晩飯もおそいわけです。 山本:土、日の二日つづきの休みには、方々へ招ばれていらしたんでしょうね。 三船:あちらの人は一家をあげて人をもてなすことが好きでね。いろいろ招待があったり、連絡があったりで日曜日は必ず、お昼はどこ、晩飯はどこときまっているからしょうがないんです。 山本:ラッシュはごらんになったとおっしやってますが、完成したものは? 三船:まだ見ていないんです。プリントも着いたらしいですから、皆さんに見ていただいて、どの程度、うけいれられるか、蓋をあけてみなきやわかりませんけれど。話が日本人にはあまり馴染みのない話ですから。メキシコ・シティから飛行機で一時間、車で六、七時間のところにあるマヤですか。そういう遺跡がたくさんあるところの原住民の話で、風俗とか習慣を知らないと、写真ではピンと来ないかもしれません。 山本:それだけに、地方色豊かな面白さがあるんでしょう? 三船:そういうことです。闘牛は入っていませんが、闘鶏とか、土人の民芸サラペとかマゲイ・サボテンの大きいやつメスカルとか、そういったメキシコ特有のものがたくさん出てきて、メキシコ人が見ても珍しいようなものが、たくさんあります。いろいろとイスマイル氏も考えてやってるわけですよ。 山本:イスマイルさんというのはどのくらいの年配の方です? 三船:五十年配ですね。自分では四十三だと言ってましたけれど。(笑)自分がプロダクションの主宰者であり、監督です。「ラ・クカラチャ」という映画が前に日本にきています。「大砂塵の女」とか言いましたね。クカラチャというのは油虫のことだそうです。 山本:お忙しくて、あちらの人々の普通の生活なんかよく見ていらっしゃる暇はなかったかもしれませんが、メキシコは原住民のほかに、白人との混血が多いんですか、きれいな人が多いようですね。 三船:ほとんどラテン系で、スペイン系のべっぴんさんですね。メキシコの中心は、やっぱり白人がにぎっていますね、政治でも経済でも。 山本:インディオは生活程度が低いんですか? 三船:ひどいのがたくさんいます。ちょっと見ただけでも。満州や中国、朝鮮などの地方の農村生活と似ています。日本の水のみ百姓というのだってそうですが。土地が乾燥していて、何にも出来ないんですね。トーモロコシと豆くらいです。しかし地形には変化があるのですね、北へ行くと乾いて、火山灰地みたいで何もできない。しかしずっと南の方へゆくと、地味が豊かですごいんですよ。農作物、野菜、果物、みんなそこからきてるんですね。 山本:非常に繁殖力が旺盛な地方もあるわけですね。 三船:メキシコ・シティは山脈の中心にある海抜二千四百メートルくらいの土地で、一年中六月ごろの気候で、とても快適なところです。 山本:都会としてもなかなか立派だそうですね。 三船:中南米で一番だなんて威張っていますけれど、立派ですね。ニューヨーク、シカゴ、ロスアンゼルスに肩をならべられるくらいでしょうね。高速道路は発達しているし、日本みたいに、道路工事で掘りかえしてるところはないし、(笑) 建築物も、何世紀か前の古いカソリックの教会なんかがあるかと思うと、超近代的な建物があって、太陽はギラギラ、空は真っ青、木は緑、といった工合にそれが美しく調和しているんですな。絵描きさんたちが、たいへん行きたがってますが、わかりますね。 山本:非常に強烈な感じの絵があるようですね、壁画が盛んで……。 三船:メキシコ展がこちらでもあったけれど、タマヨとか、シェケィロスとか、有名なんでしょう。革命までは、しいたげられていた民族なんで、強烈なものが出るんだろうな。 日本映画はまだこれから 山本:あちらの映画は? 三船:イスマイル監督が撮ったものを見ました。面白いんだな、一昨年だったか、自家用飛行機セスナに乗っていて、墜落して死んだスターがいるんですよ。ペドロイン・ファンティとかいうんだけれど、たいへんな二枚目の若手スターで、そいつが死んだときに、女の子が四、五人も自殺したほどだと言うんですな。(笑) 山本:どこにもあるんですね、メキシコのジェームズ・ディーン。(笑) 三船:そいつが生きていたらやるはずの役がぼくにまわってきたんだと言うので、帰りに墓参りしてきましたよ。墓には一年中花やら、線香はないだろうが(笑)とにかく花が枯れてたことがないそうです。 山本:帰りはご家族の方とヨーロッパへまわられたそうですね。 三船:出かけるときに、仕事がうまくゆきそうだったら呼んでやると約束したんで、メキシコへやって来ました。そのあとベルリン映画祭に出席、パリ、ローマなど歩いて帰ってきたんですが、あとでやっぱりメキシコがいちばんよかったと言ってますね。 山本:ベルリン映画祭での日本映画は? 三船:「悪い奴ほどよく眠る」を出したんですが、ほかに黒沢週間というのをやっていて、「七人の侍」「羅生門」「どん底」「蜘蛛築城」「生きものの記録」の五本を昼夜二回ずつやって、たいへんな入りでしたよ。アメリカ人でリチイさんというのがいるでしょう?あの人が来ていて、日本映画祭開催中、日本映画をやる前に講演してくれるんですよ。「黒沢明について」とか「日本映画について」とかいって、自分で印刷物を作って、ちゃんと日本映画の紹介をしてくれてました。日本人がそれをやらないで、外国人にやってもらっているんですからね。 山本:リチイさんは、日本映画史みたいな本を出版してるでしょう。たいていの日本人より日本映画のことをよく研究して知っていらっしゃるんだから、かないませんね。ベルリンにいっていらしたんですか? 三船:もう帰ると言ってました。日本には最近また来るそうです。ヨーロッパにもあきたし、やっぱり日本がいちばんいいと言ってましたよ。(笑) 山本:外国へいらして、改めて日本映画の外国での人気にまたびっくりなさったんじゃありませんか? 三船:日本映画もまだまだこれからですよ。これからいいものを作って紹介しなけりゃだめです。日本映画が外国でどうとかこうとか言ってますけれども、実際見ている人は少いですよ。日本の旅行者だって、。バリなんかの運転手に、お前たち、インドネシアか、(笑)なんて言われているんですから。日本人だというと、「ああ、羅生門」なんて言われましたがね。日本独得のものをどんどんだして、日本人を認識させなきやね。 俳優としては落第の三年生 山本:ところで、ヴェニスからお帰りになると、また黒沢さんで、「用心棒」の続篇ですか? 三船:ええ、もう脚本ができました。黒沢さんと菊島さんとで書いていたんです。 山本:こんどは、桑畑三十郎が椿三十郎になるんですってね。いつごろからおはいりになります? 三船:目下準備中だから、ぼくが九月三、四日までヴェニスにいなけりゃならないらしいから、それから帰ってきて、すぐですね。 山本:三船さんは、これまでずっと東宝で仕事していらっしやるんですが、ご自分で会心の仕事というのはどれですか?やはり「羅生門」? 三船:別にそういうわけではないけれど、「羅生門」は、国際映画祭で戦後はじめて外国の賞をもらったというので、そういう思い出みたいなものがありますね。「酔いどれ天使」は最初だし、ぼくは黒沢さんで撮ったもので「生きものの記録」というのが、印象に残ってますね。 山本:私もあの映画は黒沢さんのもののなかで好きですね。原爆恐怖症の人の話ですね。 三船:あの当時、批評家はあまり良くいわなかったけれど、黒沢さんも、「とにかくあの時期に、ああいう問題を取りあげたのは、おれとしてはぜんぜん後悔してない、じゃなくて、誇りに思ってる」と言ってましたからね。あれから後でしょう、アメリカで「渚にて」なんか作ったの。日本人は直接原爆の被害をこうむったのに、なに考えてるんだと言いたいくらいですね。 山本:いまや原爆の問題がやかましくとりあげられるようになったというわけで・・ 三船:「白痴」も、翻訳劇みたいなものだと言われたようですけれど、あのあと、ソ連の監督があちらで「白痴」を撮るのについて、黒沢さんの「白痴」を何回か見ているというんですからね。 山本:スエーデンの「処女の泉」は、ベルイマン監督が黒沢さんの「羅生門」に刺戟されたとはっきり言ってますね。 三船:フランスあたりの若い映画監督たちは、黒沢さんや溝口さんに学んでいると言ってますね。 山本:三船さんは、監督をおやりになる気持はないんですか? 三船:とんでもない。 山本:俳優だけでいらっしやるんですか。 三船:俳優だって一年生 - 一年生にしてはとうが立ってますが、落第の三年生とこかな。(笑)だからまだまだ……。 テレビも見ずに映画一筋 山本:最近俳優さんで大変意欲的になって、自分でこういうものをやりたい、ああいうものをやりたいということがあるんですが、三船さんにはそういうプランは? 三船:いろいろありますけれど、発表して実現しない人がありますからね、余計なことを言って恥をかくなというわけです。 山本:映画一本で、例えば舞台やテレビに対する浮気は? 三船:ぜんぜんないですな。人間そんなにできるはずはありませんよ。ぼくは不器用ですからね。一つに対することでいいと思うんですよ。できる人はけっこうだけれども、ぼくはできないから。負けおしみでいってるわけではないけれども、ぼくは映画だけしかやりません。 山本:テレビはごらんになります? 三船:見ないですね。うちのテレビなんか昔買った古いやつそのままで、変っているから映像なんか出てきませんよ。(笑) 山本:テレビのスポーツ放送もごらんにならないんですか? 三船:ぜんぜん見ないですね。野球なんかあんまり興味がないし、相撲も面白くないし、見るといえばボクシングくらいだな。 山本:へえ、野球、相撲に興味のない男の方ってめずらしいですね。ゴルフは? 三船:ゴルフもここ一、二年やってません。 山本:じゃ、暇なときは何をなさってるんですか? 三船:別にこれということはありませんね。裸になって家で芝を刈ったり、ボートの掃除をしたり……。 山本:家庭的で奥さん孝行……。 三船:いや、そんなこともありません。 山本:三船さんの趣味はモーター・ボートでしたね。 三船:ええ、まあ、そんなもんです。 山本:暇なとき映画はごらんになります? 三船:わりと見るほうですね。最近見たのは「片目のジャック」です。あれも「荒野の七人」もメキシコヘロケした映画ですね。「荒野ー」はまだ見てませんがね。 山本:ところで、外国映画に日本人が出演する場合、どんな点がいちばん問題だとお思いでしたか? 三船:やっぱり語学でしょうね。語学ができれば、これから国際的な活躍をすることが十分できますね。それと、ぼくのように外国人に扮した場合は問題はないけれど、外国映画の中の日本人を演じるときには、十分研究してからでないと「竹の家」みたいなのがあって、国辱問題を起したりしますからね。山本あちらの監督の演技指導はうるさいですか? 三船:イスマイル氏は、ここはこう思うんだけれどもどうしようかと聞きますよ。撮影で使う簡単な言葉は日本語で教えてあるんです。おはよう、今晩は、本番、テスト、お疲れさま、もう少し右、もう少し左、もう一度、それでけっこう間に合いますね。(笑)自分でやる通りやってきました。 山本:それだけ好意的だったらいいですね。 三船:とても雰囲気がよくて、着いた当座は連日レセプション。山本大統領夫人のレセプションもあったそうですね。 三船:ええ、日本の大使も喜んでくれたし、在留邦人の方たちも涙を流して喜んでくれました。帰るときは「チャーロ」というハイ・ソサエティのクラブで大送別会をやってくれましたし、まあ、こんな風に少しでも国際親善につくせたら、映画の出来をどうこう気にする必要ないみたいな気持になっちやいました。これで映画がよければなおいいけれど。(笑) 三船 敏郎(ミフネ トシロウ) 日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。1951年にヴェネツィア映画祭で最高の賞、金獅子賞を受賞した黒澤明監督「羅生門」に主演していたことから世界中より注目を浴び、1961年には主演した黒澤明監督「用心棒」、1965年にも主演した黒澤明監督「赤ひげ」にて、ヴェネツィア国際映画祭の最優秀男優賞。その他にも世界各国で様々な賞を受賞し、アラン・ドロン、スティーブン・スピルバーグなど世界中の映画人たちへ多大な影響を与えた、日本を代表する国際的スター。1920年4月1日 - 1997年12月24日没。 三船敏郎生誕100周年公式ページはこちら 『価値ある男』12月24日(木) セルDVD発売! “世界のミフネ”の原点となった初海外主演作が、生誕100年を記念してHDニューマスターで国内初ソフト化! 初海外主演作としてメキシコ人を演じ、各国映画祭で激賞され“世界のミフネ”の原点となった名作が、生誕100年を記念して、遂に国内初ソフト化!約60年の時を経て、美麗HDニューマスターにより鮮やかに蘇る。 発売・販売:TCエンタテインメント、提供:三船プロダクション -
【第3回】みうらじゅんのグレイト余生映画ショーin日活ロマンポルノ
2020年12月18日2021年に、日活ロマンポルノは生誕50年の節目の年をむかえます。それを記念して、ロマンポルノの魅力を様々な角度から掘り下げる定期連載記事を、本キネマ旬報WEBとロマンポルノ公式サイトにて同時配信いたします。 衛生劇場の協力の下、みうらじゅんがロマンポルノ作品を毎回テーマごとに紹介する番組「グレイト余生映画ショーin日活ロマンポルノ」の過去の貴重なアーカイブから、公式書き起こしをお届けしたします。(隔週更新予定) 2011年12月放送、第3回のテーマは「海女」 どうも、みうらじゅんと申します。 「グレイト余生映画ショーin日活ロマンポルノ」今回目のテーマは、コレ「AMA」でございます。 こう言うとちょっと航空会社のイメージが出るでしょう(笑)。実は私の童貞期、一番遠いテーマでありました「海女」シリーズについておくりたいと思います 。 今回のお送りするテーマは美しき海の女、「海女」。愛と情欲の波渦巻く、背徳のシーサイドエロスに迫る。伝統を受け継ぐSEXYマーメイド。神秘に包まれた、女だらけの桃源郷がいま露わに!! 今回も上野オークラ劇場という成人映画専門館からの収録です。僕が当時、海女シリーズを観た所もこの雰囲気に近いです。 今回紹介するのは1976年製作の『色情海女 乱れ壷』から1982年製作の『くいこみ海女 乱れ貝』までの4本でございます。僕が当時観た作品はもっと前のものでしたから、海女シリーズは長年に渡り、撮られてきたことになりますね。80年代というと、音楽の方ではYMO 台頭でテクノが大流行。バブル期でイケイケの時代でしたが、そんな中でもその時代でも海女シリーズが製作されていたということは大変興味深いですね。 今回の特集に当たり、いろいろ私物を持ってきたんですがね。 まず、この海女の絵葉書を見て下さい。そもそも海女が何故絵ハガキに登場してたかということを説明しないと、今回のシリーズは分からないと思います。これは、今でいう週刊誌のグラビアアイドルですよね、そのグラドルの走りが海女であったという事実。これは御宿の海女さんですね。トップレスでしょ。そりゃ大人気ですよ。次に、これは能登半島の舳倉島っていう所におられた海女さんのトップレスモノ。Tバックなんてものじゃない。紐パンの元祖がここにあります。そしてこれが海女さんの被っておられる白い布に描いてある「ドーマンセーマン(道満・清明)」という海にいる魔物から守る御札みたいなものです。これを縫い付けて行くらしいです。自分とそっくりな顔をしたトモカズキという魔物がね…その説明はいりませんよね?(笑) これは三重県に行って、ツーショットをお願いしたものです。当然海女マニアとしては、欲しい写真ですから。 海女モノといえば『潮騒』(1975年東宝製作の映画)も有名ですね。山口百恵さんなどキレイな女優さんで何度もリメイクされています。すなわち、海女は歴代アイドルがやってきたものであるということですね。そしてこの、「御宿ブルース」。レコードまででているくらい人気があった世界ということです。昨今、可愛すぎる海女登場で週刊誌の記事にとりあげられたり、平成になってからも海女が再ブームをしているということを伝えときましょう。(※注、収録はドラマ『あまちゃん』以前) 頼まれてもいないのに、絵を描いてみました。力が入っているでしょう(笑)。 皆さんわかっていただきたいのが、海女の分布図ですよね。こういうことですね。昔はですねアワビとかを取った海女さんが沢山おられたということで。岩手、千葉、三重、石川、山口、長崎と海女さんが沢山おられた時代の地図でございます。 今回見ていただく海女シリーズの特徴ですね。この4本における共通点を絵に描いてきました。フンドシをされている方がおられる。岩場と海女小屋で大体行為をされるということが特徴でございます。海女小屋というのは、海女さんが暖を取られる場所で、こういった所でもプレイが行われる。そして浜でもありますね。浜では海女どうしのよくキャットファイトが行われるということです。そして船上ですね。たいがい、浜とか船上で行われる時にでてくるのがアワビの踊り焼き。地獄焼きって言うんですか、火で炙っている映像が出ていきます。 この4作品から名言集として私選んできました。 「誰かのアソコみたいだな」という『色情海女 ふんどし祭り』のセリフですけど、 『くいこみ海女 乱れ貝』でも「あんたのアソコみたい」ということで、必ずアワビが紹介されるということが共通点でございます。 「いまにたっぷり突っ込んでやっから」(『くいこみ海女 乱れ貝』)と地方色を出していたり、「あいかわらずええケツしとるの~」(『色情海女 ふんどし祭り』)と住職のセリフとは思えないセリフが飛び出すのも、特徴でございます。 海女さんも、都会からやってきて海女さんになる方とか色々出てくるんですけど、海女さんが織りなすそうですね青春ドラマと言っても過言ではないんじゃないですかね。なんか今見るとちょっとキュンとするような青春がこの海女シリーズにはあるということで、ももう戻ってこない青春をあなたもご覧になってはいかがでしょうか。 『色情海女 乱れ壷』(1976年) 『潮吹き海女』(1979年) 『色情海女 ふんどし祭り』(1981年) 『くいこみ海女 乱れ貝』(1982年) ※各作品はFANZAをはじめする動画配信サービスにて配信中です 次回は「夫人」シリーズをご用意しましたので楽しみにお待ちください。それでは次回まで皆さんも楽しいグレイト余生を! 衛星劇場「グレイト余生映画ショーin日活ロマンポルノ」 出演・構成 みうらじゅんプロデューサー 今井亮一 ディレクター 本多克幸 製作協力 みうらじゅん事務所・日活 ■2020年12月 放送予定 【衛星劇場】(スカパー!219ch以外でご視聴の方) ・『ベッド・パートナー』(HD初放送) ・『婦人科病棟 やさしくもんで』 ・『肉体保険 ベッドでサイン』 ・『ベッド・イン』【衛星劇場】(スカパー!219chでご視聴の方) ・『ベッド・パートナー』(R-15版) ・『愛獣 赤い唇』(R-15版) ・『ラブハンター 熱い肌』(R-15版)あわせて、衛星劇場では、サブカルの帝王みうらじゅんが、お勧めのロマンポルノ作品を紹介するオリジナル番組「みうらじゅんのグレイト余生映画ショー in 日活ロマンポルノ♯91」を放送! ※人気コーナー「みうらじゅんのグレイト余性相談室」では、皆様から性のお悩みや、疑問を大募集! ■2021年1月 放送予定 【衛星劇場】(スカパー!219ch以外でご視聴の方) ・『快楽温泉郷 女体風呂』(HD初放送) ・『江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者』 ・『東京エロス千夜一夜』 ・『女教師のめざめ』 【衛星劇場】(スカパー!219chでご視聴の方) ・『快楽温泉郷 女体風呂』(R-15版) ・『ベッド・パートナー』(R-15版) ・『愛獣 赤い唇』(R-15版) あわせて、衛星劇場では、サブカルの帝王みうらじゅんが、お勧めのロマンポルノ作品を紹介するオリジナル番組「みうらじゅんのグレイト余生映画ショー in 日活ロマンポルノ♯92」を放送! ※人気コーナー「みうらじゅんのグレイト余性相談室」では、皆様から性のお悩みや、疑問を大募集! 【日活ロマンポルノ】 日活ロマンポルノとは、1971~88年に日活により製作・配給された成人映画で17年間の間に約1,100本もの作品が公開された。一定のルールさえ守れば比較的自由に映画を作ることができたため、クリエイターたちは限られた製作費の中で新しい映画作りを模索。あらゆる知恵と技術で「性」に立ち向い、「女性」を美しく描くことを極めていった。そして、成人映画という枠組みを超え、キネマ旬報ベスト・テンをはじめとする映画賞に選出される作品も多く生み出されていった。 日活ロマンポルノ公式ページはこちらから