「世界のミフネ」生誕100周年!戦後最大の国際的スター三船敏郎(1)

スティーブン・スピルバーグやアラン・ドロンといった世界を代表する映画人と対等に仕事をし、尊敬された日本人はいただろうか?
「世界のミフネ」と呼ばれた三船敏郎 生誕100周年を記念し、創刊100周年を迎えた「キネマ旬報」に過去掲載されたアーカイヴから三船敏郎に関するよりすぐりの記事を「キネマ旬報WEB」にて連載する特別企画。過去に「キネマ旬報」に掲載された記事を読める滅多にないチャンスをお見逃しなく。

第一弾は、1984年5月&6月発売の「キネマ旬報」に掲載された、水野晴郎による三船敏郎本人へのインタビューをお届けします。

戦後最大の国際スター三船敏郎の巻

戦後あの混乱の中で、東宝第一期ニューフェイスとしてスタート。以来、黒澤明監督をはじめとする巨匠たちの薫陶を受けながら、自身も日本映画の柱となられた三船さん。淡々と語る様々な作品の想い出の中から、その道が決して平坦ではなかった事実がにじみ、越えて来た努力の豊かな稔りが香る。まさに戦後の日本映画の歩みをその姿で具現している大スター。もっともっと映画に出てほしいと願う気持ちでいっぱいになった。

 

水野(以下、省略)三船さんは、日本の生んだ国際スター。しかもしかもワン&オンリーの大スターで、後が続かないですけどね。

三船 とんでもない。

それだけに、今日はじっくりといろいうなお話を伺いたいのですがー。少年時代は、青島と大連にいらっしゃったんですね。

三船 ええ。私は、中国の青島の生まれで子供の頃に大連に移って、兵隊に行くまでいました。兵隊も現地の関東軍だったんです。公主嶺の第七航空教育隊に入って、半年間バカンバカソぶん殴られて、牡丹江の第八航空教育隊に転属になった。そしてちょうど南方の戦線がちょっとあやしくなった頃、山下奉文閣下が関東軍司令官で来られて、現役の兵隊を全部連れて南方へ移動したわけです。その時、我々教育隊生は、日本へ帰れというんで、初めて日本の土を踏んだということです。

ということは、関東軍の中でも、学生の身分だったんですか。

三船 いえいえ。ただの一銭五厘(赤紙のハガキの値段)の兵隊です。まあ、我々の時代は、二十、二十一にもなれば兵隊にとられましたからね。兵隊にとられれば死ぬもんだと思ってましたから、かってなこと、ずいぶんやってましたよ(笑)。

関東軍でしたら、満州の中をあちこち回られたんでしょうね。

三船 いえ私は、公主嶺と牡丹江しか知りません。子供の頃、修学旅行で奉F天(落陽)、新京(長春)、鞍山とかを回ったことはありますけどね。

お父さんは、写真館とか貿易関係のお仕事をなさっていたということですが。

三船 青島では貿易もやってましたけど、事業に失敗して、私が兵隊に行く頃は大連の写真屋一軒だけだったんですよ。

それで、三船さんもその写真館には携わってらしたんですか。

三船 親父も年をとってましたし、病弱で入院してましたんで、いやいやながら跡を継いでやってたわけですよ。それが、芸は身を助くになっちゃってね(笑)。第七航空教育隊はー原隊が浜松で、今でも航空自衛隊の基地ですーそれぞれが無線、通信、気象など特技経験者だった,んです。私は写真が特技だったので航空写真の方に入ったんです。いつか部隊長の家庭を撮れと言われましてね。それが傑作で、「技術優秀である」というので教育隊に残されて、命拾いしたんです。戦友はほとんど戦死してます。

そうしますと、終戦時を境とした戦前と戦後のお気持ちの落差というのはずいぶんありましたでしょうね。

三船 そうですね。戦争中は、とにかく兵隊に行けば死ぬもんと思ってましたからね。戦争末期は、教育隊には、兵隊さんが半年間に一万人ずつ入ってきていたんですが、第二乙、丙なんて、鉄砲も担げないような兵隊さんぽっかりでしたからね。終戦の二十年の春には、熊本の特攻隊の基地に手伝いに行ってたんですよ。そんなような状態でしたね。

日本にはご親戚は無かったんですか。

三船 いえいえ、親父の本家が秋田にありましたし、たくさんいました。

終戦後は、すぐ東京にお出になったんですか。

三船 ええ。たった一円二十銭と軍隊毛煮・ぷ持主布二枚持ってね(笑)。食糧も何もないしね。田舎は秋田だから、米はあるんで、時々行って一儀ずつ担いできちゃあ食いつないでたんですよね。

東宝にお入りになるきっかけは何だったんですか。

三船 教育隊で写真をやってた時の先輩や同僚の中に、映画関係の人がずいぶんいたんです。なかなか仕事にありつけないんで、そういった先輩たちを尋ね歩いて、トライボード(三脚)でも担ぐから、撮影部あたりに何か仕事させて欲しいと頼んだんです。それでなんとなく映画界に入ることになったという感じです。

それがまた、なぜ撮影部ではなく俳優になられることになったんですか。

三船 ちょうどその頃、東宝で三年間続いた大争議がありましてね。仕事を探してもらってた先輩が「ちょうどニューフェイスを募集している。そっちの方に履歴書回しておいたぞ」。そんなんでこういうことになっちゃったわけです(笑)。

その前に演技の経験は、全然なかったわけですね。

三船 ええ、全然(笑)。i我々が伝え聞いていることでは、ニューフェイスの試験の時に、山本嘉次郎監督が「面白い個性だ」と、三船さんをピック・アップなさったということですが、本当ですか。

三船 違うんです。あの先生は「あいつはダメだ」(笑)。でも、撮影部の、もう亡くなられましたけど、三浦(光雄)さんとか、いろいろな方が応援してくれてね。それでどうにかこうにか補欠で入れてもらったんです(笑)。

いわゆる、戦後の東宝のニューフェイス第一期生ですね。

三船 ええ。他にも何人かいました。

久我美子さん、若山セツ子さんなどがそうですね。男の方はどういう方がいらしたんですか。

三船 今、うち(三船プロ)にいる伊豆(肇)君、堺ブーチャン(左千夫)、まだ仕事を続けてる人は、そんなとこかな。

それで、東宝撮影所で演技訓練を受けられたんですね。

三船 男女あわせて、三十七、八人いたんですけどね。争議が長びいてしまって、授業も細ぽそという感じで。争議中に、大スターが皆さん(注*長谷川一夫、大河内伝次郎、高峰秀子、山田五十鈴、花井蘭子らが新東宝へ移った)いなくなっちゃったんです。それで、ニューフェイスで映画を作ろうと、活動が始まったんです。

三船さんのデビュー作は「銀嶺の果て」ですね。

三船 ええ。谷口(千吉)さんの監督で黒澤(明)さんの脚本で。谷口監督がロケで撮ったフィルムをどんどん撮影所に送って、それを黒澤さんが編集なさった作品です。その時、「あのやろう、人相悪いし、ギャングいけるんじゃないか」っていうんで、「酔いどれ天使」になった(笑)。だから、これが黒澤さんとのご縁のはじまりです。

「銀嶺の果て」は、谷口監督のダイナミックな演出が見事に盛り上がった作品でした。大ロケーション映画で、大変だったでしょうね。

三船 そうなんです。白馬、黒菱、唐松の山小屋に半年以上こもったんですからね。毎朝三時、四時に起きて、機材を担いでね。第一ケルン、第二ケルン、第三ケルンと登って行くんです。なんか荷物担ぎになったみたいだった(笑)。

その時は、東宝の社員で、給料制ですか。

三船 いえ、社員じゃないんです。契約者。しかも、ニューフェイスのチンピラですからね。二千円か三千円か、そんな程度でしたよ。

共演の若山セツ子さんが実にフレッシュで、悪人の心に光を当ててゆくという感じで適役でした。

三船 そうでしたね。志村(喬)さん、小杉義男さん、河野秋武さんらが共演でね。

谷口さんとは、その後もいろいろな作品でお付き合いなさってますが、どういう方でしたか。

三船 谷口さん、黒澤さん、本多猪四郎さん、丸山(誠治)さん、みんな山本嘉次郎先生のお弟子さんでしたからね。

いわゆる嘉次郎一家。

三船 その中でも、谷口さんが一番先輩格だったようですね。すごく面白い人でしたよ。

その頃の作品で、山本監督の超ヒット作がありますね。「新馬鹿時代」。エノケン〆(榎本健一)、ロッパ(十口川)がヤ工演なのに、えらく三船さんが印象に残ってるんです。

三船 いやあ(笑)。

すごい貫禄のあるギャング・スターという感じで。

三船 ご冗談を。下手な役者で(笑)。メシも食わねえようなひょろひょろで。何か知らんけど、そこへ座れと座らされただけなんですけどね(笑)。

先ほど、「銀嶺の果て」がきっかけで、黒澤監督が「酔いどれ天使」にキャスティングなさったということですが。

三船 そうですね。「銀嶺の果て」がきっかけで、

黒澤さんに「酔いどれ天使」で使っていただいて、以来ずっと、勉強させていただいたということです。

「酔いどれ天使」では、いきなりあれだけの大役をやられたわけですからご苦労も相当のものだったでしょうね。

三船 そうですね。でも、まあ、人相が悪いから、演技しなくても、そのままでいいんだといわれて(笑)。ただ無我夢中でした。

だんだん病気が重くなってゆく時のメイク・アップがすごかったですね。

三船 ちょっとオーバーでしたらけどね「静かなる決闘」三篠美紀(右)「醜聞」山口淑子(右)106(笑)。あれ、てめえで塗りたくったんですよ。

はーあ。ご自分でなさったんですか。木暮(実千代)さんとのラヴシーンとか、ジルバを踊るところなどは、特に我々はウワーッという感じで見ましたね。痛快感というか爽快感たっぷりで。

三船 今や古い話になりました(笑)。

でも、映画史上に永遠に残りますよ。あの映画の頃が、戦後日本映画の黄金出品期だったような気がするんです。三船そうですね。映画しか娯楽のない時代だったから。とにかく、作れば全部お客さんが入ったわけですからね。だから、東映さんなど、第二東映まで作ったりした。テレビの到来とともに、映画も変わってきました。

「酔いどれ天使」は、全部、砧撮影所のセットだったんですね。

三船 今の砧の奥の方、橋を渡った向うにオープンがありましてね。あの池もわざわざ造ったんですよ。

メタンガスがブクブク出ているどぶ池ですね。

三船 あれ、黒澤さんの発想です。すごく工夫して造ったんです。

確かに、初期はギャング・スター役が多かったですね(笑)。でも一方では「静かなる決闘」のように、大変、理知的な、自分自身をグッと抑える役もなさってる。その兼ね合いは、大変だったんじゃないですか。

三船 自分では、演じ分けているという「酔いどれ天使」意識はないんですよ。

「静かなる決闘」は、大峡作品ですね。

三船 まだ、東宝が争議中だったので、山本先生を中心に、映画芸術協会っていう名称で、新橋に事務所を設けて、黒澤さんとかみんなでチームを組んでは、方々に出稼ぎに行ってたわけです。大映、松竹……。大峡京都では「羅生門」を撮りました。

松竹では「醜聞」を撮った頃ですね。「野良犬」は新東宝でしたか。

三船 お金を出したのが新東宝で、スタジオは、今の東映さんが使っている大泉でした。元の新興キネマ。全部、あそこで撮りました。

「野良犬」は、その後、現代まで続いている刑事アクションのはしりといえますね。汗をびっしょりかいて歩いているシーンが印象的でしたが、真夏の撮影でしたか。

三船 確か夏から秋にかけてだったと思います。あれも、相当日数かかってましたからね。

ラスト・シーンが強烈でした。木村功さんとお二人でパターンと倒れて、ハーッハーッと息をつく。戦後の二つの青春がそこで交差したという感じで。その頃外国ものの翻案がいくつかありますね。「白痴」や、『マクベス』を基にした「蜘蛛築城」。そうした作品に取り組む時は、原作が世・ぽ芥的に知られているだけに、また格別むずかしいと思うんですが、いかがでしたか。

三船 いやあ、発想も企画も全部、黒澤さんですからね。こっちは、そのつど、体ごとぶっつかるだけです。もう、それのみ(笑)。

「蜘蛛巣城」の最後のシーンで、三船さんの城主が討たれるところ。あそこでは、本当の矢が射られたそうですね。

三船 そうなんです。はじめ、エキストラたちを助監督が集めて、ベニヤ板に丸を書いて、小道具の弓に矢をっがせて、その丸に矢が当たった者を引っぱってきて、そいつらにやらそうとしたんですよ(笑)。あーぶない、あぶない。どこへ飛んでいくか分かりゃしない。みんなが心配してね。それで、今でもお付き合いしてますけど、鎌倉にお住まいの流鏑馬の金子家教先生や、その方のお父様で亡くなられた武田有鄭先生など、弓道何段という方々にお願いして射っていただいたんです。でも安全が保障されたというわけではないんです。黒澤さんは、アップでも望遠レンズを使いますからね。ずーっと遠くにキャメラを据えるんですよ。そのキャメラの後ろから射るからとにかく遠い。矢一本それぞれ癖がありますしね。ほんとの鏑矢ですよ。こんなとこ(首元)にきたのもあります(笑)。皆さん有段者だっていうんで安心してたんですけど、こっちが逃げ回るところにピュビュビューソとくるでしょう。生きた心地しなかった。弓のシーンだけで三日か四日かかりましたね。いやーあ(笑)。笑いごとじやないけど……。個人的には自分も弟子入りして流鏑馬をやりますけど、今でも仲間と語り草ですよ。見てる方も怖かったと。

それはそうでしょうね。動きながらだから余計ですね。ウィリアム・テルの場合はじっとしているからよかったけど(笑)。でも、黒澤監督の作品の場合は、そういったエピソードが多いんでしょうね。

三船 そうです。なかなか妥協しない人で、やるといったらやる人だから。

でも、それがOKになった時は、ホッというか、ドドッと疲れが出るんじゃないですか。それこそ、その後は酒でも一杯ですか。

三船 いやいや、一杯どころじゃないですね。もう。がーっくりですよ(笑)。

「羅生門」もそうですけど、それまでの現代劇にくらぺて、コスチューム・プレイの場合は、取り組む際に特に気をつけることはありましたか。

三船 いやあ、こっちは、時代考証など何も知りませんからね。時代劇に関しては、ヴェテランはたくさんいらっしゃったけど、こっちは、とにかく何の訓練も受けたことのない、ただのど素人で、そのまんまで出たわけです。「羅生門」だって、ただただ無我夢中……。

「羅生門」の時に、黒澤監督が豹の動きを三船さんに映画で見せて、「あの動きをつかめ」とおっしゃったというエピソードを聞いてますが。

三船 とにかく、役としては山賊、野盗のたぐいですからね。山をかけずり降りてサササッと木陰に隠れたり、サササッと出て来て、盗んだりね(笑)。豹のようにすばやく、が黒澤さんの狙いだったんでしょうね。

ほんとうに野生的でした。

三船 こちらも若かったからよく走りましたね。今はとてもできないけど(笑)。

京マチ子さんも、こめ映画で国際的に飛びたっていきましたけど、最初にお会いになった時の印象はいかがでしたか。

三船 やっぱり体当たりでやってるというか、気迫が感じられたね。京さんは、今でもちっとも変わってまぜんね。相変わらず舞台やテレビで活躍してる。

あまり人々は語りませんけど、京さんとの「馬喰一代」は、爽快な映画で私は、大好きです。大峡作品で、木村恵吾監督。北海道ロケでしたね。

三船 いえ。あれは、信州の霧ケ峰で撮ったんです。

キネ旬のこの対談で京さんにお目にかかりましたら、京さんも「馬喰→代」は、ものすごく好きで、印象に残っているとおっしゃってました。やはり「羅生門」見ても感じましたけど、三船さんと京さんは、リズムが合うんだと思いますね。三船さんは、セリフを最後まで頭にたたき込んでから撮影現場に臨まれるそうですから、共演者としても、ぶつかりがいがあるんでしょうね。

三船 まあまあ、どうでしょうか。黒澤さんあたりに厳しくしっけられましたから(笑)。

やはり、かなり厳しい指導でしたか。

三船 撮影現場に脚本を持って入ることは許されませんでしたからね。全部覚えていかなきゃならない。撮影に入るまでに何十回、何百回と、ホンを読み直して、セリフを必死で覚えたものですよ。

黒澤さんの場合は、リハーサルを立ち稽古の形でやられたそうですね。

三船 ずいぶんやりました。

舞台と同じで、頭から最後まで完壁に覚えてから撮影に入るというのは、その後、三船さんが外国の方々とお仕事をなさる時に、ずいぶんプラスになったんじゃないですか。

三船 それはもう。

三船さんは、早くからフケ役をやってらっしゃるせいか、今も全然お年を召していない。おなかも出てないですね(笑)。さすがに鍛えていらっしゃるから。

三船 いやいや、ある程度は出てますよ(笑)。

海外への旅は、全然億劫ではないですか。

三船 いや、こたえますねえ(笑)。

海外での作品も多いですけど、「グラン・プリ」でも、フケ役でしたね。

三船 フケ役が多かったね。黒澤さんの作品でも「生きものの記録」とかね。だから、ずいぶん勉強させられたし、鍛えられてたから、「グラン・プリ」でも慣れたものですよ(笑)。ただ、今、若いですねと言われると、なんだか照れちゃうね。「私はもう六十三ですよ」って。もう還暦すぎてる。大正九年ですからね。

「生きものの記録」の時は、同じフケ役でも、最後のシーンのフケ役と途中のフケ役と、えらく段差を付けてられましたね。もうブラジルへ行けないってことになって、ガクーッときた感じが、すごく出てた。

三船 最後は、もう気が狂っちゃってましたから、ちょっと極端にね。

「赤ひげ」は、壮年の役でしたね。

三船 いろいろな年齢の男性を、勉強させていただいたというわけです(笑)。

小林正樹監督も、黒澤監督と同様に、相当粘られるんじゃないですか。三船なかなか粘りますね。

「上意討ち」は、いい作品でしたね。

三船 とにかく丁寧に撮る人ですから。ワン・カット撮って、またワソ・カット。二人の対話のシーンでも、それぞれの方向から一人ずつ撮って、ライティングもそのつど変える。中を抜いて撮ることは絶対しないんです。

そのシーンどうりに、順番に撮っていくわけですね

三船 ええ。実に几帳面に撮っていく。

そういう点、稲垣(浩)監督は、トントンとお撮りになったようですね。

三船 そうですね。ご自分で活動屋とおっしゃってましたけど、パッパッパッと実に手際よくうまい具合に進む。

稲垣演出には、特別なまろやかさみたいな味がありましたね。「風林火山」などは、お好きな作品なのではないですか。すごくパワーが感じられた。

三船 私のプロの作品でしたから(笑)。

稲垣監督との一番初めは「佐々木小次郎」ですか。

三船 そうですね。

その「佐々木小次郎」の時の武蔵は、やがて当たり役になる「宮本武蔵」にっながってゆく事になるんですね。

三船 あの頃、アメリカから来てた兵隊さんで日本語の達者な人が、このフィルムを買って帰ったんですよ。そして、ウィリアム・ホールデンがナレーションを入れてくれて、あの作品、アカデミー賞(外国語映画賞)もらったんです。東宝の本社にその時のオスカー像があります。

ウィリアム・ホールデソがナレーション入れてるんですか。知りませんでした。

三船 ただ、「サムライ」というタイトルになってましたね。

「幕末」の時の伊藤大輔監督はいかがでしたか。もっとも、この作品は錦(萬屋錦之介)中心でしたね。

三船 これは、中村プロ作品だから、ちょっとお手伝いしただけです。

初期には田中絹代さんとも共演してらっしゃいますね。

三船 「白痴」かなにかで大船に行ってる時に、木下恵介さんのお話がきて、田中絹代さんと現代劇を一本撮りました。

「婚約指輪」ですね。これは貴重な顔合わせですね。田中さんはどう方でしたか。

三船 ずいぶんやさしい方だったですですよ。いろいろ面倒みていただいて……。

田中さんとは「西鶴一代女」で共演されてますね。

三船 あの時は、京都でしたけど、溝口(健二)先生は独特の方でね。昼に、スタヅフはみんな、食事に出て行きますけど、溝口さんはセットに残るんです。それで弁当を用意させて、田中さんと、それと僕の分もちゃんと用意してくれて、セヅトの中で食べるんです。よーく覚えてます。シーンとしたセットの中で、食べながら、時々、ポツリ、ポツリと演技指導をしてくれるんです。あそこはこうした方がいいよ、とか、いろいろなお話をしてくれた……。

「西鶴一代女」の溝口健二さん、ただ一本のお付き合いでしたね。やはり厳しい方でしたか。

三船 そうでしたね。僕はほんのちょい役でしたけど、セットの小さな小道具一つでも、思いどうりのものがないと「探してこい。これじゃあだめだしって、半日、一日待ったことがありましたね。

「荒木又右衛門・決闘鍵屋の辻」は、森一生さんの大傑作で、今までの荒木又右衛門と違って、リアリスティックでしたね。脚本は黒澤監督。

三船 これまでの講談ヒーローを否定してね。

そうやって、様々な巨匠と組んでいかれたことで、どんどん磨かれていったんですね。

三船 いい仕事に恵まれました。

日本では、独立プロダクションというと、三船さんが一番頑張ってらっしゃいますが、経営は容易なことではないと思います。アメリカの場合は、今や、メジャー会社が映画を作るのじゃなくて、それぞれ独立プロダクションが作っていますね。一時期、三船さんを中心として勝(新太郎)さん、石原裕次郎さん、錦之介さん、皆さん力いっぱいなさってましたけど、財政的に難しかったり、健康を害されたりして……。またがんばっていただきたいですね。

三船 そうですね。当時は、そんな名称ふさわしいかどうかしらないけど、スター・プロなんて言われてね。このプロダクションも、もう20年近く続けていることになるんですよね。戦後、テレビの上陸とともに映画が少し具合が悪くなった時、一番初めに見切りをつけたのは東宝ですからね。砧の撮影所を閉鎖することにしたわけです。その時に、森岩雄さん、藤本真澄さん、川喜多長政さん三人が、俺たちが援助するからといって、三船プロダクションを作ってくれたんですよ。ですから、こちらも責任あるから、今大変厳しいんだけど、歯ぁ食いしばって維持してきましたが、もう限度ですよ。この敷地、二千坪くらいあるんですけどね、不動産屋とか建築業者が譲れと来るんですよ。田園調布に次ぐ住宅地だって、成城のはずれですけどね。でもね、ちょっと待て。俺のスタジオ売っちゃったら、三船プロつぶれた、なんて言われる。そう思ってがんばってきたんですけどね…。

日本映画の為にがんぼってこられたわけですね。今度も、久々に劇場用映画を完成なさいましたね。

三船 ええ。「海燕ジョーの奇跡」を松竹さんと提携でね。海外でロケしました。

やはり、我々映画ファンとしては三船さんの映画での活躍を一番拝見したいわけですからね。

三船 敏郎(ミフネ トシロウ)
日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。1951年にヴェネツィア映画祭で最高の賞、金獅子賞を受賞した黒澤明監督「羅生門」に主演していたことから世界中より注目を浴び、1961年には主演した黒澤明監督「用心棒」、1965年にも主演した黒澤明監督「赤ひげ」にて、ヴェネツィア国際映画祭の最優秀男優賞。その他にも世界各国で様々な賞を受賞し、アラン・ドロン、スティーブン・スピルバーグなど世界中の映画人たちへ多大な影響を与えた、日本を代表する国際的スター。1920年4月1日 - 1997年12月24日没。

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