【集中連載3】戦後最大の国際的スター三船敏郎(2)

スティーブン・スピルバーグやアラン・ドロンといった世界を代表する映画人と対等に仕事をし、尊敬された日本人はいただろうか?
「世界のミフネ」と呼ばれた三船敏郎 生誕100周年を記念し、創刊100周年を迎えた「キネマ旬報」に過去掲載された三船敏郎に関するよりすぐりの記事を「キネマ旬報WEB」にて連載する特別企画。過去に「キネマ旬報」に掲載された記事を読める滅多にないこの機会をお見逃しなく。

今回は、1984年5月&6月発売の「キネマ旬報」に掲載された、水野晴郎による三船敏郎本人へのインタビュー後半をお届けします。

戦後最大の国際的スター三船敏郎

三船敏郎さん。実に気さくな方である。そうして礼儀正しい方。堂々たる貫禄の中に常に笑顔をたやさず、こちらの心をひきつける。日本の『サムライ・ミフネ』として、世界の人々の心をとらえている一因はここにあるのだと思う。話は泉のごとくつきない。日本人の目から見た世界の映画づくりの裏話。何とも面白い。大プロデューサー三船敏郎として、大いに世界へ発言してほしい。いつまでも世界の映画にかかわってほしいと思う。

水野晴郎(以下、省略) 三船さんは、外国でいろいろな作品に出ていらっしゃいますが、最初がメキシコでの作品でしたね。

三船 そうです。「エル・オンブレ・インボルタンテ」、日本の題名は「価値ある男」。サンフランシスコとヴェニス映画祭で主演賞をもらいました。

撮影の方法は、日本とはずいぶん違うものですか。

三船 全く同じですよ、現場に行けば。ただ、出ずっぱりでセリフの数が多かったんで苦労しました。黒澤(明)さんの「用心棒」を撮ってる時に、この映画の話がきたんです、メキシコ大使館を通じてね。「用心棒」を撮りながら、暇があれぽ、テープに入れてもらったセリフを、イヤフォンで聞いて、それで全部覚えていったんです。映画は脚本の順番通りに撮るとは限りませんからね。最初にオアハカという所にロケーションに行ったんですけど、それがラスト・シーン。全部覚えてから行ってよかった。

撮影に入ったら台本を見ないという三船さんの習慣が役に立ったわけですね。でも、セリフを覚えるって簡単に言っても、実は大変なことですよね。

三船 大変ですよ。しかも、こっちは、スペイノ語のセリフなんて初めてですから、それこそ、耳から覚えていくほかないんです。スペイン語でテープに入れてもらって、くり返しくり返し聞いて。人の二倍も三倍も苦労しなけりゃならない。メキシコのナルシソ・ブスケットという名優に入れてもらって、感情込めてね。完壁なテープを送ってくれて、それで覚えていったんです。

メキノコ映画にお出になった後に英語の映画にもどんどん出ていらっしゃいますが、例えば「レッド・サノ」は、英語で撮影されたんですか、フランス語ですか。

三船 英語でした。テレンス・ヤング監督は、まずいところは、アフレコでどうにでもなるからと言って、付きっきりで指導してくれましてね。

現場でセリフが変わるとか、場面が変わるとか、書き直しがあったりしますと、困るでしょうね。

三船 あわてちゃいますよ(笑)。

ヘンリー・フォノダ、チャールトン・ヘストンのような名優と共演したリリー・マーヴィンと真正面から対決なさったり、他の日本の俳優さんではできないことを、敢然とやっているという感じですね。

三船 たまたま、そういうものに巡り合ってきたということですよ。

演技の発想は、基本的にはどこの国でも同じなんですか。

三船 国によって風俗、習慣が違う様に多少の違いはあります。

この人とはうまく合うとか合わないとか、個人的に相性のようなものはあるめでしょうね。

三船 合わないといってもしょうがないしね。てめえは、てめえなりにやるほかないですよ。しかし結局は人間同士だからね、通じ合う。

「太平洋の地獄」などは、リー・マーヴィンと、お二人だけの芝居でしたね、頭からしまいまで。

三船 彼はとにかく酒が強くて、二十四時間飲みっばなしでしたね。朝からビール飲んで。仕事中は、ジャングルの中に入って、横倒しになった木の陰で寝てるんですよ、大いびきかいて(笑)。監督(ジョン・プアマン)と二人で、ほっぺたひっぱたいて、「起きろ、起きろ」(笑)。面白い男でした。

ああいった役(注*太平洋戦争末期のカロリン群島に流れついた米海軍大尉で、三船扮する生き残りの日本海軍大尉と憎悪と友情の握り合った複雑な感情を抱いたまま行動を共にする)だから、酔っぱらっていても、分からないですね。

三船 もう陽に焼けて真っ赤な顔してるしね。酒が入っていても分かりゃしない(笑)。

「レッド・サン」「グラン・プリ」など海外での映画製作は、三ヵ月、四カ月と、相当長くかかるんですか。

三船 長いですね。「グラン・プリ」は前の年の一年間、各国のグラン・プリを全部見て廻って準備をして、翌年やったわけです。僕はモナコから参加したんだけど、十ヵ月くらいかかりましたね。

それに、お出になってると、日本での映画出演は若干少なくなってしまいますね。

三船 そうですね。「グラノ・プリ」はMGM作品でしたけど、あの頃は、メイジャーがたっぷりと金を出して、ゼイタクな撮影をやってました。

イヴ・モンタンとのおつき合いは「グラン・プリ」からですか。

三船 イヴ・モンタンも英語ができないんで苦しんでましたな。毎日コーチがつきっきりで、隣りの部屋で、大きな声出してやっていた。こっちも負けずにやって(笑)。一人しかいないコーチをモンタノにもってゆかれて、こっちは独学でしたよ(笑)。

男は心で泣いても顔には出さん

振り返ってみまして、いわゆる戦記ものをけっこうやっていらっしゃいますね、日本映画もアメリカ映画も含めて。「連A口艦隊司令長官・山本五十六」「太平洋の翼」、アメリカ映画の「ミッドウェイ」。我々、見ていて、この人を置いて他にいないというくらい軍人役がフィットしていると感じるんですが、単に格好の問題ではなくて、人間的なものを含めた、軍人の姿とでもいいますか、どこか哀しみを奥に秘めているんですね。

三船 今も田中(友幸)さんと、ニミッツと五十六の決定版を作ろうと準備してるんです。ヘストンも出るといってるんですけどね。とにかく資金が必要です。向こうからの資金の参加を得たいと、交渉中です。

それは楽しみですね。ヘストンもそういったキャラクターの合う役者ですね。三船この間も、ユル・ブリソナーと一緒に飯を食ってきたけど、ニミッツはブリンナーではないんですね。ブロンソンでもない。今誰かを選ぶとしたら、やはヘストンが一番似ている。

ヘストンは基本的には了解ですか。これは面白いな。比較的に海軍ものが多かったようですけど、「日本のいちぽん長い日」では、阿南(惟幾)陸相に扮して、よかったですね。

三船 監督が岡本喜八さんでした。

作品もよかったですが、三船さんの阿南さんの姿は、苦渋と意志の力を見事に表現していて、感動しました。

三船 当時、日本でいちばん苦しんだ人だと思います。

そういう役柄に取り組まれる時はデータなどをいろいろお調べになりますか。

三船 「連合連隊司令長官・山本・五十六」の時は、ご遺族からお話をうかがったり長岡へお墓参りをしたり、その他資料をいろいろ頂きました。アメリカ映画「ミッドウェイ」の時は、脚本を読んだら、東京初空襲の時に山本司令長官が、広島の料亭で芸者をはべらかして酒を飲んでいた、というところから始まるんですよ。元参謀の方々から詳しくお聞きして、そういう事実はないと確信したので、そのことを申し入れました。ウォルター・ミリッシュに。

あの大プロデューサー。「ウエスト・サイド物語」などを作った人。

三船 そこのところを全部変えてもらったわけです。ロサンジェルス郊外に、赤い太鼓橋のかかった日本式庭園があってその庭を借りましてね。庭で読書しているところに参謀が来て「東京が爆撃されました・…」と報告する形に直してもらいました。そういうディスカッションは徹底的にやります。事実にないことはやれない、と。

三船さんが外国ものにお出になる時は、必ずそれをやってらっしゃるとい話ですが、必要ですね。今後もぜひぜひやっていただきたい。

三船 日本人として出る場合は、多くの日本の方もあとで見るわけですからね。日本人としてこんなことは考えられないというようなことはできません。それをはっきり申し入れます。しょっちゅう現場でもめてますけどね(笑)。

向こうの二世、三世、あるいは中国系の人のやっている日本の将校にしてもちんけな形になってますもんね。私なども、事実を記憶しているだけに気になる。

三船 「太平洋の地獄」のジョン・プアマンはイギリスの監督でしたが、兵隊の経験は無いんです。リー・マーヴィンは、海兵隊の経験があるんですね。サイパンで日本の兵隊に銃剣で刺された傷跡を見せてくれました。「止まれ」って言葉が分からなかったんで、ジャングルをどんどん入って行ったら、ザックリやられたって言ってました。こっちも兵隊あがりだし、お互い話は合いました。最初は、向こうが航空隊の少佐で、こっちが海軍の兵曹だったんですよ。そうすると階級に差ができてしまう。昔、満州にいた時、親父から、軍人は国が違っても上官に対して敬礼しなければならないと聞いてましたから、同列同級にせいと強く「ミツドウェイ」ヘンリー・フォンダ(左)とヘストン左よりグレン・フォード,ロバート・ミッチャム,ヘストンに要求して。向こうは大尉に降格、こっちは大尉に昇格(笑)。あと、筏を作って脱出するというシーンで、筏の作り方でもめるわけです。そこで、私に地団太踏んで泣けって言うんですよ。じょうだんじゃない。「大日本帝国軍人は泣かんのである」(笑)と断固としてつっぱねて、二、三日撮影にならなかった。「日本の男は、心で泣いても顔には出さん」と頑固なこと言って(笑)。

でも、ちゃんとお通しになって、結果いいものがでぎるわけですからね。

三船 日本人が見て、何だあんなバカなことをしやがって、と言われたくないから、こっちは必死ですよ。

「レッド・サン」のような時代劇でも意志を通されますでしょうね。

三船 「レッド・サン」の時の監督テレンス・ヤングは理解があって、打ち合わせの時から、「俺は日本の時代劇を知らない。お前に全部まかせるから勝手にやれ」と。責任負わされたはいいけど、それがまた大変なことになってね。なぜか「レッド・サン」テレンス・ヤングと列車の中で峠を着たりね(笑)。日本の時代劇のコスチュームを全部紹介してやったんです。「いい。いい。思った通りやれ」。それで全部日本から運んだ。スペインの一番南のアルメリアで撮影したんですが七、八ヵ月かかりましたね。

そうすると、直接の演出はテレンス・ヤングでしょうけど、日本側演出は三船さんということですね。

三船 お前の思った通りにやれっていうんで、やらしてもらったわけです。

とてもスケールの大きな映画でした。「将軍」の時はどうでしたか。

三船 あれは、エリック・バーコヴィッチが脚本を書いたんだけど、原作はジェイムズ・クラヴェル。パーコヴィッチは、今またクラベルの「ノーブル・ハウス」の脚本を書いています。彼が「コンニチワ、ハイ、イイエ、ワカリマシタ、ワカリマスカ」なんて言葉を外国人に教えたいんだという。僕は将軍の役だから、チェンバレン(リチャード)のやった人物(注*日本のサムライに捕えられるイギリス人航海士アンジン)に、「ワカリマシタカ、コンニチワ、アンジンサーン」なんて言えないと言ったんですよ(笑)。「分かったか」でいいんだ。「ワカリマシタカ」は、現代語だ。当時、そんな言葉はないってね。そういう言葉のことでもめちゃって、一晩撮影にならなかったことがありました。「ワカッタカ」という言い方だっていろいろあるでしょう。「ワカッタカーアッ!」と強く言うのと、「ワカッタカ」と静かに優しく言う言い方もあるし。そういう説明を一所懸命しても、どうしても「ワカリマシタカ」と言えと言う。「ワカリマシタカ、アンジンサーン」(笑)なんて俺は言えない。将軍として言えないって、頑として言わなかった。向こうも意地になってた(笑)。

そうした意気込みが結果的に相手に通じちゃうんじゃないかという気がしますね。

三船 だろうと思いますね。それでいいと思うんですよ。結局、「将軍」は、アメリカをはじめ、各国であれだけの多くの人が見てくれたのは、ジェイムズ・クラヴェルさんの功績ですけどね。日本の作家が幾ら立派な作品を作っても、あそこまでいかなかったと思います。そういいった功績は認めますけど、おかしなところがずいぶんありました。そこまでこちらは介入できませんが、自分の役のところだけは、主張しました。日本の習慣として、動あの時代の身分の人はこういうことであったと……。

三船さんは、喜劇には、あまり興味ありませんか。

三船 いやーあ……(笑)

「社長洋行記」のように、ゲストとして出演なさったのはありますね。

三船 ありますよ、時々。それと日常で喜劇みたいなことやってる(笑)。ステイーヴン・スピルバーグの「1941」、こ、れはもう完全なコメディ。まじめくさってやればやるほど、ばかに見える(笑)。それが狙いですけど。

あの作品は何日間くらいかかったんですか。

三船 僕の出演はわずかだったんだけど、二ヵ月くらいは現場にいましたよ。最初のうちは、兵隊さんに扮する様ざまな東洋の人たちに、毎朝、敬礼練習から、キヨツケーッ、ミギヘナラエッ、などから始めて、とにかく、初年兵教育から始めたわけです(笑)。ステノーヴンがやってくれっていうので。帽子を斜めにかぶってダーラダーラと潜水艦の上を歩かれたんじゃ困るんでね。こっちは、毎日、朝から初年兵教育。やあ、くたびれましたよ(笑)。

教官で。

三船 撮影に入っても、胸の注記っていうのかな、あれは伊・19(船の印)でしたね、伊・19の何の誰と、服の胸のところに名前を書いてやる。毎日洗濯するもんですから、毎日書いてやらなきゃならない、一人ひとりに。余計な仕事でくだびれちゃった。セリフは日本語だったからよかったですけどね。雑用が多かった(笑)。

スピルバーグの演出ぶりはどうでしたか。

三船 そんなには細かい注文はありませんでしたよ、私には。ただ、「モーイッペン」「モーイッペソ」で、フィルムをふんだんに使って……。「1941」は幾らかかったのかな。日本の金に換算して……百億か。プロデューサーが、のんきなおじさん(笑)。自分でも脚本を書いて監督もしている、鉄砲が好きな……ジョン・ミリアス。ステイーヴンが金をガボガボ使ってるのに、ニコニコしている(笑)。ヘーえ、こらぁ大物だなと思った。まだ回収できないって言ってましたがね(笑)。

いろんな物を壊した映画でした。

三船 ステイーヴンは才能のある人だけど、この時まだ三十一か二だった。鮨が好きでね。彼の誕生日にスタジオに鮨の職人呼んで、鮨パーティをやってやった。

スピルバーグも映画少年だったらしくて、黒澤さんの映画もよく見てるんですね。それで三船さんにも出てもらったんでしょうね。

三船 自分でも言ってたね。「JAWSジョーズ」もそうだし、「1941」のファースト・シーンの霧は、「蜘蛛築城」の真似だと。女の子が裸になりながら海にドッボーン。下から潜望鏡が出てきてキャーッ(笑)。このシーンは、クロサワの真似だって言ってた。

じゃあ、念願だったわけですね、三船さんに出ていただくのが。

三船 それで、ステイーヴンは「黒澤さんは『用心棒』みたいなものをどうして撮らないんだ。『用心棒』みたいなのを撮るんだったら、俺、金出すよ」と言うんです。黒澤さんに話したら、冗談じゃないよ、今さら「用心棒」は撮れないよって。

「用心棒」「椿三十郎」「隠し砦の三悪人」の影響はすごいんですね、今のアメリカの若い監督に。ジョージ・ルーカスにしてもそうですしね。

三船 そうね。「隠し砦の三悪人」は、サンフランシスコに不思議なアメリカ人がいて、誰が売ったのか知らんけど、あれ一本だけフィルムを持っていて、商売して歩いている(笑)。「用心棒」も、あの当時、「用心棒」何とかなんて会社つくって、「用心棒」一本で食ってた連中がいました(笑)。東宝がどんな形で売ったのか知らんけど、駐在員が騙されたのか、売り切っちゃったんですね。もったいないと思いますね。「上意討ち」もそうだ。あの作品は引っ張りだこなんですよ。去年、八月に二世ウィークがあるというんで、ロサンジェルスに二週間ばかり招かれたんですが、新しくリトル・トーキョーに日米劇場がでぎたんです。二世ウィーク中にこの劇場を何に使うんだと聞いたら、何もアイデアがないという。遊ばせとくのはもったいないじゃないか、東宝の支社に伺本もフィルムがあるはずだから、フィルムを借りて皆さんに安く見せたらどうかと言ったんです。ちょうどNHKの大河番組「山河燃ゆ」の撮影があったもんだから、一世の方々が住んでいるアパートにご挨拶にお訪ねしたりしたんですけどね。そういう方々をご招待してもいいじゃないかと提案したんです。ところが、「上意討ち」なんて、フィルムがもうズタズタなんだね。ああいうのは、焼き直して、きちんとしたプリントを持っていないとダメですね。見てくれる人に失礼だ。

今ある企画 ラスト・サムライ

スピルバーグと三船さんの顔合せも面白いけど、私は、ジョン・ミリアスと組んでも面白いんじゃないかと思いますね。

三船 いやあ、あの人は怠けもん(笑)、といったら悪いけどね、のん気なんですよ。鉄砲が好きでね。顔合わせると鉄砲撃ちに行こう、行こう(笑)。のん気なことばっかり言ってるんですよ。「コナン・ザ・グレート」は、スペインで撮ったらしいんだけど、プロデューサーが、ディノ・デ・ラウレンティスで、えらい撮り直しがあったらしいんです。第二次ロケーションをやって大変な金遣ったようで、お互いに悪口をボロンチョンに言っていた(笑)。ミリアスは現場にはあまり行かないんですよ。プラモデルなんかやってる。坊やに日本のプラモデルを持っていったことがあるんです、「1941」の時に。伊・19のプラモデルだったんですけど、そしたら気に入っちゃってね。日本に来た時などいっぱい買い込んでた(笑)。「コナン・ザ・グレート」の時もミリアスに会いに現場に行ったら、監督なのに彼がいない。遊びに来たといったら、オートバイでブルルルッと会いに来て、ついでにチョコチョコッと仕事をやって、また帰ってプラモデルやってた(笑)。大物なんだな、あれは(笑)。才能はある人ですけど、なかなかおみこし上げないんですねえ。

「コナン・ザ・グレート」では、日本の剣法を取り入れてましたね。

三船 あの時も、刀を日本で作ってくれって来てね。日本のキャメラマンも誰か紹介しろと。いろいろやってやったんだけれども、いつの間にか別なやつでやってるんだな、これが(笑)。

「風とライオン」を見ても、アスは、、ミリ日本の時代劇が大好きだという「レッド・サン」アラン・ドロンと事がわかるし、剣戟の型を大分取り入れてやってるんですね。

三船 ステイーヴンもミリアスも、「クロサワ、ミゾグチ、オズなど、日本映画を見て、ずいぶん勉強した」と自分ではっきり言ってます。尊敬している、とちゃんと言う。立派だと思うんです。日本の若い助監督などは、巨匠なんて古い、みたいなこと言うけれどね。

逆にそれを告白してね。「スター・ウォーズ」なんか「隠し砦の三悪人」ですものね。「七人の侍」は、彼らにとっては聖書といえる。こうした作贔は、アメリカの新勢力が出る前に、イタリア映画にもずいぶん影響を与えましたね。

三船 イタリアでは、もめたのがありましたね。「用心棒」とそっくりのやつがあった。

セルジオ・レオーネ監督の「荒野の用心棒」。

三船 東宝のローマ駐在員が見つけて、あれ、これどっかで見たことがあるなと(笑)。川喜多(長政)さんに報告したらしいんですよ。ちょうど、川喜多さんとパリに行ってた時でしたけど、川喜多さんの何十年来の常宿、パリのキャリフォルニアというホテル。ある日、そこのロビーで川喜多さんが、ガンガン怒鳴ってるんですよ。ブロッコリとか野菜みたいな名前のプロデューサーを前に置いて。フロントにいる頭の真っ白い支配人が、「ムッシュ・カワキタがあんなに大きな声出してるのは初めて見た」と言ってましたよ。国際人でしたね、川喜多さんは。堂々と相手を向こうに回して難詰していた。明らかに版権の侵害だ。ストーリーそっくりそのままじゃないか、と。

「用心棒」以外の日本の時代劇も、ずいぶんイタリアには真似られましたもんね。影響はものすごくあった。

三船 マカロニ・ウエスタンの時代も過ぎましたね。あの当時稼いでいたのは、ブロンソンとクリント・イーストウッド。ブロンソンも、今、ロサンジェルスでショボーンとしているね、仕事がなくて。

ブロンソンは、レオーネの「ウエスタン」あたりから、スターとして出てきたんですもんね。一時は、日本でもすごい人気でしたけどね。

三船 ロサンジェルスからは、うちに毎年、年鑑ブロックが送られてくるけど、俳優さん、女優さんをはじめ、映画関係の九〇パーセントが失業状態だと言うことです。なかなか厳しいですね、アメリカも。日本ばかりじゃありません。アメリカは、かつては鉄鋼、自動車、三番目に映画と、ハリウッドの映画は、基幹産業の一つだったんですけど、今はご存じの通りですからね。去年の暮にコロムビアから「空手キッド」という映画出演の話しがあったんだけど、スケジュールの都合で降りちゃったんです。そのコロムビアは、コカ・コーラが買っちゃったでしょう。ユニヴァーサルは、観光映画村の元祖でMCAの傘下だしね。センチュリイシティの二十世紀フォックスは、デンバーの石油王が買っちゃった。新宿副都心じゃないけど、ビルがボンボン建って、スタジオなんかどっかいっちまえって言う感じだね。

ずいぶん変わってきましたね。

三船 頑張っているのは、みんな独立プロの人たちですよ。メイジャー会社の名前だけは残ってますけどね。

配給会社という形でね。

三船 スタジオはレンタルで借りられますから、独立プロはスタジオを持ってなくてもいいわけですよ。気の合った連中が集まって、一所懸命自分で面白いものを作ろうとする人だけが残ってゆく。スピルバーグ、ルーカス、ミリアス・・・。

フランスではアラン・ドロンが、三船さんと映画を撮りたがってましたね。以前、アラン・ドロンが侍になって日本で撮るという話を聞きましたが……。

三船 無理ですね。前に、企画立てたことがあるけど。黒澤さんに相談したところ、あいつじゃあだめだよ、って。

アラン・ドロンとのおつき合いはいつ頃からですか。

三船 「レッド・サン」から。それからあと、ダーバンのCMを十年ぐらいやってくれたんですけど。フランスも映画が低調ですし、ADマークの化粧品なんか作って、商売のほうに夢中になってね。それでちょっとトラブルがあって、サイナラー(笑)。ソニーさんにいろんな子会社があって、アラン・ドロンのマークの化粧品を売り出したんです。契約の問題かなにかでダーバンさんとまずくなっちゃって、以来、私はノー・タッチ。

ジャン・ギャバンさんともお知り合いだったようですね。

三船 亡くなる直前に、化粧品のバルカン、今、マストロヤン(マルチェロ)がやってるCM、それをやってくれるというので契約書を作って。彼は飛行機は絶対嫌いだって言うんで、ジュネーブで撮ることになっていた。じゃあ、あさって何時の汽車に乗る、なんて言ってた時にパタッと亡くなったんです。彼は、昔、フランスの水兵さんだったんですよ。で、俺が死んだら海へ流してくれって……。あとでお訪ねした時、弁護士事務所で、未亡人に会ったんですが、「あの人、お酒飲んじゃいけないというのにガブガブ飲んで…あなた方にもご迷惑かけた。この話はないことにしてくれ」と、契約書を破いてくれた。金よこせなんて言わないんです。実にちゃんとした、しっカりした人でしたね。そのお葬式の写真まで、あとで送ってきてくれました。

黒澤監督にはよくお会いになりますか。ぜひまた一緒にお仕事してほしいですね。

三船 時々、会うんですけどね。今、「乱」を撮っておられる。ぜひ成功してもらいたいですね。「ミッドウェイ」の時のウォルター・ミリッシュ、ああいう大プロデューサーに、いろいろ相談した事があるんですよ。そうしたら、アメリカの興行ペースに乗せるんだったら、アメリカの役者を二、三人入れなきゃだめだ、というんです。日本の映画となると、アート・シアター扱いになるからと。アメリカで商売しようと思ったら、アメリカの人が出ないとダメらしい。

三船さんのこれからの外国での出演予定はいかがですか。

三船 まあ、いろいろ来てましてね。バート・レイノルズのところからも来てる。「ピンク・パンサー」の監督からも来てるんですけど、これが題名がおかしい。

ブレイク・エドワーズですね。

三船 「ラスト・サムライ」(笑)。南アフリカのヨハネスブルクで撮りたいと言ってます。あとは「戦場にかける橋」のパートII。今、準備してます。私も出稼ぎもやらなきゃいかんし(笑)。

いろいろ、やって下さい。侍というと三船さん。外国のライターはそういうイメージで書いているんじゃないですかね。ともかく、さらに世界に飛躍して、これからも私たちを楽しませて下さい。

三船 敏郎(ミフネ トシロウ)
日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。1951年にヴェネツィア映画祭で最高の賞、金獅子賞を受賞した黒澤明監督「羅生門」に主演していたことから世界中より注目を浴び、1961年には主演した黒澤明監督「用心棒」、1965年にも主演した黒澤明監督「赤ひげ」にて、ヴェネツィア国際映画祭の最優秀男優賞。その他にも世界各国で様々な賞を受賞し、アラン・ドロン、スティーブン・スピルバーグなど世界中の映画人たちへ多大な影響を与えた、日本を代表する国際的スター。1920年4月1日 - 1997年12月24日没。

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