2019年のフランスは、アンナ・カリーナの死と共に暮れた。折からのストライキの影響でパリはいつになく静かだったが、それはまるでパリの街自体が、ひっそりと喪に服しているようにも感じられた。急逝の翌日、文化大臣フランク・リステールは次のようなコメントを発表している。
「アンナ・カリーナの視線は永遠に、ヌーヴェル・ヴァーグを象徴するものです。特にゴダール、そしてリヴェットからヴィスコンティの世界まで、彼女の視線は広がっていきました。いまもなお世界中が、それに魅了されています。彼女を失ったフランス映画はまるで孤児のようです。一つの伝説を失ってしまったのです」
年が明けて2020年1月8日、シネマテーク・パリで始まったジャン=リュック・ゴダールの回顧展には、実はカリーナも招かれていた。それほど彼女の死は誰も予想していない、突然のものだったのだ。回顧展開幕を告げる「女と男のいる舗道」(4Kデジタル・リマスター版)の上映前に急遽、カリーナを偲ぶ会が行われた。壇上には、彼女の最後の夫であり40年近い歳月を共にした映画監督のデニス・ベリーの姿があった。
「今日この場所に来ることを、アンナは楽しみにしていました。なぜならシネマテークは彼女にとって、大学のような場所だったから。ゴダール、リヴェット、ジャン・ドゥーシェ、トリュフォーらヌーヴェル・ヴァーグの作家たちと一緒に映画を見て、彼らの話に耳を傾ける。そのようにして彼女は、教養を高めていきました。そしてゴダールと磁石のように引かれ合い、映画史に二人の軌跡を刻み付けたのです」
アンナ・カリーナと言えば、まず誰もがゴダールの映画の彼女について語る。カリーナがゴダールについて語った言葉はいくつも残されているけれど、ゴダールがカリーナについて語った言葉は思いのほか少ない。
1987年、とあるTVのトーク番組で、彼女がゴダールと久しぶりに再会したときのことを思い出す。66年に袂を分かってから20年もの間、手紙すら交わさなかった二人だが、その再会はカリーナにとって予期せぬものだった。番組にゲストとして呼ばれた彼女には、そこにゴダールも招かれていることを事前に知らされていなかったのだ! 動揺を隠せないアンナを横目に、司会者はゴダールに質問を投げかける。アンナ・カリーナとは、どんな女優だったのか?
「彼女は賞賛に値する〝サイレント映画の女優〟だ。セリフがなくてもその表情や身のこなしひとつで、全てが伝わる。音楽的なセンスにすぐれたミュージカル女優でもある。ただ、彼女にとっての苦難は、(女優として登場した時に)すでに映画が本来あるべき姿を失っていたことだ。アンナはハリウッドに行くべきだった。でもその時すでにハリウッドさえもが、そのあるべき姿を失っていた」
カリーナと暮らした日々について尋ねられると「映画と私生活を一緒にすることは不可能だ」と言い澱みながら、訥々とした言葉で答えた。
「仕事を共にしたのはおそらく過ちだった。女性には多くを与えなければならない。でも(私が)彼女に与えられたのは映画だけだった。あの頃の私はあまりにも若すぎた。映画史の最も美しいカップル……D・W・グリフィスとリリアン・ギッシュ、オーソン・ウェルズとリタ・ヘイワーズ、ジャン・ルノワールとカトリーヌ・エスラン、ロベルト・ロッセリーニとイングリッド・バーグマンらを模範に、公私ともに幸福なカップルになりたかったのだが……」
デンマークから来た田舎娘の中にゴダールは、女優アンナ・カリーナを発見した――それが映画史の定説となっている。しかし一方でカリーナは全身全霊でゴダールの愛に応え、その映画に溢れんばかりの“感情”を吹き込んだ。そしてそれが、神話を生んだのだ。
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私は過去に3回、アンナ・カリーナにインタビューする機会に恵まれた。待ち合わせの場所はいつも決まって、サンジェルマンの庶民的なカフェ。想像したよりずっとおしゃべりで人懐っこく、無邪気で、ちっとも女優然としていない。少女がそのまま大人になったようなその人柄に魅了されない人はいないだろう。
カリーナはいつもキリッと冷えたロゼワインを注文した。パリの人々がロゼを飲むのは夏と決まっている。でも彼女はたとえ真冬でもまるで南仏にいるかのように、冷たいロゼを好んでいた。私は取材のとき、おまじないのように相手と同じ飲み物を注文するから、カリーナの記憶は〝南仏産のロゼワイン〟の味わいと共にある。
最後に会ったのは、2018年の2月。彼女の初監督作「Vivre ensemble(共に生きる)」(73)が劇場でリバイバルされた折に、ロング・インタビューをしたときだ。カリーナは女優兼監督のパイオニアでもあった。
パリの冬はいくら気温が低くても雪が降ることは滅多にない。大雪が降れば、すぐに交通機関は麻痺してしまう。その日はしんしんと雪が降り積もっていた。私は渋滞に巻き込まれ、彼女と約束した時刻に遅れてしまった。やっとの思いでカフェに辿り着き、私が平身低頭して謝ろうとすると、カリーナはあの大きな目を見開いて、「あなたが無事に到着できないんじゃないかと思って心配したわ! さあ、まずはゆっくり、落ち着いて」と、そっと肩に手を添えてくれた。
とにかくお茶目で可愛らしく、サービス精神旺盛なカリーナだが、時折ふと、寂しそうな表情を浮かべるときがある。そこからは決して幸せではなかったであろう、彼女の少女時代が想像された。
カリーナはこれまで、待ち合わせ場所にはひとりで姿を見せていた。でもその日は雪のせいもあって、夫のデニス・ベリーに付き添われていた。取材を終えると彼女は夫の腕に摑まって、ゆっくりとした足取りで立ち去っていった。実際のカリーナはスクリーンで見る以上にすらっとしていたが(身長は公称172㎝だが、もっと高い印象)、その後ろ姿は幾分か痩せ、縮こまった印象を受けた。
『女と男のいる舗道』 (c)1962.LES FILMS DE LA PLEIADE.Paris
「女と男のいる舗道」、原題〝Vivre sa vie(自分の人生を生きる)〟でのように、アンナ・カリーナは与えられた自らの生を全力で生き抜いたと思う。この映画で彼女が演じたヒロインの言葉が私の頭の中でリフレインする。
「どんなことをやっても私の責任。だから自由なんだと思う。手をあげるのも私の責任。右を向くのも私の責任。不幸になるのも私の責任。タバコを吸うのも私の責任。目をつぶるのも私の責任。私の責任を忘れるのも私の責任なんだわ……」
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この原稿を書き終えたとき、偶然にもあるフランスのメディアが、彼女についてのエピソードを伝えているのを目にした。それによると、「女は女である」(61)の撮影中、カリーナはゴダールの子供を妊娠していた。しかし、撮影後に死産となったことが判明。彼女はその痛みを長い間、引きずっていたという――。
うおずみ・さくらこ
映画ジャーナリスト。パリ在住19年。
映画と食を中心にフランス文化や暮らしにまつわる人物インタビューや取材、執筆を行う。
Paris特集上映「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち」
全国順次開催中
配給:ザジフィルムズ / ハピネット
(c)1962.LES FILMS DE LA PLEIADE.