「ランボー ラスト・ブラッド」への道② 名台詞とともに振り返る 「ランボー」シリーズのこれまで

6月26日(金)より公開されるシルヴェスター・スタローン主演最新作「ランボー ラスト・ブラッド」の連続企画の第2回。
※第1回の記事はこちらから。

屈強な肉体と戦場さながらのアクションが売りである本シリーズ。ランボー自身もどちらかというと寡黙なキャラクターではある が、それだけに発せられる一言の重みは、作品の主題を決定づけるほど大きい。ここでは劇中の名台詞とともに、「ランボー ラスト・ ブラッド」までの歩みを振り返ろう。

「何も終わっちゃいない。 俺にとって戦争はまだ続いたままだ」(「ランボー」より)

 

ヴェトナム帰還兵ランボーは、ふらりと訪れた街で「面倒を起こしそうだ」と難癖をつけられ、さらに投獄される。事情聴取という名の拷問で戦場のトラウマが蘇り逃亡。警官隊との死闘に発展するという物語。国家に見捨てられた帰還兵という、ヴェトナム戦争の暗部を明瞭にテーマ化した代表的作品である。「何も終わっちゃいない。俺にとって戦争はまだ続いたままだ」と泣き叫び、約3分の長ゼリフをキメる演技者スタローンのすばらしさ。その涙を受け止めるのは、ランボーがただひとり信頼を寄せるトラウトマン大佐(リチャード・クレンナ)である。

しかしこの作品の真の悲劇は、戦争が始まったことの本質はちっとも変わっていないという点にある。さらにそれをランボーが、終わっていないのは「俺の」戦争だと勘違いしたことだ。脚本家スタローンの聡明さはそれを見通した点にある。

白人しか見当たらぬその街で、ランボーは食事をしたかっただけだ。それなのに投獄され、同じアメリカ人に発砲までされる。よそ者排除の論理である。「俺の」戦争は終わっていたはずなのだ。たとえばランボーは、走ってくるバイクに 飛びかかってそれを奪う。そのとき運転手が路面に頭を打たぬよう、実に繊細な手さばきで彼を引き落としている。一瞬の早業だが、無関係な犠牲者は絶対に出さないという非戦場の倫理は尽くしている。

しかし警官隊の圧倒的な火力と共に、アメリカの森林がいつしかヴェトナムのジャングルに変わる。米兵として戦った自分が、米国人に追い詰められる。アメリカは負けた。そしてその負けたやり方を国内で繰り返している。だから当然、警官隊はランボーに負ける。終わっていないのはランボーの戦争でなく、アメリカの戦争なのだ。

そうしむけたのは、ランボーに異常な敵愾心を持つ保安官ティーズルである。もし彼がランボーをそっとしておけば、悲劇は起きなかった。殺人兵器ランボーを作ったのはトラウトマンだろうが、覚醒させたのはティーズルだ。そして彼のような極端な身びいきと偏見が、戦争の遠因であることは言うまでもない。

このティーズルという難役を、ブライアン・デネヒーが演じる。アメリカの負の論理を見事に具現した演技が、作品のテーマを最大限に深め、かつ明確にしている。同時期の「コクーン」(85)では慈愛のエイリアンという対照的な役で、アメリカの清と濁を自在に横断したデネヒー。惜しくもこの月に歳で没したことを記憶にとどめたい。

 

「俺は捨て石だ(アイム・エクスペンダブル)」(「ランボー/怒りの脱出」より)

 

今もいるという捕虜確認のため、ヴェトナムに向かったランボーだったが、本部に裏切られ再び戦闘に手を染める。帰還兵を敬わぬ今のアメリカは、同胞さえ見捨てる。 米軍の鉄則とは決して仲間を見捨てないことだったはずだが、ベトナム戦争はその倫理を失った。それが今作の着想である。

荒唐無稽なアクション映画の体裁を持つが故に、その点が見えにくいのは痛恨だが、 その代わりアクションの興奮度も最高である。囚われのランボーが、床下に潜む現地女性兵とのアイコンタクトで、一瞬のもとに敵を殲滅する連携プレイなど、何度見ても胸躍り、血が騒ぐ。

地上のゲリラ戦、峡谷での水中戦、ヘリによる空中戦と、戦闘の舞台が陸水空の三段階で拡大していく展開は、いかにも共同脚本ジェームズ・キャメロンがやりそうな段取りだ。「ターミネーター」(84)でのブレイク直後の仕事である。

また、米軍ヘリに見捨てられるランボーは、状況的に信頼するトラウトマンにさえ騙されたと誤解しておかしくない。ところがランボーの気力をくじこうと、「お前は祖国に捨てられたのだ」とロシア兵がその時の傍受録音を聞かせると、逆に裏切ったのろしのは本部だと見抜き、それが反撃の狼煙となる。この冴えた脚本は、言葉に二重の意味を与える脚本家スタローンが、しばしば使う手口だ。 

とはいえ、本作での政治的誤認および、大量殺戮とアジア人蔑視ともとれる描写をどう評価するかは、議論が必要だ。というのも前作でランボーが殺したのは実はただひとり。それも身を守るための事故なのだ。同じアメリカ人を彼は決して殺さない。

「俺は捨て石(エクスペンダブル)だ」と自嘲気味に呟くことで、彼は呪われた殺人兵器としての運命を自己解決している。本特集にも寄稿している三浦哲哉はスタローンの聖性に着目するが、囚われのランボーは幾度も磔刑のイエスと同じ姿を示す。以後のランボーは贖罪という主題を負い、それは同時に映画人スタローンの興行的成功と批評的不遇という十字架にもなる。

「俺の戦争は終わったんです」(「ランボー3/怒りのアフガン」より)

シリーズの基本概念に「贖罪」のテーマが召喚されると、次にランボーが信頼するトラウトマン大佐こそ、彼にとっての死神であることが見えてくる。

前作では強制労働に従事し、そこに安住の場所を見出していたランボーを、彼は再 び戦場に送り出した。そして今回も、ソ連が軍事介入するアフガニスタンへの同行を求めて姿を現す。

今のランボーは、賭け闘技で得た金を僧に施し、寺院建築を手伝いながらバンコクで暮らしている。「ここで働くのが好きだし、腰を落ち着けたい」と述べ、ついに「俺の戦争は終わった」と言うランボーを、「君の本質は変わらない」と口説き落とす。

それでも固辞するランボーをあきらめ、アフガンに渡ったトラウトマンだが、ほどなくソ連軍の捕虜となる。そこでランボーは救出のため、またもや戦場に赴くことになる。 2作目以後のシリーズ基本構成がここで確立する。すなわち救出、攻撃、脱出の三位一体だ。3つのどれが欠けても成立しない。しかし「攻撃」には犠牲が伴い、必然的に復讐の念が生まれ、しかもランボーは必ず生き残る。だからの贖罪という連環なのだ。

今作で特筆すべきは、アフガニスタンの国技とされるブズカシを描いたことだ。ヤギの死体を馬上から奪い合うこの競技を通じ、ランボーは現地人との交友を深めてい く。しかしそこにどっと総攻撃を加えるのがソ連軍だ。

ブズカシは激しい競技である。だから一瞬、競技上の事故なのか、敵軍の攻撃なの かランボーさえも混乱する。ここでの演出、編集のリズムは実に見事で、騎馬群の背 後から圧倒的な重量感で迫るヘリを捉えるショットには息をのむ。ジャングルのない広大な砂漠を舞台に、最新兵器を次々と投入する見せ場も、質量感と疾走感の完璧な融合で、80年代アクションのひとつの頂点と言いたい。

しかし。「アフガン兵たちに捧げる」と示すラストの妥当性など、その後のアフガン状況を思うに無視できぬ点であり、本作評価の方法は映画批評における課題でもある。

 

「無駄に生きるか何かのために死ぬか ・・・お前が決めろ」(「ランボー/最後の戦場」 より)

前作から20年。90年代はランボーロッキーも新作がない。両者の不在はなぜなのか。逆に21世紀に復活した理由は。陰りゆくスターとしての人気再燃の方便だろうか。しかし今作が描いた非道の残虐さは尋常ではない。しかもシリーズ唯一の監督作。ならばそんな思惑以上の何かがあるように思えてならない。

前作以後、ネットで世界の現実に容易に触れられるようになった。冒頭ではそれを示すように、凄惨な死体の記録映像を示す。映画はこの現実を描くのだとばかりに容赦なく。事実、手足や内臓が飛び散る戦闘描写は常軌を逸し、アクション映画の域を超える。

トラウトマンはもういない(リチャード・クレンナは03年に逝去)。今回ランボーを誘うのはキリスト教NGO。軍事独裁に苦しむミャンマーの住民支援に、ランボーは案内を請われ拒絶するが、命を救いたいという女性NGOサラの強い説得に、重い腰をあげる。しかし住民たちは皆殺し。NGOも全員が拉致される。ランボーは彼ら、というよりサラ救出のために武器をとる。 シリーズ最高作と考えたい。戦闘描写は、人の造りし兵器がどれほどむごい結果をもたらすかを示して余りある。凄絶な殺し合いの果て、はるか遠方からランボーを見つめるサラと、見返すランボーの切り返しは、幾万もの感情を言葉なく伝えきった屈指の名シーンだ。

死体の山の中、ランボーを見つめるサラの目に、救われたことへの感謝の念はない。 命を救うためこれほどの死を招いたのだ。ランボーの目には深い諦念と、かすかな悲恋の情。最新作でも「フタをされているだけ」の彼の贖罪は続く。人を救うため に人を殺す。となれば、そこには命の価値が天秤にかかっているのだ。

第一作で「この街では俺が法だ」とティーズル保安官は言う。ランボーは「森の中では俺が法だ」と。しかしこの世においては誰が法なのか。命の価値を問えるのは神だけだ。サラに譲られた十字架を握りしめるランボーは、きっとそのことを問うているはずなのだ。

「ランボー ラスト・ブラッド」への道 全5回
「ランボー ラスト・ブラッド」への道① シルヴェスター・スタローン主演・脚本インタビュー はこちらから

・「ランボー ラスト・ブラッド」への道② 名台詞とともに振り返る 「ランボー」シリーズのこれまで はこちらから

「ランボー ラスト・ブラッド」への道③ キリスト受難劇としてのランボー はこちらから

「ランボー ラスト・ブラッド」への道④「西部劇」としてのランボー はこちらから

「ランボー ラスト・ブラッド」への道⑤アメリカの戦争とランボー はこちらから

 

 
文・南波克行 なんば・かつゆき
映画批評。近著に『スティーブン・スピルバーグ(フィルムメーカーズ18)』(編著)、『フランシス・フォード・コッポラ、映画を語る』(翻訳)など。

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