「ランボー ラスト・ブラッド」への道③ キリスト受難劇としてのランボー

6月26日(金)より公開されるシルヴェスター・スタローン主演最新作「ランボー ラスト・ブラッド」の連続企画。第3回からは、ランボーの世界を掘り下げるエッセイをお届けしていこう。
※第2回の記事はこちらから。

なぜランボーはいつも敵に痛めつけられるのか? なぜその身体は傷だらけなのか? シリーズを通して幾度も描かれる肉体的苦難=受難(パッション)の迫力のなかにこそ、俳優スタローンの真髄があった!

強調される肉体的苦難 


カトリック系宗教新聞による2007年のインタビューのなかで、スタローンは「ランボー/最後の戦場」を「キリスト教的な映画(Christian movie)」だと述べている【脚注】。また、この記事は、 彼が幼少時からカトリック教育を受けたこと、 80年代は成功にかまけて教会から遠ざかっていたが、 90年代後半、病気を抱えて生まれてきた娘の存在がきっかけで、ふたたび信仰を重んじるようになったという事実を伝えている 

さて、では「キリスト教的」とは、どのような意味だろう。「最後の戦場」は、コロラド州からやってきた牧師たちをランボーがミャンマーで手助けする話だ。あらゆる「信仰」を失った主人公が、血みどろの戦場で、魂の救済のためのかすかなチャンスを摑むことができるかいなかが問われる。だから物語に「キリスト教的」なところがあるとひとまず言える。だがもちろんそれだけではない。ここでもまた濃密に繰り返されているランボーの苦行──あざけられ、ののしられ、嗤われ、瀕死の傷を負うその様子が──ヴィジュアルにおいて、はっきりとキリストの「受難=パッション」を反復している。スタローンはそのことをも自覚して「キリスト教的」と述べたのではないか。 

たとえば、「ランボー/怒りの脱出」を見返してみよう。敵軍の捕虜となり、鎖で縛られたままヒルたちの巣食う泥沼に肩までとっぷりと浸かった主人公が、ずるずるとチェーンで引き上げられてゆく。すると私たち観客が目撃するのは、磔刑図そのままに、両腕を広げ足をだらりと垂らすその全身図であった。次の場面、加虐趣味が人相にはっきりと浮き出たソ連軍人たちにランボーが高圧電流を流されると、当時体脂肪率が5%を切っていたというその引き締まった肉体はさらに怒張し、筋線維の一本一本までが裸電球に照らされて浮き上がる。この衝撃的な光景は、殉教の苦悶を誇張して描いたバロック絵画さながらの力で観客を怯えさせずにいない。 

ランボー3/怒りのアフガン」では、冒頭の地下闘技場場面を経て、大工姿でトンカチを操る姿を 披露するランボーがいる。仏教寺院の上とはいえ、 キリストと同じ仕事に手を染めていることが偶然とは思えない。闘いに身を投じると、やはり肉体的苦難こそが過剰なまでに強調される。洞窟で独り、自分の脇腹── 十字架のキリストが 槍で刺し貫かれたのと左右違いで はあるが同じ箇所──に突き刺さった木片を、傷口の反対側から親指を突っ込んで押し出し、つぎに弾倉の火薬を注ぎ、着火して消毒、苦悶に耐えかね「ハウ アッ!」と絶叫するまでの姿が、 えんえんと、物語展開だけを考えればどう考えても不要な長さで描かれる。見誤るべくもないだろう。「ランボー」シリーズは、アメリカの大義の犠牲となって見捨てられた戦士の姿を、キリスト受難劇に重ねて描こうとする作品群なのだ。 

”受難劇俳優” スタローン 


無論、アクション映画を「受難」の意匠とともに物語ることは、スタローンの専売特許ではない。木谷佳 楠の『アメリカ映画とキリスト教──120年の関係史』(キリスト新聞社、2016年)に詳しいが、 そもそもハリウッド商業映画は、アメリカ国民に反感なく受け入れられるために、自ら進んでキリスト教的な要素を積極的に取り入れてきた歴史を持つ。 1970年代のキリスト・リヴァイヴァル(ヒッピーのような長髪の反逆児として描かれることで、キリスト人気が再燃した)、1980年代のレーガン政権下における保守的宗教観の復権等々といった情勢を、 本シリーズの作り手たちは当然、意識していただろう。 

だが、そうした文脈を踏まえてもなお、スタローンが自作自演する受難の光景には、異様としか言いようがないみなぎ かいいようのない迫力が漲る。それはなぜか。 

俳優スタローンの魅力の核心部分と、それはかかわっている。モノマネのときによく誇張される あのだらりと垂れ下がった唇と舌っ足らずのしゃべりかたは、わざとそう演じているのではなく、 出生時に負った神経の傷の後遺症なのだそうだ。 イタリア系であることに加え、唇の麻痺による特 徴的な話し方が悪ガキどもにマークされ、スタローンはニューヨークの少年時代に過酷ないじめに遭った。悪夢としてずっとフラッシュバックし つづけるほどの体験だったそうだ。 

忘れようとしても忘れられないもの。やむにやまれぬもの。意図に反して漏れ出てしまうもの。 芝居で意図的に表現するのが本来不可能であるは ずのこうした何かを、スタローンは、だらりと垂 れ下がった唇という自らのスティグマをあえて強調しながら、スクリーンに顕現させる。余人を持って代え難い資質というほかはない。 

最新作の「ランボー ラスト・ブラッド」もまた、 忘れようとしても忘れられない過去の傷が再燃する物語を描く。そしてランボーは暴力の渦巻く場 所へと吸い寄せられてゆく。老いを加えたその肉体が、暴力描写に一層の凄みを与えている。いっ たいスタローン以上の“受難劇俳優”がかつて映 画史に存在しただろうか。あの「裁かるゝジャンヌ」(1928年)のファルコネッティ以外についぞ思いつきはしないのだった。 

【脚注】
“Rambo IV “is also a Christian film,” Sylvester Stallone confirms, ” Catholic News Agency, Mar 1 2007, (https://www.catholicnewsagency.com/ news/rambo_iv_is_also_a_christian_film_sylvester_ stallone_confirms). 

「ランボー ラスト・ブラッド」への道 全5回
「ランボー ラスト・ブラッド」への道① シルヴェスター・スタローン主演・脚本インタビュー はこちらから

・「ランボー ラスト・ブラッド」への道② 名台詞とともに振り返る 「ランボー」シリーズのこれまで はこちらから

「ランボー ラスト・ブラッド」への道③ キリスト受難劇としてのランボー はこちらから

「ランボー ラスト・ブラッド」への道④「西部劇」としてのランボー はこちらから

「ランボー ラスト・ブラッド」への道⑤アメリカの戦争とランボー はこちらから

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