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物語、俳優、空間が絶妙に調和する傑作舞台『デカローグ』絶賛上演中 デカローグ5『ある殺人に関する物語』&デカローグ6『ある愛に関する物語』

デカローグ5『ある殺人に関する物語」 (右から)福崎那由他、寺十 吾 / 撮影:宮川舞子

ポーランド映画の名匠クシシュトフ・キェシロフスキ監督(1941-1996)の最高傑作の呼び声高い「デカローグ」(1989)。全10話のパートで構成され、合計で10時間近い上映時間をもつオバケ作品を、このたび日本の精鋭演劇人が集ってその舞台化に挑戦、東京・新国立劇場で絶賛公演中である。現在上演されているのはデカローグ5『ある殺人に関する物語』とデカローグ6『ある愛に関する物語』の2パート。デカローグ1/2/3/4はすでに終演してしまったものの、各パートに連続性はなく、独立した物語であるため、デカローグ5/6から見始めてもなんの問題もない。残りのデカローグ7/8/9/10も含め、同劇場では7月15日まで上演が続いていく。一話あたりの上演時間はキェシロフスキ版と同じく1時間前後の中編であり、一話分を終えると20分間の休憩が入る。合計10時間といっても、肩の凝る重厚さはまるでなく、映画で言うならオムニバスを見ていくようなカジュアルな感覚で各パートを味わっていける点が心地よい。

デカローグ1〜4について書いた前回原稿はこちら

「デカローグ(Dekalog)」とは、ポーランド語で旧約聖書における「モーセの十戒」のこと。神の御心に沿って人間に課せられた10の掟であるわけだが、「デカローグ」全10話に登場する人々はいずれも十戒を立派に遵守できるような存在ではない。わたしたち人間の生はなんと弱々しく、傲慢さ、不実さに満ちているのだろう。ちょっとしたきっかけで間違いをしでかし、罪を犯し、愛すべき人を傷つけてしまう。あるいはその人を永遠に失ってしまう。クシシュトフ・キェシロフスキはそうしたあやまちのひとつひとつを拾い上げていく。その手つきは慈愛に満ちてはいるが、これみよがしの救済や同情はきびしく遠ざけている。

今回のデカローグ5『ある殺人に関する物語』、そしてデカローグ6『ある愛に関する物語』の場合、前者は殺人、後者は恋愛について語っており、全10話にあって最も重大な局面を扱っていると言っても過言ではなく、キェシロフスキ的主題が最も濃厚にあらわれた2作品かもしれない。デカローグ5は全10話に先がけて「殺人に関する短いフィルム」(1988)というタイトルでまず単独作として発表され、ヨーロッパ映画賞の作品賞を受賞。仏「カイエ・デュ・シネマ」選考の1988年ベスト・テンでみごと1位に輝いている。なお、同誌のベスト・テン2位は「プラハの春」に材をとった「存在の耐えられない軽さ」であり、東欧民主化と軌を一にしてこの2本が歴史に名を残した格好である。

デカローグ5では20歳のヤツェク(福崎那由他)がタクシードライバーのヴァルデマン(寺十吾)を衝動的に殺害し、裁判で絞首刑を言い渡される。ヤツェクは死刑執行前、新人弁護士ピョトル(渋谷謙人)に自身の心情を語る。死刑を前にしてようやくヤツェクは心の友を見つけたのかもしれない。

デカローグ6では19歳の郵便局員トメク(田中亨)が団地の隣の棟に住む美しい30代女性マグダ(仙名彩世)を望遠鏡で夜ごと覗いている。マグダと面と向かって会うことにしたトメクは、彼女に愛を告白する。どちらも孤独な青年のよるべなき境遇が次第にあきらかになってきて、ヤツェクの殺人もトメクの覗きも決して同情には値しないものではあるが、2人の青年のやるせなさ、痛ましさは観客の心に響くことだろう。

 

デカローグ5『ある殺人に関する物語」 (右から)福崎那由他、渋谷謙人 /撮影:宮川舞子

脇役陣の登場方法が独特である点は、今回の舞台版「デカローグ」の大きな特長である。殺害されるタクシードライバーを演じた寺十吾(じつなし・さとる)は、死刑執行シーンで教誨を担当する神父として再登場する。名越志保は、団地内の映画館でチケット売り場の冷淡な女を演じたのを手始めに、裁判長として弁護士ピョトルを諭したり、死刑場立ち合いの医師に変貌したりし、デカローグ6ではトメクの友人の母親マリアを演じ、疎遠な息子の代わりにトメクと同居している。また斉藤直樹は、マグダが同時につきあっている三人の恋人をメイク、衣裳で変装しながら一人で器用に演じ分けていて、ニヤリとさせられた。もちろん、デカローグ1〜4全話で登場した天使のような無言の人(亀田佳明)は、今回もあらゆる姿に変化しながら主人公たちの脇を物言わずに通り過ぎていく。亀田佳明がさまざまに演じるのは、土地に宿った残留思念のようなものだと思われる。

このように、一演者が複数の役を演じること、ポリヴァレント(複数のポジションをフレキシブルにこなせる能力)に変容していくことは、つまり人間存在の代替性、相互置換性、可塑性を指し示しているだろう。わたしたち人間は、ひとりひとりがかけがえのない存在だと思いたい。しかし惑星レベルで俯瞰した場合、わたしたち人間は川底に沈む小石ていどの差異しか持たないのかもしれない。「デカローグ」という作品はそんな冷酷な真理をもってわたしたちを脅かしつつ、一方で小石のひとつひとつのかけがえのなさに回帰しようとしているのではないか。

デカローグ1〜4について書いた前回原稿で筆者は、「デカローグ」舞台上演版の真の主人公は、団地の建物そのものだと述べた。ヨーロッパ演劇シーンで高い評価を得てきた舞台美術家・針生康(はりう・しずか)によるコーナーキューブ状の美術セットが、社会主義末期の庶民の暮らしを、抽象的かつ可塑的に炙り出していた。しかしデカローグ5『ある殺人に関する物語』では団地のプレゼンスは後景に退いて、その軒先スペースが無造作に映画館の窓口となり、殺人現場となり、裁判所となり、処刑場となっていく。住居としての機能が剥奪され、人間ばかりでなく、場所もさしたるセットチェンジさえないままに代替性、相互置換性、可塑性が強調されている。一方、デカローグ6『ある愛に関する物語』ではコーナーキューブ状の美術セットが再び住居としての機能を回復し、隣接した棟の窓と窓という劇的な視線劇を現出せしめる。

 

デカローグ6『ある愛に関する物語』 (右から)仙名彩世、田中 亨 / 撮影:宮川舞子

ここで筆者が注目するのは、望遠鏡をめぐる演出である。トメクが向かいの棟に住むマグダを窓ごしに覗く際に使われ、果てはトメクがマグダの部屋に通された夜、こんどは同居する母親代わりのマリアまでが2人の痴態を覗くあの望遠鏡。アルフレッド・ヒッチコック監督の名作サスペンス「裏窓」(1954)を思い出さずにはいられない望遠鏡は、距離を無化して見る者/見られる者を対峙させる超映画的な装置である。ところが「デカローグ」舞台上演版の望遠鏡は、マグダの部屋の窓に向けられているという設定の名において、じつのところはわたしたち観客の方角に向けられている。演劇空間にはショット/リバースショット(切り返しショット)は成立しないという宿命をあからさまに開示しつつ、むしろその宿命を逆手にとって、第四の壁たる客席をバウンドさせることによってイマジナリーなショット/リバースショットを捏造せしめたのだ。このアクロバティックな視線の演出を経ることによって、ラストシーンにおける至近距離で向かい合うトメク/マグダの視線劇の緊張を、キェシロフスキ版とはまったく異なる方法で打ち出したのである。

マグダの部屋から去って自室に戻ったトメクが、ここでは詳細を控えるが、ある決定的な行為をするためにある部屋に入るのだが、そこはトメクとマリアの同居する棟ではなく、コーナーキューブ状の美術セット上の配置としてはマグダの部屋の真下に取り残された奇妙な空間——なにもないような、カーテンで遮蔽されたようなエンプティ空間——にしつらえられている。じつに奇妙な空間演出であり、決定的なできごとがマリアの足元で起こることによって、それは団地という場所の残留思念へと移り変わっていくことだろう。その意味で、この演劇作品の「真の主人公は団地の建物そのもの」であることには依然として変わりがないのである。小川絵梨子&上村聡史の両演出家が、人間と空間のありようをめぐって、来たるべきデカローグ7/8/9/10においてもどのようなさらなる深化を見せてくれるのか、楽しみが募る。

 

文=荻野 洋一 制作=キネマ旬報社 

【『デカローグ5・6』[プログラムC]公演概要】
【公演期間】2024年5月18日(土)~6月2日(日)
【会場】新国立劇場 小劇場

【原作】クシシュトフ・キェシロフスキ、クシシュトフ・ピェシェヴィチ
【翻訳】久山宏一 【上演台本】須貝 英 【演出】小川絵梨子/上村聡史

デカローグ5 『ある殺人に関する物語』
演出:小川絵梨子
出演: 福崎那由他、渋谷謙人、寺十 吾 / 斉藤直樹、内田健介、名越志保、田中 亨、坂本慶介 / 亀田佳明

デカローグ6『ある愛に関する物語』
演出:上村聡史
出演:仙名彩世、田中 亨 / 寺十 吾、名越志保、斉藤直樹、内田健介 / 亀田佳明

【公式HP】https://www.nntt.jac.go.jp/play/dekalog-c/

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