【集中連載4】三船敏郎&石原裕次郎主演「黒部の太陽」のプロデューサーが明かす大作製作と大ヒットの秘密

スティーブン・スピルバーグやアラン・ドロンといった世界を代表する映画人と対等に仕事をし、尊敬された日本人はいただろうか?
「世界のミフネ」と呼ばれた『三船敏郎 生誕100周年×「キネマ旬報」創刊100周年』を記念し、過去の「キネマ旬報」誌面から、よりすぐりの記事を連載いたします。
今回は、1964年に東宝より独立し制作プロダクション「三船プロダクション」を設立した三船敏郎と、同じく1962年に日活より独立し制作プロダクション「石原プロダクション」を設立した石原裕次郎が初めて共同制作、主演した大作「黒部の太陽」のプロデューサー中井景による制作秘話を、1968年5月上旬号「キネマ旬報」よりお届けいたします。

われ勝てり「黒部の太陽」今だから話そう

自分を捨てての協力

照れているわけではないが、悲しみや恨みと違って、喜びという奴には持続性がないようである。「黒部の太陽」ロードショー公開、一般封切りのヒットの感慨は早くも薄れて、相も変らず次回作に奔走している今日この頃の私である。

貧乏な国の、貧乏なプロデューサーに、「われ勝てり」などという原稿は無理なのではないか、そう勝手なことを言いながら締切りのギリギリまで延ばしてしまった。かく言うせっかちの私が、二年もの長期間を費やした「黒部の太陽」なのだから、やっぱりこれは大変なことだ。

「今だから話そう」といって「黒部の太陽」の製作に関して別に、かくされた秘話があるわけではない。製作から完成までのいきさつは、すでに本誌3月上旬号に平井輝軍民が詳細に書いておられるが、まったくあのとおりである。ただ、「黒部の太陽」を企画してからこの二年ほどの間に私なりに感じたことも少なくない。本誌のもとめもあり、いまそれを書かせていただくことにする。

「黒部の太陽」は振返ってみて私にとって、あまりに荷の重い、大きな仕事であったと思う。これが成功した、いちぽんの理由は、私たちが文字どおり自分を捨てて、それぞれ協力しあったことにつきるのではないか。もしこれが、一将功成り万骨枯れる式に、特定少数の人々が利益の追求をめざしていたら恐らく、これだけ大きな仕事はできまいし、成功もしなかったと思う。

「黒部の太陽」を始めるに当って最初の問題は監督、脚本を誰に委嘱するかということであった。これには十ヵ月の紆余・四折があった。とにかく私たちのこの仕事がどんなものかを理解してくれる監督でなければならない。映画は文化的使命をもつが、赤字になってまでも文化的使命を追求していいものか。

そんなことは逃げ口上にすぎないのではないか。そんなことをしていてG独立プロはいつまでたっても下請け会社的存在からはぬけ出せない。よし、ここは文化的使命など企業には存在しないんだという逆説から出発しよう。企業として成り立てば、それが映画復興にもつながるんだ、というそうした私たちの考えを理解してくれる人、それには自分の主張を作劇の基本にする人たちでば絶対にいけない。

熊井啓監督の努力

そんなことからこの人選には大変な苦労をしたが、この方針が誤解されて、私が巨匠ぎらいであるというふうな話もつたわった。

たまたま熊井啓君の「忍ぶ川」が企画流れになったというニュースが入り、私は彼のもとへ飛んで行った。映画はもうけなければ一巻の終りだというと、なにかいやな感じを受けようが邦画五社のマスプロの中で時折り見かけるような、人の樟で相撲を取る映画作りをしながら、現場では本物の横綱座蒲団にあぐらをかいて、愚作の言いわけを用意しているメインスタッフの姿勢は、この場合、絶対に許されない。

熊井君は私たちの考えのすべてを理解してくれた。ただし良識のもと、制約はゼロだ。三船、石原は生かしてもらはなければもちろん困るが、いい映画にするためには存分に創作力を振って欲しいー。

熊井君は一日考えて監督を承諾してくれた。熊井君との相炎、そして交渉の結果、井手雅人氏が脚本執筆を承知され、これで映画製作上絶対の、そして第一の基礎づくりは出来た。

制約はゼロといっても実際にはあった。単に撮影所的、不得要領な制約はないというだけで、作家のひとりよがりを排し、小学生にでも解る演出、説得力のあるドラマをと願った。そういう私たちの注文に、熊井君は別の意味でもっと大きな制約を感じたにちがいない。この制約のために社会派の名声さくさくたる彼の監督としての評価がダウンしたこともあるかも知れない。が、彼は、ものの見事に私たちの意図を達成してくれた。

日本の映画界には、まだまだ封建主義というか、儒教思想というか、武士は食わねど高楊子とか、つねにそれを美徳としている因子がある。作ることに意義があるとしてきた従来の独立プロのありかたにしても、そうした古めかしい観念の産物ではないのだろうか。私が「黒部の太陽」を手がけていちばんうれしいのは、これを作ったこと以上に、興行的に大ヒットしたということである。

ある有名監督の狭量

それにしても「黒部の太陽」は、よくぞ完成したものである。

私たちが「黒部の太陽」を企画し始めたとき、たまたまある有名監督が率いる独立プロ(かりにQプロとしておく)が、木本正次氏の同じ原作を使って映画化に動いていることを知った。関西電力、東京電力、通産大臣に製作資料を提出していることもわかった。

私たちはうたれた。独立プロとしてこれだけの規模の仕事をしようとするその意気にうたれた。よし、それなら一緒にやらうではないか。独立プロの力を結集して五社にも真似の出来ない映画を作らう。私はQプロに共同製作を申入れた。

私たちには三船敏郎、石原裕次郎というスターがいる。それにQプロの皆さんの才能が加われば鬼に金棒だ。失礼ながら出資金は、こっちで全部持つ。その代り頭脳と労力を提供していただく。利益はQプロと三船、石原プロと三等分しよう。こうして私はQプロの代表と会った。

ところが、会談は一時間で決裂した。要するにQプロ側はスター無用論なのである。三船、石原がなぜ必要なんだという。私は失敬だと思った。当時、三船氏はアメリカ映画「グラン・プリ」撮影で海外にいたので、私は身分上、三船、石原プロを代表して来ていたにもかかわらず、その両プロダクションの代表者を不要とは失敬である。

いや、失敬というよりは私はその狭量さにあきれた。映画には作劇上ヒーローは存在しても、映画作りにヒーローは不要である。映画作りの場で誰がイニシアティブを取るかという、権力闘争にも似た不愉快なことに、過去数多く出っくわした経験のある私は、三船、石原というヒーローの否定が、即、別のヒーローにつながる妙チクリンなものを感じ、砂をかむ思いで席を立った。

独立自尊でいこう!

外国の超大作にわずか二、三シーン出演の大スターのタイトルがしばしばトップを飾ってるのを見かける。私はそこにむしろ必死の製作者の姿を見る。映画は、その持っている素材の上に如何にプラスアルファを多く重ねることが出来るか。映画の厚みがそこに生れるのではないのか。一人でも多くの客に観てもらうためには、それだけの努力や忍耐が時には無駄とも思えるものすら必要に決っている。

どうせこれだけの映画を企画したからには、より壮大に作ってみたいと願う私の考え方は、この時だけではなく、独立系と言われているはずの、変な利権屋みたいなような人たちに出逢っては苦笑して引下ったものである。

誰が作ったっていいじやないか。そんなことよりまず創ること、皆が力を合せることが大切なんだ。多くの人が、各々の持ち場で力を出し切る映画作りをしなければ映画は駄目になる。

それには有能な人に数多く参加してもらうことだと信じていたのだが。ついにある時期から、私は学生時代(慶応義塾)耳タコの独立自尊をきめこむことにした。独りでやるんだ……と。

しかし、私は今でも残念でならない。これがもし三者で完成したのであれば、もっともっと拍手が多かったであろう。

某社により横ヤリが

これも平井氏が本誌でふれておられるが、いざ製作に入る段になって五社の中の某社が関電の協力に横ヤリを入れるという事態が持上った。「黒部の太陽」の企画から完成を通じてこれが一番こたえた。

邦画某社の首脳二人が、それぞれ関電の故太田垣社長、現芦原社長とある時期、同期という親しい間柄であった。その関係を通じて関電側に「黒部~」への協力は好ましくない結果を生むのではないかと忠告があった。四十一年十一月下旬のことである。

私は、そんなふうにも思った。それは映画人末端までの問題で、ロケの後始末から作品の社会的影響まで、現今までの映画製作の歴史は必ずしもかんばしいとは言えない。

要は社会的信用の問題で、その首脳二名が善意から友人にアドバイスする気になったというのは一般論として成立しがたい。信用という問題からすれば彼らとて重大な責任者の一人であるべきはずで、関電社長と逢うことではなく、私たちに警告と訓戒をたれるべきが本筋である。

私たちは、あくまで自己資金で「黒部の太陽」を作るつもりでいたが、関電の精神的協力なしで関連建設会社の協力も得られることはないことも知っていた。ついに挫折か、私の背筋に冷たいものが走り、怒りが沸騰した。

某社の親切な忠告によって関電内部は大きく揺れた。公共事業体が映画製作という一営利事業に、たとえ無形の出資であっても、それがマイナスとなってはね返ってきたら、企業理念の問題もさることながら担当者の責任問題にも発展しかねない。再検討せよ、ということになったらしいのである。

事と次第では法廷闘争

私は、その年の十二月、石原プロ取締役の身分を在籍からはずし、一プロデューサーに戻してもらった。怒りんぼの私の発言が即石原プロの発言ととられ、裕チャン、会社に迷惑をかけることを恐れたからである。実は、その頃、事と次第では法廷闘争も、と真剣かつ秘かに考えており、戦友であり、顧問でもある田中和弁護士と会見を重ねていたのである。

今となっては、いい年をして子供みたいに怒っていた自分が、いささか恥ずかしい。しかし、実際にことは重大であったのだ。

協力是非論の渦巻く関電内部の意見を統一したのは営業担当の岩永常務であった。

「三船、石原、中井たちのいうことが正しいとすれば、この映画は電気事業を大衆に正しく理解してもらういい機会ではないか」

そこには、人間信頼と経営者としての姿勢のみがあった。

結局、岩永常務の責任において、関電は「黒部の太陽」に協力することになったと聞いている。当時、私は岩永氏の話を伺い、独り天井を睨み、怒りかつ泣いたものである。

それにしても、岩永常務は、心労のため三キロも減った体重がいまだに元へもどらないと伺っている。申訳ないことだ。

熊井啓監督問題、これは解決までの期間があまりに長かった(約七十日)という意味で、私たち特に熊井君と私は四面楚歌の悲哀にやせ細った。詳細は長くなるので別の機会にゆずることにして、最後は、三船、石原、両氏の良識と勇気が解決したことを特筆したい。

熊井問題花やかなりし昨年五月中旬から六月下旬のある日「とにかく作るんだ」という決意のもと、着々準備はすすめられていた。

ある俳優からの断り

スタッフ編成、予質、撮影スケジュールと連行していた頃だったが、出演してくれると信じていた一俳優から、不可解な理由で断りが来た。しかもキッパリと。この知らせに驚いたのもつかの間、それから一時間ほどして日活村上撮影所長から「君誰々君に出演を断られただろう……」と電話で言われた時、結果的には考え過ぎだったかも知れないが、思わず「黒い霧め!」と、どなったものである。黒部に出演した俳優はよろしく覚悟をせよ……。ありそうなことである。

私が出演交渉した某氏は当時フリーであり、少くとも日活の息はかかっていなかった。さらに驚いたことに、二週間ほど後の新聞紙上にその某氏が自活以外のある社と専属契約を結んだと報じられているではないか。

ちょうどその頃、劇団民芸は滝沢修さん、宇野重吉さん以下、スケージュールの合う人は、すべて要請あれば「黒部」に出演することを決定され、日活に通達されたのである。捨てる神あれぽ拾う神あり。かつて田沼が製作を再会しようとした時、当時の五社(新東宝を含む)が日活をボイコットするために一種の企業カルテルともいうべき協定を結んだ。いわゆる五社協定という代物である。

「民芸はそのとき、敢然と自活に協力したでぱないか。ボイコットされた日清が黒部をボイコットするなどナンセンスである。配給の如何を問わず、民芸は三船、石原プロに協力することに決定した。当然のことである……。」感激に身が震えた。

本当に多くの人々に助けられた。そして昨年七月二十八日、「黒部の太陽」が撮影開始して五日目のことである。事態は急転直下解決した。

怪物に育った黒部

なにが黒部を解決させたか。表面上推測される理由はた偲くさんある。しかし本当の理由はこうではないだろうか。

資金的、技術的に、また、この業界でいままでの常識の上で、この種の映画は作られないものとされていたのだ。しかし、五社の外にいる僅かの人たちの発想と決意から転がり出した黒部という小さなかたまりが多くの人の善意と犬に、長い閲転がりつづけ、それに世論というおまけまでついて、予期しなかった怪物に育ってしまったことを五社の首脳、とくに日活の堀久作社長が悟られたのでぱないだろうか。興収三十六億円とまでいってのけた堀社長の、この映画への評価から私はそう推測している。

狐につままれたようではあったが、真そこうれしかった。堀さんには感謝している。

製作現場で育った私と熊井君のキャリアが幸いして、現場で発生した突発舞故の多くは私たちが主体となって、大禍なく解決してきたが。

「今だから話そう」と言えば、私の個人プレーで恐縮だが、私個人としても二度とないであろう貴重な経験を撮影現場でしたのである。あれがなかったら映画の価値も半減という酷評まであったトンネル内の洪水シーンがそれである。

トンネルセットのディテールは省略させていただくが、あのバカでかい鉄のセットに、さらに、この瞬間をフィルムに収めるだけのために、四二〇トンの水の入る鉄製タンクを新造、いよいよ九月二十九日の本番を迎えた。

この日、予定通りにすんでいれば洪水シーンは別の形でフィルムに収まったであろうが、ちょっとした計算ちがいで本番は翌三十日に持越された。その二十四時間のギャップが別の事態を生もうとは。周到だったはずの全員が、それに気がつかなかったのである。

洪水シーンの大椿事

タンクの蛇口(と言っても一坪半という大きなもの)が開かれ、その瞬間噴出する水量と圧力で吹っ飛ぶはずのトンネルの切羽の一部が、予定秒数(三~四秒)を経ても吹っ飛ばない。おかしいなと思った時(九秒経過)突如大音響と共に例の大洪水という始末となった。

誤算は最初の一撃で吹っとぶはずの部分のコンクリートが、二十四時間の撮影延期でカチカチに固まったため、予定通り壊れてくれず、切羽の一部でなく、全部が四二〇トンの水圧で吹っ飛び、膨大な量の水が徐々にでなく、一度に突進してきたというわけである。

その本番五分前の頃、最前列に陣取っていた私が、ふと横を見ると、熊谷組幹部の保安帽(工事用鉄かぶと)をかぶった当時サンスポ文化部に在籍されていた池田記者が目にとまった。

「池チャン、帽子取替えてよ……。万一、事故にでもなりそうになったら飛び込む都口があるから……。」

事故なんか考えてもいなかったからこそ、まことに気楽に帽子をチェンジしたその直後、ドカーンときたわけである。

アッと思った時は私の体は意志と関係なく濁流に向って突進していた。たまったものではない。巨木にブッ飛ばされた私は、一瞬失心していたらしい。

「中井さーん」の連呼に応えて闇の中で身体を持上げた後、「三船さん、裕チャン」の声をきいた。

全身打撲。十六名の重傷者の中で、裕チャンに次ぐ重傷であった。だが打撲という奴は有難いことに表から見ても他人さまにはわからない。気も張っていたのだろうが、ビッコひきひき翌日は結構動き廻っていたものだ。実は画面にも写ってしまっているのだが瞬間のことで、大方の人は気がつかずNGをまぬがれた次第である。とんだ武勇伝どころか、飛んで火に入る、ではない、水に入るあわてもの、命を張ったアワテ者の記録になってしまった。それだけに生涯忘れられない出来ごとである。

今は感傷を棄てたい

「黒部の太陽」はこうしたことを克服して、とにかく出来た。そして大衆の支持を得た。私は、この映画が日本映画史に残る芸術作品とは思わない。しかし、つねに困難に立ち向いながら、その都度、こんチクショウ!と叫び、進んできた私たち独立プロの熱気が観客に伝わり、空前の動員という映画史上かつてない成果をあげ得たと確信している。力作と言っていただけるだけで私は本当に満足である。

そして最後に今頃われ勝てりなど言ってはいられないと真剣に考える。昔の日本の映画人のように、欧米の大プロデューサーのように、スタンリー・クレイマーのように、職業的、経済的生命を賭して、社会の矛盾、不平等、戦争暴力、権力に対する怒りをたたきつけるような映画作りを、何年後でも、たとえ何十年後でも一度やってみたい。その時のためにより強い力を貯えるべく作品を積み重ねていくことこそ「黒部の太陽」を支持して下さった多くの皆様にお応えする私の道と考える。そのためにも一日も早く「黒部」の感傷を捨てることだと自分にいいきかせている。

三船 敏郎(ミフネ トシロウ)
日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。1951年にヴェネツィア映画祭で最高の賞、金獅子賞を受賞した黒澤明監督「羅生門」に主演していたことから世界中より注目を浴び、1961年には主演した黒澤明監督「用心棒」、1965年にも主演した黒澤明監督「赤ひげ」にて、ヴェネツィア国際映画祭の最優秀男優賞。その他にも世界各国で様々な賞を受賞し、アラン・ドロン、スティーブン・スピルバーグなど世界中の映画人たちへ多大な影響を与えた、日本を代表する国際的スター。1920年4月1日 - 1997年12月24日没。

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