「出獄」のストーリー

1944年10月10日のシカゴ・タイムズの3行広告に、懸賞金5000ドルの広告が出る。それは、1932年12月9日に起きたバンディ巡査殺害事件の真犯人の情報を募るものだった。シカゴ・タイムズの記者マクニールは、上司のケリーの指示で、連絡先のノースサイド777番に電話する。指定された場所を訪ねてみると、広告主は掃除婦のティリ・ウィチェク、巡査殺しの犯人として終身刑を言い渡されたフランクの母親だった。5千ドルといえば、なかなかの額である。金の出所を問うと、息子の無実を信じて11年間、1日も休まず掃除婦の仕事をして貯めたのだという。マクニールは献身的な母の愛を記事にする。イリノイ州ステートヴィル刑務所でフランクにも面会。母と息子の絆の記事を書くと、たちまち評判になり、連載まで決まる。だが、フランクの妻ヘレンに会うと、彼女は夫と離婚して子連れで再婚していた。フランクの共犯とされた男トメク・ザレスカにも面会するが、「無実は証明できない」と、この線からは有力な情報が得られない。マクニールはフランクにキーラー博士の「嘘発見器」の試験を受けるように説得する。しかし、その結果が合格であったとしても、まったく客観的な証拠にはならない。フランクの有罪宣告を決定づけたのは、密造酒を売っていた店の女主人ワンダ・スクトニックの証言のみ。他の二人は別の証言をしていた。しかも、フランクの逮捕と調書作成の間には1日のタイムラグがあり、ワンダが偽証した可能性が出てくる。一方、マクニールの連載が人気を呼ぶにつれ、新聞社に横やりが入る。社主パーマーに呼び出されたマクニールとケリーは、州検事や政治家を前にフランクの冤罪を強く訴え、「恩赦委員会」の開催が決定する。そこでフランクの容疑が晴れれば、彼は釈放となるが、晴れなければ、30年後の仮釈放に影響が出る、一種の「賭け」だ。フランクの無実を立証できるのはワンダだけだ。マクニールはポーランド移民が多く住むホノレ通りの酒場を何日も歩き回り、ようやくワンダのアパートを突き止める。