解説
映画史上、最高最大の喜劇役者チャールズ・チャップリンの足跡を、その作品を折りまぜて編集したもので、1人の芸術家と、その社会的背景の歴史を描いたものである。脚本・監督はバーノン・P・ベッカー、音楽はアルバート・ヘイグが担当した。出演はチャップリンのほかに、ロスコー・アーバックル、シドニー・チャップリン、チェスター・コンクリン、マリー・ドレッスラーらのなつかしいフィルム。ナレーションはダグラス・フェアバンクス・ジュニア。日本語版の説明は牧野周一が担当した。製作は脚本・監督のバーノン・P・ベッカーとメル・メイ。なお製作顧問に往年のコメディアンでチャップリン映画のスタッフでもあったエドワード・A・サザーランド、イギリスの映画評論家ウィリアム・K・エバーソンほか2人。なお、この映画で出てくるチャップリン作品は次の通り。「チャップリンの寄席見物」「成功争い」「ベニスの子供自動車競争」「雨のおかげ」「メイベル自動車の巻」「キャバレーご難の巻」「チャップリンとパン屋」「メイベルの結婚生活」「仮装舞踏会」「雨夫婦」「醜女の深情」「有史以前の過去」「チャップリンの役者」「チャップリンの駈落ち」「チャップリンの悔恨」「アルコール先生夜通し転宅」「チャップリンの放浪者」「三つどもえ事件」「チャップリンのスケート」「チャップリンの移民」「チャップリンの勇敢」「ザ・ボンド」。
映画館で観る
配信で観る
Blu-ray&DVDで観る
TVで観る
ユーザーレビュー
「喜劇王チャップリン」のストーリー
1889年4月16日、ロンドンで、名もない芸人夫婦に2番目の男の子が生まれた。名づけてチャールズ・チャップリン。父親は間もなく死に、一家を支えた母親も、やがて体をこわして死んでいった。チャールズと兄のシドニーは、スラム街の片隅で、母から習った踊りや、新聞売り、その外の雑用で貧しいが元気に暮らしていた。11歳のときから、チャールズはロンドンの舞台に立った。そしてコメディアンになろうと決心し、兄が所属していたフレッド・カーノ一座に加わった。仲間の1人にアーサー・ジェファーソンという男がいたが、これが後のスタン・ローレルである。1910年、一座はアメリカに巡業し、チャールズの「チャップリンの寄席見物」というパントマイムは大ヒットを記録した。そしてキーストン撮影所のマック・セネットにスカウトされ、1913年12月、今までの2倍のギャラで契約をした。映画デビューはヘンリー・レアマン監督の「成功争い」だ。批評家には好評だったが、撮影所内では、あまりかんばしくなかった。やがてチャップリンは役作りに苦心さんたんの末、後に彼のシンボルとなった放浪者となって登場した。観客は彼を歓迎したが撮影所内では不評。以後不本意な作品が続いた。こんなチャップリンをなだめるため、セネットは彼の脚本・監督・主演映画を指示した。第1回は「キャバレーご難の巻」。この作品以後の彼は一作ごとに人気を高め、彼の名を不動にしたのは「醜女の深情」である。これはセネットが作った世界で最初の長篇コメディである。1914年に始まった第1次大戦は、さらにチャップリン喜劇の名声を高めた。そしてエサニー会社に移った彼は25歳で名実ともに、世界最大のコメディアンになったのである。映画ばかりでなく、彼の歌も次々と売り出されていった。所属会社はミューティアル会社、ファースト・ナショナルと転じ宝石のような2巻物喜劇を作っていった。この中には、有名な「三つどもえ事件」がある。1917年にはダグラス・フェアバンクスと一緒に芸能部隊に参加したり、当時のアメリカの恋人メアリー・ピックフォードらと自由国債の売出しに一役買ったり、「ザ・ボンド」という映画を自主製作したりした。そして、映画産業独占の意図に抗し、自分たちの独立を確保するため、フェアバンクス、ピックフォード、D・W・グリフィス、ウィリアム・S・ハートらとユナイテッド・アーチスツ会社を設立した。彼は32歳で初めて故郷のイギリスに錦を飾った。スラム街から生まれた偉大なる天才チャールズ・チャップリン。彼の作品は、その光を失うことなく、永達の生命を持ち続けるだろう。
「喜劇王チャップリン」のスタッフ・キャスト
スタッフ |
---|
キャスト | 役名 |
---|
「喜劇王チャップリン」のスペック
基本情報 | |
---|---|
ジャンル | コメディ |
製作国 | アメリカ |
製作年 | 1968 |
公開年月日 | 1970年8月11日 |
製作会社 | M・G・M |
配給 | MGM |
レイティング | |
カラー/サイズ | モノクロ |
関連するキネマ旬報の記事
関連記事一覧 | |
---|---|
1968年12月上旬号 | 外国映画紹介 喜劇王チャップリン |