島耕二 シマコウジ

  • 出身地:長崎市本紺屋町
  • 生年月日:1901/02/16
  • 没年月日:1986/09/10

略歴 / Brief history

【二枚目俳優から映画監督に転身した映画監督】長崎県長崎市に生まれる。本名は鹿児島武彦。代々医師の家系だが、勉学を嫌い、1923年、日本映画俳優学校一期生となる。25年卒業し、京都の日活大将軍撮影所に入社。本来、監督志望だったが、二枚目ぶりを買われ、内田吐夢監督の「競争三日間」(27)、溝口健二監督の「唐人お吉」(30)などに出演する。32年労働争議で、田坂具隆、伊藤大輔らと共に日活を脱退し、新映画社の創立に参加する。32年P.C.Lに移って、トーキー大作「昭和新撰組」を完成するが解散。新興キネマを経て、34年日活多摩川撮影所に移り、「真実一路」「裸の町」(37)に出演、小杉勇と並んで戦前日活多摩川の黄金期を代表するスターの地位を確立した。しかしこの頃から二枚目俳優としての限界を感じ、後輩の千葉泰樹の下で一年間、監督修業を積み、39年「雲雀」で念願の監督デビューを果たす。40年、石川達三原作の「転落の詩集」では骨太な演出、尾崎一雄の芥川賞受賞作の映画化「暢気眼鏡」では笑いとペーソスを織り交ぜたキメ細やかな描写力が高く評価された。とくに「風の又三郎」(40)は宮沢賢治の童話をもとに、詩情あふれるメルヘンの世界を造型し、41年の「次郎物語」では風物詩的な抒情性をたたえた演出が絶賛された。【戦後はプログラム・ピクチャーを量産】42年大映に移り、応召。戦後は大映に戻り、47年、少年を主人公にしたメルヘンチックな大作「緑の小筐」を撮るが、不評で、以後、通俗的なプログラム・ピクチャーを撮り続ける。49年新東宝に移って、太宰治の遺作を映画化した都会派風俗喜劇「グッドバイ」、灰田勝彦、高峰秀子主演の「銀座カンカン娘」などを監督するが、51年大映に戻り、新人の若尾文子が一躍、注目された「十代の性典」(53)を監督した。永田雅一社長の持ち馬であるトキノミノルをモデルにした「幻の馬」(55)、岡本太郎がデザインした宇宙人が話題となった日本初の本格カラー特撮映画「宇宙人東京に現わる」(56)も異色作。「滝の白糸」「残菊物語」(56)と溝口健二の戦前の名作のリメイクや、谷崎潤一郎原作の「細雪」(59)など文芸映画もソツなくこなしている。「総会屋錦城」(59)では、シリアスな素材にも手堅い演出の手腕を見せた。ウィーン少年合唱団と不治の病に冒された盲目の天才バイオリニストの少年との交流を描いた「いつか来た道」(59)は第一回モスクワ映画祭審査員賞を受賞している。仁木悦子の江戸川乱歩賞受賞作の映画化「猫は知っていた」(58)、日本製ミュージカル映画の可能性に挑んだ「アスファルト・ガール」(64)など、晩年は多彩なジャンルに職人的な技量を見せた。戦後、女優の轟夕起子と結婚したが、67年に先立たれた。「真実一路」でデビューした片山明彦は長男である。

島耕二の関連作品 / Related Work

作品情報を見る

  • 怪談おとし穴

    制作年: 1968
    「喜劇 初詣列車」の舟橋和郎がシナリオを執筆し、「ラーメン大使」の島耕二が監督した怪談もの。撮影は「毒薬の匂う女」の小原譲治。
  • ラーメン大使

    制作年: 1967
    「日本一のマジメ人間」の花登筐の原作を、自身と、「兵隊やくざ大脱走」の舟橋和郎が共同で脚色し、「処女受胎」の島耕二が監督したコメディ。撮影は「わが愛を星に祈りて」の渡辺徹。
  • わが愛を星に祈りて

    制作年: 1966
    佐伯浩子の原作を「青いくちづけ」の池田一朗が脚色、「六人の女を殺した男」の島耕二が監督した青春もの。撮影は「復讐の切り札」の渡辺徹。
  • 複雑な彼

    制作年: 1966
    三島由紀夫の原作から「ザ・ガードマン 東京忍者部隊」の長谷川公之が脚色、「わが愛を星に祈りて」の島耕二が監督したメロドラマ。撮影は上原明でこれが第一作目。
  • 処女受胎

    制作年: 1966
    黒岩重吾の同名小説を、「若親分あばれ飛車」の高岩肇が脚色し、「複雑な彼」の島耕二が監督した風俗もの。撮影は「愛の手紙は幾歳月」の小原譲治。
  • 女めくら物語

    制作年: 1965
    舟橋聖一の原作『女めくら双紙』を「妖僧」の相良準三が脚色し「無茶な奴」の島耕二が監督した文芸もの。撮影は「黒の挑戦者」の渡辺公夫。

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