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  • 必要なのは、表現に関わる側の自衛と、享受する側の「表現の自由」を支える自覚  2019年10〜11月に川崎市で開かれた『KAWASAKI しんゆり映画祭』が、ドキュメ ンタリー映画「主戦場」上映をめぐって迷走した。一連の経緯 は、『あいちトリエンナーレ』「宮本から君へ」の問題と時期が重 なったこともあり、表現の自由の危機として注目された。  1995年に始まったしんゆり映画祭は、NPO法人KAWASAKIアーツが主催、共催の川崎市が運営費のうち600万円を負担している。市民中心、行政が支えるという体制で、小ぶりながら着実な人気を得てきた 。「主戦場」は 、 米国人のミキ・デザキ監督による慰安婦問 題をめぐる主張をまとめた作品だ。出演者の一部が「学術研究ということで取材を受けたが、 偏向した商業映画だった」などとして監督と配給会社の東風に上映中止などを求めて提訴している。 映画「主戦場」は2019年、様々な舞台で議論になった   映画祭は8月、「主戦場」上映を決めたが、その直後、川崎市から「上映することで映画祭や市が訴えられる可能性がある作品を上映するのはどうか」との”懸念”を伝えられる。これを受けて9月、東風に上映見送りを通知した。 10月下旬、映画祭開幕直前に上映中止が新聞で報じられると、批判が集中。「止められるか、俺たちを」などを出品予定だった若松プロが抗議のため出品取り消しを表明する。同30日には映画祭事務局やデザキ監督、市民らが集まった討論会が開かれ、「主戦場」上映を求める声が相次いだ。映画祭側は11月2日、一転して上映中止を撤回、映画祭最終日の同4日に混乱なく上映された。 映画祭の盛り上がりに水を差した騒動だったが、この間に市民を巻き込んで交わされた議論は無駄にできなかった。「止められるか、俺たちを」の白石和彌監督らは、川崎市の懸念表明は「公権力による『検閲』『介入』で、映画祭側の判断も「過剰な忖度」により『表現の自由』を殺す行為」と批判し、多くの映画人が疑問を呈した。映画祭事務局も映画祭終了後、上映取りやめの判断は「『あらゆる表現の場』の萎縮に繋がる重大な過ち」と認め、運営医院全員と中山周治代表らの引責辞任を発表した。映画祭は映画表現の重要な場で、たとえスポンサーであっても外部の介入は排除すべきだとの原則を改めて確認することになった。 一方で、映画祭が独立を保つためには、相応の覚悟と準備が必要であることも示した。しんゆり映画祭はボランティアが主体だ。『あいトリ』の『表現の自由展・その後』が、脅迫めいた講義で中止に追い込まれたのを目のあたりにし、市から懸念を表明されて及び腰になったのは無理からぬ面もある。全国の小さな映画祭が、慎重を期するあまり、ますます事なかれ主義になったら残念だ。 社会の情報化が進み表現の可能性が広がり、発表の場も増えた。半面、さまざまなレベルの批判や、暴力を含む介入を受ける懸念も大きくなった。理不尽な圧力は許されない。しかし同時に、表現に関わる側には自衛も必要で、享受する側も表現の自由を支える自覚が求められているのではないか。   文・勝田友巳 「キネマ旬報」3月下旬特別号 - 2019年映画業界総決算 ワイド特集 映画界事件簿 その他の事件簿はこちらから
  • 大きな遺産の輝きと、苦笑いの楽しさと、「生きているんだな」と。   第93 回を迎えたキネマ旬報ベスト・テン。今回、殊に感じたのは、①ベテラン作家同士の、端々に見える絶妙な丁々発止、②若き受賞俳優からこぼれる瑞々しさ(今回は20代が4人・30代が2人) 、③異才が遺した輝きを再確認させてくれたこと。受賞者の方々の、素顔が垣間見える言葉を中心に、お伝えします。   「1位でいいんでしょうか」 14 年連続で司会をした笠井信輔アナが闘病中のため、「映画パーソナリティーの襟川クロがピンチヒッター、 正式には司会代行として務めさせていただきます」、20 年前に 5 年連続で司会した “ 大先輩 ” が登板した。 キネマ旬報社代表取締役社長・星野 晃志の挨拶に続き、映画感想文コンクール2019全国大会グランプリの表彰、ビデオ屋さん大賞2019大賞「ボヘミアン・ ラプソディ」の表彰が行われる。 キネマ旬報社代表取締役社長・星野 晃志 映画感想文コンク ール2019全国大会グランプリの表彰 右から、丹保佳乃さん、平田菜々花さん、雫石華凛さん、渡邊このみさん ビデオ屋さん大賞2019大賞「ボヘミアン・ ラプソディ」 20世紀フォックス ホーム エンターテイメントジャパン株式会社 マーケティング本部 本部長 井上倫明   そしていよいよベスト・テン受賞者の入場。一人一人、舞台に登場するたびに盛大な拍手が鳴り響いた。   まずは日本映画作品賞「火口のふたり」。 監督の荒井晴彦に、本誌編集長の三浦理高から賞状とトロフィーが渡される。 日本映画作品賞 監督の荒井晴彦 「赫い髪の女」が 41 年前に 4 位となったのを皮切りに、自身が脚本を手掛けた作品が幾度もベスト・テン入りし たことを振り返ったのち、「もう僕の作風では1位は無理なんじゃないかとあきらめてました。それが、自分が撮った映画でまさかという。70 歳を過ぎた脚本家が3 本目に撮った映画、 低予算で R18 の裸の映画が1位でいいんでしょうか」。笑いと拍手が響く。 「映画はいいのに演出も脚本もよくないと思ったのか、監督賞も脚本賞ももらえませんでした。演出は白石和彌、 脚本は阪本順治に教わって、またこの場に戻ってきたいと思います」と荒井 監督。壇上で着席している白石和彌、 阪本順治の、なんともいえない笑顔(?)が楽しい。   続いて、外国映画作品賞「ジョーカー」、外国映画監督賞、読者選出外国映画監督賞のトッド・フィリップスに授与、ワーナーブラザースジャパンの土合朋宏が受け取った。   続いては文化映画作品賞「i−新聞 記者ドキュメント−」、森達也が受け取る。「今、何かキャッチされてます?」という襟川の問いに、「いっぱいあります。でも言ったら撮れなくなってしまうんで、ここでは言えません」。次作への期待が膨らむ。客席には同作で森監督が追った東京新聞・望月衣塑子記者が笑顔で受賞を祝った。 文化映画作品賞 監督の森達也 次は特別賞。和田誠さんに贈られる。 受け取るのは和田さんの妻・平野レミ(仕事の都合で、先行授与となった)。 「夫はただただ映画が大好きで、私は映画はライバルだったんです。たぶん 天国から『レミがこんなところにいる、 何だよ』ってびっくりしてると思うん ですけど、よかったわね、お父さん、 いただきましたよ」 襟川の「和田さんは、原稿や絵をレミさんに見せられてたんですか」という問いに、「一切、何にも言わないの。 うちへ帰ってくれば猫をかわいがって子供をかわいがって。優しいんです。 あんまり優しい人と結婚しちゃったか ら、あとがつらいですよね。今私悲しくて悲しくて本当につらいんですよ。 泣いちゃうからもうやめますね」  特別賞 和田誠/代行:平野レミ そのときもだけど、舞台に登場した 瞬間のひときわ大きな拍手に、和田誠さんをみんながどれだけ好きかを感じて、瞳が涙で光ったように見えた。   「“ 日本映画はだめだ ” という... ... 」   続いて、日本映画監督賞は「ひとよ」「凪待ち」「麻雀放浪記 2020」により白石和彌。 「キネマ旬報の賞は縁遠いなとずっと思ってたんですが、いただけて嬉しいです。アカデミー賞で見事にポン・ジ ュノ監督が受賞し、歴史の変わる瞬間だと思ったんですけど、同時にやっぱりすごく悔しさも覚えた。『日本映画は韓国映画に比べて全然だめだ』みたいなことがツイッターに書かれていたので、ちょっと責任を感じつつですが、 やれることをやって、必ずやいつか満足のいく映画を届けられるように、今後も頑張っていきます」 日本映画監督賞 白石和彌 そしてもう一言、「ちなみに去年『止められるか、俺たちを』で、荒井さんが編集長の『映画芸術』でワーストワン。今年は『麻雀放浪記 2020』でワースト3位だったので、演出でお教えすることは特にありません(笑)」。 日本映画脚本賞、読者選出日本映画監督賞のダブル受賞は、「半世界」により阪本順治。 「こんにちは(......とマイクスタンド の高さを直してたらマイクがスルリッ、空中ではっしと摑み取った。すさまじい反射神経!)。オリジナルで脚本を書くときは、主演を想定してるか、主演を決めた後ということで、今回は稲垣吾郎くんを頭において書きました」 日本映画脚本賞、読者選出日本映画監督賞のダブル受賞  阪本順治 襟川の「稲垣さんの、今までにない顔が見えた映画でしたね」という言葉 に、しばし考えた後、「かっこいい言い方ですけど、映画監督の仕事って、 俳優の顔を撮ることかなって」と答えた後、「偉そうだったですか? どうも 後ろ(背後)が気になっちゃって(笑)」。 またも荒井の笑う顔がおかしい。   「 “ 宮 本 ” の バトン を 」   続いて俳優陣の表彰。 主演女優賞は 「火口のふたり」により瀧内公美。 主演女優賞 瀧内公美   「ほとんど二人しか出ていない映画で、 相手役をしてくださった柄本佑さんが いたから、私は今日があるんだなと思っています。以前お世話になった白石監督に『瀧内にこの場で会えるなんて思ってなかったよ』って言われたんで すけど、私が一番思ってなかった(笑)。こういう場所に連れてきてくれたのは荒井さん。感謝しています」 襟川「美しく、何も着ていない二人がくんずほぐれつのシーンは、やはり監督からのご指導で?」 「火口のふたり」荒井晴彦監督と瀧内公美   荒井「ベッドの上の場面になると僕が出ていって、手取り足取りやってました。『足をもっとそらせろ』とか。あとはもう放し飼いです」 瀧内「そう......ですね。『しならせるんだ! しなるんだ!』って(笑)」 「火口のふたり」の上映は表彰式の後。 二人の言葉に、観る人はさらに堪能したのではないだろうか。   主演男優賞は「宮本から君へ」により池松壮亮。 謝辞の後、つい最近あっ たスタッフとのやりとり(問題視すべきことなのに協力して取り組んだけれど限界があって......というエピソード)を話し、「思えばこの作品は、ドラマから映画までそんなことばっかりだったな、と。正しくないこと、いつの間にかシステム化してしまったこと、お金のなさ・時間のなさを理由にしてしまう、事なかれ主義、問題を先送りに......。自分たちの悪い癖を食い止めようと待ったをかけて、誰かが怒ってはみんなでその壁を乗り越えて。現場にたくさんの “宮本” がいて、そのバトンをつないでもらった先にこの場があると思うと、僕だけの力では到底及ばない場所だったと思います」 主演男優賞 池松壮亮   助演女優賞は「半世界」により池脇千鶴。 助演女優賞  池脇千鶴 「基本、男三人の映画なので、私のやった役は、ともすればただのお母ちゃん、添え物になりかねない役。けれども阪本監督が一人の女として、妻として、母として、きちんと一人の人間を 描いてくださった。私の出番はさほど多くないけれど、こういうふうに評価してくださって、映画の神様は見てくださってるのかなと。新人賞をいただいたのはもう 20 年前(99 年度)、次 は 20 年もあかずにまた賞をいただけたら励みになるかなと思います」 阪本が促されて池脇と並び、「トロフィー重いから持ってあげたら」という襟川の呼び掛けに、5 キロ弱のトロフィー2つ、必死に抱えて笑いを呼ぶ。 さらに襟川の「阪本監督は女性の演出が本当に得意ですよね」の言葉には、「荒井さんの前でそんなこと言えるわけないじゃないですか(笑)」。 「半世界」の阪本順治監督と、池脇千鶴   「いま自分は生きてるんだな、と」 助演男優賞は「愛がなんだ」「さよならくちびる」ほかにより成田凌。 「役者を始めてまだ5年ぐらいですけど、こんな未熟な僕を選んでくださり、 ありがとうございます。そんな僕がいただいていいのかなと思って、さっき楽屋でキネマ旬報を見て、何人の人が選んでくれてるのかなと思ったら...... ダントツでした(笑)。すごい、1位 だ、嬉しいなと。それで、主演男優賞を見ると2位。ただすごく差があって、 悔しいなと。やっぱ足りないなと思っ たんですけど、でもいつかは」 助演男優賞 成田凌   新人女優賞は「町田くんの世界」に より関水渚。 新人女優賞 関水渚 「私にとって初めて出演した映画で、右も左もわからなかった私に、石井裕也監督は何度もご指導くださいました。 そのぶん私もとても悩み苦しみ、人生の中で一番、いま自分は生きてるんだな、と実感した1カ月でした」 襟川の「得意な技は? 運動神経とか」の質問には、「運動ができなくて ......ハンドボール投げの試験で 10 メ ートルも飛ばなかったので(笑)、逆にそれが特技かなと思っています」。   新人男優賞は「蜜蜂と遠雷」「決算!忠臣蔵」により鈴鹿央士。 新人男優賞 鈴鹿央士 「もうすぐ芸能界に入って3年目になるんですけど、石川監督や中村監督に教えてもらいながら、ちょっとずつ成長していけてたかなと思っています。 まだまだだなってすごく思ってるので、 ここ(壇上)にいらっしゃる方々ともし現場でお会いする日があったら、お世話になりたいです」 緊張もあってか、だんだん小さくささやくような声になるのも初々しい。 そして鈴鹿を気遣って、受賞を待つ間も明るく声を掛けていた三沢和子に、 本日の締めくくり、読者賞の授与。 読者賞 三沢和子 連載『2018 年の森田芳光』により、ライムスター宇多丸と共に受賞。 「自分のように畑違いの人間が、よりにもよって映画評論の総本山であるキネマ旬報で賞をいただける日が来るとは。まさしく世も末、身に余る光栄」と、仕事で欠席した宇多丸の謝辞を伝える。 「宇多丸さんはものすごい知識と感性、 私もそのノリで、思い出すことは何で もしゃべってしまって。たぶん森田が『いい加減にしろ』って言ってるなと 思いながら、いろいろ話してしまいました。さっき平野レミさんに『毎日寂しくてしょうがないけど、あなたは?』 って訊かれて、『8 年経っても毎日寂しくてしょうがないですよ』。っていうのがプライベート。だから映画は、 こんなに時間が経ってるのに彼の作品や名前がこうやって出していただける。 幸せだなと思います」 そして「あの世代で映画を作っていた荒井さんや阪本さんが今日受賞されてるのも縁だと思うので、これからも 元気なお二人には、どんどんいい作品を作っていただきたい」という言葉に、 この場だから生まれた感慨を、会場全体がズシリと覚えた気がした。 盛大な拍手で、式は終了。来年も、 「いま自分は生きてるんだな、って実感した時間」をちょっとでも感じて、 この日が迎えられますように。無論、 良き映画をも手掛かりに。 受賞者記念写真 (「特別賞受賞」和田誠の代行平野レミは仕事の都合で本撮影には不参加)   第93回キネマ旬報ベスト・テン  第1位映画鑑賞会と表彰式レポート 2020年2月11日(火・祝)東京・文京シビックホール 取材・文=高橋千秋  撮影=椿孝
  • 一言「マニエリスム」と言ってしまえばよい。本作に寄せられた海外レヴューにある「逸脱」「横道にそれがち」「非線形さ」といった表現は、脱-中心化と脱-焦点化の〈原-身ぶり〉をもつマニエリスム芸術の特徴である。あるいは本作がタルコフスキー「ノスタルジア」(83年)、ヴェンダース「パリ、テキサス」(84年)、ホウ・シャオシェン「憂鬱な楽園」(96年)、アピチャッポン「世紀の光」(16年)など、数限りない映画の「引用の織物」(宮川淳)である点もマニエリスム的内省作用をなす。本作に幾度も現れるミラーボールは、かつて主人公チェンがダンスフロアで出会った亡き妻へのノスタルジアであると同時に、時間と引用が乱反射する複雑な鏡面(いわばビー・ガン的世界模型)ともなっている。またこのミラーボールは、彼の映画に欠かせないビリヤード台の「玉」と二重写しになり、運命の遊戯的不確定性を象徴する「球体幻想」さえなす。直線的時間は解体され、反射と引用の光学が織りなす「鏡のマニエリスム」(川崎寿彦)の時間-迷宮に観る者はいざなわれる。 映画「凱里ブルース」 この時間-迷宮は、鎮遠に向かう旅の途上の、「記憶都市」ダンマイにおける比類なき40分間にわたるワンショット・シークエンスで更に屈折し、その完成をみる。過去・現在・未来が十重二十重と交錯し、チェンの亡き妻(?)さえ暮らすこの場所はユートピア的な別時間の原理に支えられているが、切断なきシークエンスそれ自体が映像のユートピアなのである。あるいは中国という土地柄を踏まえるなら、異端中国文学者・中野美代子が好んで取り上げた「仙界」の一種とも言える。俗界から仙界への移行は、チェンと甥のウェイウェイの二人乗りバイクを追いかけるカメラが「わき道にそれた」瞬間に、その不穏な音響も相まって明確に始まるようだ。仙界で過ごしたのち俗界に戻ってみると夥しい年月が経ていた、という洋の東西を越えて見られる「浦島説話」をチェンが免れたのは、青年に変貌したウェイウェイ(かつて時計の絵を描くことが趣味だった少年)が時間を「巻き戻して」くれたおかげであることが、美しいラストシーンで明らかとされる。回帰するのは時間だけではない。凱里→ダンマイ→鎮遠→凱里という旅の円環構造を思えば、本作はチェン(あるいはビー・ガンその人の)の「内省と回帰」をめぐる〈内空間〉ロードムービーであると知れる(劉静華『円環構造の作品論』参照のこと)――これぞ「回帰ブルース」。 ビー・ガンの発明した「迷宮としての世界」(G・R・ホッケ)は、次作「ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ」で迷宮の番人たるミノタウロスを卓球少年の形象で出現させ、彼に導かれるかたちでルイス・キャロル的ノンセンシカルな世界に突き進み、さらなる達成を見る。この新時代マニエリスムの旗手が、世界を再-魔術化させる。   路辺野餐 / Kaili Blues 2015年・中国・1時間53分 監 脚 ビー・ガン 撮 ワン・ティアンシン 録 リアン・カイ 美 ズー・ユン 音 リン・チャン 出 チェン・ヨンゾン、ヅァオ・ダーチン、ルオ・フェイヤン、シエ・リーシュン、ゾン・シュアイ、チン・グァンチエン 配 リアリーライクフィルムズ+ドリームキッド ◎4月18日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次 ©Blackfin(Beijing)Culture & MediaCo.,Ltd - Heaven Pictures(Beijing) The Movies Co., - Ltd Edward DING - BI Gan / ReallyLikeFilms   後藤護 ごとう・まもる/1988年生まれ山形県出身。『金枝篇』(国書刊行会)の訳文校正を担当中。また「高山宏の恐るべき子供たち」をコンセプトに掲げる「超」批評誌『機関精神史』の編集主幹を務める。黒眼鏡を着用。著書に『ゴシック・カルチャー入門』(Pヴァイン)。   もっと「中国映画が、とんでもない!」を読みたい方はこちらから
  • 同時代、共有したいもの 都市の中、様々な上映会場へ足を向け、 軽やかに現代の映画を観て歩く詩人・映画監督、福間健二。 19年末の出会いのなかに2本の中国映画があった。そこから何が浮かび上がる? 映画「ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ」   去年の十月の、ポレポレ東中野での城定秀夫OV作品特集のことから。新作の『花咲く部屋、昼下がりの蕾』と『犯す女〜愚者の群れ〜』までの「エロVシネ」十本、どれも痛快だった。そうなったらつまらないというものを見事に逆転させる。撮影所時代の増村保造・鈴木清順・石井輝男などを追いかけた日々の興奮がよみがえった。城定秀夫の勝ちとっている「自由度」の活用は、姑息さがはびこる日本を笑う喜劇性をもつ。一点突破的に苦戦を切り抜けるのでもある。昔もいまも必要なのは、こういう工夫だと思った。 次に、この飛び方にわれながら驚くが、ペドロ・コスタの「ヴィタリナ」。ポルトガルのカーネーション革命へのこだわり方が開いて、広がりのある「叙事詩」が見えてきた。絵画的に立派になりすぎてないかと心配させるほどの画だが、そのよさが活きた。やはり東京フィルメックスで見たロウ・イエの「シャドウプレイ」も、ジェイク・ポロックの撮影による画が見ものだったろうか。いわば「現実のうずまき」を逃さない、影の作り方。さらに強引に言うとわが小林多喜二の文学のダイナミズムを思わせるものがあった。香港ノワールに負うところ、せつなさの絡ませ方ではジャ・ジャンクーの「帰れない二人」(18年)に及ばないが、ちゃんと娯楽活劇でもあることにしぶとさを感じた。 中国映画、近年の新人では、ジャンル映画を更新する力という観点から「薄氷の殺人」(14年)のディアオ・イーナンと「迫り来る嵐」(17年)のドン・ユエに拍手を送ったが、ズバリ映像の動きのおもしろさと内面的な詩が出会っているのは「凱里ブルース」のビー・ガンだ。新作「ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ」は、その売りである超絶長回しのところを3Dでやり、通過した先がロマンティック。60年代ポップスの良質部分のような蜜の味がした。詩が出てくるから詩的だというのではなく、映画がそのまま詩になる。その可能性のドアをペドロ・コスタとともに叩いている。それが個人的にはうれしい。 映画「シャドウプレイ」 日本映画で蜜といえば岩井俊二だろう、とつなぐことにするが、その新作「ラストレター」でとくに評価したいのは、「リップヴァンウィンクルの花嫁」(16年)につづいて、人の心の奥に宿る暗い要素を、社会の底辺へと沈まざるをえないものに呼応させていることだ。いま次々に作品を発表している今泉力哉とともに、人物にどう向かうかでまず共有したいものがある。創作の基本はロマン主義だと最近よく思う。当然、二十世紀からの夢の挫折と状況の複雑さをくぐったそれでなくてはならない。甘くないロマン主義。同時代から受けとる希望だ。   福間健二[詩人・映画監督] ふくま・けんじ/1949年生まれ、東京都出身。詩集に『会いたい人』ほか。共著に『石井輝男 映画魂』(ワイズ出版)ほか。監督作に「急にたどりついてしまう」(95年)「秋の理由」(16年)などがあり、新作「パラダイス・ロスト」が3月20日よりアップリンク吉祥寺で公開。   もっと「中国映画が、とんでもない!」を読みたい方はこちらから
  • 完全無欠の時を、わかりあえる夢を 東京にやってきたビー・ガン監督 ビー・ガンを取材した日は曇りだった。アテネ・フランセで「凱里ブルース」を初めて観た日も同じような天気で、スクリーンに映る空もまた灰色をしていた。クリス・フジワラ氏がその日の観客にむけて「It's a good film for such a bad day.」と話した。絶好のインタビュー日和だ。 グランドハイアット東京の部屋に入ってまもなく、煙草を吸い終えた監督がやって来る。来日してからホテルに缶詰になって、ずっと取材を受けていると聞いていたけれど、想像したよりも軽やかな表情をしていた。 取材が始まり、必ず初めに訊こうとしていた質問を投げかける。「監督が普段の生活の中で、美しいと感じる瞬間を教えていただけませんか?」すると返ってきたのは、こんな答えだった。 僕が「良いな」と思うのは、時間を気にせずにゆっくり眠れて、一旦起きたとしても「まだ眠れる」と思う時です。すごく怖い夢を見て飛び起きた時「夢でよかった」「ラッキーだった」と思います。 たまに見るのは、空中から墜落する夢です。ビタミンかカルシウムが足りないのだと思いますが(笑)。 そんな茶目っ気のある答えに思わず空気がほころんだが、同時に内心は「夢、きた!」と興奮していた。ビー・ガンが海外サイトのインタビューで「自分の映画は夢と記憶と時間についてのみ描いている」と語っているのを読んだことがあったからだ。だからとっさにその理由を訊ねてみる。すると返ってきたのは「夢、記憶、時間というのは、国境を問わず全人類の命題だと思います」という、至極シンプルな答えだった。では実際に彼は、どのようにしてそれらを映画に取り込んでいるのだろうか? 回り道をしながら考えていきたい。 まずは冒頭から話題に出た「夢」について。ビー・ガンが第一長篇「凱里ブルース」、第二長篇「ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ」でそれぞれ起用した、あの奇跡的な「長尺長回し」にも夢が深く結びついているのだという。 まず、私が長回しで引き受けようとしたのは「夢の質感」です。映画の尺が何分であろうと、作品が終われば観客はそれぞれの生活へと帰っていきます。彼らは実際に観た作品の残像や余韻しか持ち帰れないわけです。 しかし長回しを使えば、たとえフィクションだとしても、映画の中の主人公と自分が、同じ時間の量や尺を共にしたというリアリティが残ります。観客は抽象的なものを観ていると同時に、映画を撮っている人と同じ尺だけ時間を共有するということが実現できる。そういう理由で、長回しが有効だと感じました。 さらに「夢の質感」を強めるものとして、ビー・ガンは「ロングデイズ・ジャーニー」で3Dを起用した。身体のどこかで「現実的でない」と感じながらも物語に没入していく/画に訴えかけられる夢の感覚が、3Dメガネをかけて映画を観る時の身体的な違和感や、その映像効果と呼応するように感じたのだとか。そしてその手法を作品に取り入れるため、彼は仲間と映画史における3Dを研究し始めた。 「ロングデイズ・ジャーニー」の脚本を書いている時にジャン=リュック・ゴダールの「さらば、愛の言葉よ」(14年)を観て「なるほど、3Dというのは感覚を刺激する手法ではなく、映像言語として使うことができるんだ」と興味を持ち始めました。その後仲間たちと研究をして感じたのは、3Dはこれまで「斬新さ」を表現するため「感覚を刺激するもの」として映画に投入されてきたということです。3Dを「映像の美学にアプローチするもの」として使っている作品は少ないと感じました。そういった中で「ゼロ・グラビティ」(13年)や「ビリー・リンの永遠の一日」(16年)、ヴィム・ヴェンダースの「誰のせいでもない」(15年)など、先輩方の作品を参照したのです。 世界の映画界を席巻している監督だから当たり前なのだけど、なぜだか彼の口からゴダールやヴェンダースの話を聞くのは新鮮だった。「凱里ブルース」や「ロングデイズ・ジャーニー」で映された彼の故郷を観て、どこか遠くかけ離れた世界線での生活を想像していたからかもしれない。 ビー・ガンにとって重要な3つの要素のうち「記憶」の部分と明らかに深く結びついているのが、彼が今も生活を続ける凱里の土地だろう。めまぐるしい速度で進化・発展を遂げ、現在はごく一般的な、現代風の街になりつつあるという故郷について、彼はどのように考えているのだろう? 今起きている変化については、僕ではない誰かが表現してゆけば良いと考えています。僕はそこにかつてあったものや、記憶や脳裏に残像として残っているものに価値があると思い、映画の中に取り入れてきました。それが自分に出来ることだと思いますし、作品を通して、自分が生活していた凱里の姿がおぼろげに立ち上がってきたと感じます。また、今後も凱里を撮り続けると思います。今あるモダンな街は、自分の頭の中にある凱里とかけ離れているからです。 ビー・ガンが立ち上がらせようとする凱里の記憶には、その土地に住む人々も深く関係しているに違いない。出演者がほぼ監督の友人や親族で構成される「凱里ブルース」については勿論、中国で40億円以上の興行収入を記録し、有名俳優が主演する「ロングデイズ・ジャーニー」にも、ビー・ガンは親族をキャスティングした。そして彼らにもまた、変化は訪れる。 映画作りを介して徐々に、僕は身の回りの人々を深く理解するようになりました。平凡に見える人々にも波瀾万丈な物語があり、それぞれが人生を背負っていることを知りました。 同時に彼らの人生がゆるやかに変化していった例もあったようです。例えば「ロングデイズ・ジャーニー」に出演してくれた僕の異父兄弟は、勉強が全く出来ませんでした。しかし彼が「役者」ということで、地元で一番頭の良い高校に特別に入学させてもらったようなのです。僕は車で彼を学校まで送っているのですが、その道中、「ロングデイズ・ジャーニー」についての感想を訊ねると「本音を聞きたいか?」と言われました。「もちろん」と返すと「実のところ難解でよくわからない」と言われました。それを聞いた時、僕は少し落ち込みましたが、学校に到着する手前で将来の夢を訊ねると、彼は「将来は映画監督になりたい。だけど役者も引き続きやっていきたい」と答えました。僕はこれこそ最高の答えだと考えています。なぜなら、彼はすでに「わからないもの」を好きになってしまっているからです。 あの回転サーブの卓球少年が、いつか映画監督になることを願っている。こんなに愛くるしい知らせがあるだろうか。そして土地や人に変化をもたらす「時間」こそが、ビー・ガン映画の3つめのキーワードだ。 実際、この日のインタビューで最も印象的だった監督の発言が以下のようなものだった。 「凱里ブルース」 「凱里ブルース」では、時間をなるべく完全無欠の、甘美なる状態で表現したいと考えていました。過去や未来が同時に存在する時間そのものを、まるまる映像の中で表現したいということです。 過去でもあり、未来でもある「完全無欠の甘美なる時間」。その眩暈のしそうな言葉たちはいつしか、回り続ける時計や永遠を思わせた。このことは、彼がこれまで二作の長篇で「回転」にありったけの魔法をかけてきたことにも関係するのだろうか? 腹に力を入れて訊ねると、その答えにまたしても骨抜きにされてしまった。 (映画の中で回転を扱う)意図はとてもシンプルです。我々が生きているこの地球も、ゆるやかに回っていますよね。永遠なるものや美なるものをどうしたら表現できるかと考えた時、回転よりも優れた方法が思いつかないと感じたんです。「ロングデイズ・ジャーニー」のある重要な回転のシーンでは、遠い星が近づいてくるかのような、すごく微細な音を入れているのですが、それに気づく人はあまりいません。我々がこの星の回転について、普段気づかないのと同じように。   ビー・ガン主要短篇作品レビュー 「金剛経」 (12年、22分) 「The Poet and the Singer」の題でも知られる短篇。空を稲妻が突き抜けるような激しい雷の映像、その点滅で幕を開ける。冒頭と終幕のほかはモノクロで、映るのは男、煙、殺し。仰々しい劇伴や血とたやすく結びつきそうなそれらを、ビー・ガンは蝶々や川のたゆたい、詩で縫い合わせた。冒頭で電灯が点滅し「金剛般若経」が引用される「凱里ブルース」の完成に向けて立てられた、贅肉のない道しるべ。 「秘密金魚」 (16年、1分23秒) 「金馬奨」(中華圏を代表する台湾の映画賞)のため制作された広告映像。「ロングデイズ・ジャーニー」を「記憶や夢の中に墜落していく作品」と表し、空中から墜落する夢をよく観るというビー・ガンが、画面の垂直で遊びまくる(滝水、眠る人!)。撮影で野良猫がうまく撮れず、生態系を理解するために現在は4匹の猫と住み始めたという監督、この映像の鳥とはすぐに仲良くなれたのだろうか。使用曲はYang Yuyingの〈Gently Tell You〉   井戸沼紀美[『肌蹴る光線―あたらしい映画―』主催] いどぬま・きみ/1992年生まれ、都内在住。明治学院大学卒。『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』などの上映イベントを企画。『肌蹴る光線 —あたらしい映画—』で18年、逸早く「凱里ブルース」を上映。   もっと「中国映画が、とんでもない!」を読みたい方はこちらから