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『原一男のアメリカ凸凹疾走ツアー第3回 』ドキュメンタリーの聖地に立つ!
2019年12月16日2019年6月、北米4カ所にて、ドキュメンタリー監督・原一男の業績を称える大々的なレトロスペクティブが開催された。それに合わせ現地へと赴いた原監督(プロデューサーの小林佐智子、島野千尋が同行)。果たして、日本が誇るドキュメンタリーの“鬼才”はアメリカといかに出逢ったのか? 監督自らが綴る旅の記録、第3回!! 国境線を越えて ▲出発前のホテルでの1コマ。これからの”戦い”に備えて休息をとる。 次の目的地は、ロバート・フラハティ・セミナーが開催されるコルゲート大学だ。所在地はニューヨーク州の中央部にあるハミルトン郡なのだそうだ。 ニューヨークといえば、マンハッタンしか知らない田舎っぺ(?)の私は、へえ、アメリカってやっぱり広いんだなあ、と感心するばかり。そのコルゲート大学へは、陸路を車で移動することになった。トロントを出発する朝、私たち3人(原、小林、島野)を迎えに来た車は、大型のSUV。乗り心地は最高だ。フラットな道のりを快適に飛ばす。 4時間くらい走っただろうか。右手にナイアガラの滝が見えてきた。ちょっと寄り道して近くで見たかったが、時間の余裕がなかった。滝のすぐそばにカナダとアメリカの国境があり、検問所があった。 私たちが海外へ行くとき、ほとんどが飛行機を利用する。だから、「国境」というと、空港での入管や税関の手続きがすぐに想起される。実は、陸路で出入国するのは、私にとっては初めての経験であり、内心かなり緊張していた。それは最近の、空港での厳しいチェックの体験からくるものだ。しかし、同時にワクワクもしていた。国境が持つ独特のイメージに魅かれていたからだ。 私は映画の世界に足を突っ込む以前は、報道写真家になりたかった。世界の国境線をテーマにした写真集を出したい、と考えていたことがあった。私たちの国ニッポンは島国だ。だから隣り合う国の間に引かれた国境線という存在に憧れ(?)に似た気持ちを抱いていたのだ。陸続きでありながらふたつの世界に分断してしまう国境線。ベルリンの壁。アメリカとメキシコを分断する有刺鉄線。同じ民族でありながら憎しみと悲しみを生みだす元凶である北朝鮮と韓国の軍事境界線……。私の想像力は果てなく広がる。そのカナダとアメリカの国境の検問所。厳しいチェックがあるはず、と私の心は躍っていた。 だが、実際見てみると、その検問所は、高速道路の料金所とほぼ同じ造りであった。我々は車から降ろされることもなく、パスポートを係官に渡して待つこと1分少々。係官が無愛想な顔で、通ってよし、というジェスチャーで首を振って、無事通過。あっけなかった。空港でのそれとは大違いだった。 緑の中の聖地 そこから1時間ほど走っただろうか。風景が変わってきた。人家が少なくなってきて、緩やかな丘状の畠や林が多くなってきた。やがて、辛うじて街としての佇まいを感じる程度になり、ついに目的地のコルゲート大学に着いた。特に大学の門があるわけでもなかった。樹々も整頓された感じで、緑が美しく、校舎の目の前に池があり、広大な敷地が広がっていた。驚いたのは、建物と建物の間の距離が、日本の大学と比べものにならないくらいゆったりとしていることで、ああ、こんな環境で学べたら素敵だろうなあ、と思えたのだ。 とりあえず、主催者側のスタッフが、我々が泊まる宿舎に案内してくれた。車で5分ほどの移動。横田基地周辺にある米軍住宅のようなハウスが我々の宿舎だった。中は、質素でシンプル、設備はホテルほどではないものの、十分な広さがあり、これはこれで1週間を快適に過ごせそうだった。 言い添えておくと、他のゲストは、学生寮で合宿するような感じだったというから、車椅子で移動しやすく、階段の昇り降りのないフラットな宿舎を選んでくれたのは、小林と私に対する特別な配慮だったのだろう。 ところで、ロバート・フラハティという人物がどんな人か、ご存知だろうか。 ウィキペディアには、こう紹介されている。 〈ロバート・ジョセフ・フラハティ。アメリカ合衆国の記録映画作家、映画監督。ドキュメンタリー映画の父として知られる。映像作品にドキュメンタリーの語が用いられたのは、フラハティの「モアナ」を紹介する1926年2月8日付のニューヨーク・サン紙の記事が最初とされる。〉 ドキュメンタリー映画史上欠かすことのできない、超有名な人物の名前を冠しているわけで、それだけでも、このセミナーが掲げる高邁な理想を想像できるだろう。アメリカが映画大国であることは誰しも認めるだろうし、様々な映画関連の団体が存在するのだが、その中でも、このロバート・フラハティ・セミナーは群を抜いて特異で、映画を学ぶ者にとっては、ある種の聖地のような輝きを放っている。 ▲コルゲート大学の宿舎。空の広さも忘れがたい 真剣勝負のあとで…… さて翌日。セミナーは夜からスタートということで、私のミッションとしては、午前中にマスタークラスが組まれていた。聞けば、このマスタークラスは、世界各地から選ばれたスカラシップたちのために特別に組まれたプログラムということだ。30歳前後の若い人たちが35人。これまでも国内外の数々の映画祭でマスタークラスを受け持ってきたが、ここは一味違っていた。一般の映画ファン向けというトーンではなく、大学の特別講義ふうなのだ。それは私にとっても、願ったり叶ったりだった。 いざ講義を始めてみると、いつものおもしろおかしく、というノリではなく、真剣勝負のようなピンとした空気が場に張り詰めてきた。それは、スカラシップたちの目の色が違っていたからだ。持ち時間は2時間。遠いアジアの、日本からの講師の話を聞くのは初めてだろうなあ、と思いつつ、私自身、これまでのマスタークラスより格段に緊張感を持って彼らに語りかけた。聞いている彼らも、私を注視して目をそらすことがなかった。非常に空気が濃い時間だった。2時間の持ち時間とはいえ、通訳が入るから実質は1時間。持ち時間が終わったとき、ああ疲れた、でも内容的にはまだ半分。もっと話したい、と感じたのだった。 そんな心地よい疲労に見舞われながら、お昼は大学の食堂でとることに。教師や学生たちがグループで食事をしながら議論できるようにという配慮だろう、広い空間に、大きなテーブルが多く設置されていた。メニューは、ビュッフェ方式。なかなかバラエティに富んだ豪華な食べ物が並んでいて、日本の大学の学生食堂の安かろう、不味かろうの貧しいメニューとは天地の差だ。 ご存じの方もいると思うが、ヨーロッパのほとんどのホテルがビュッフェ方式の朝食付きだ。珍しいものだから、あれもこれもとつい欲張って皿に大盛りにしてテーブルに着く。そして食べ始めてすぐに「しまった、取りすぎた」と気づくのだが、残すともったいない、と思い、頑張ってお腹に詰め込む。決まって、ああ、食べすぎた……と後悔するのが落ち。ここのビュッフェも、そうだった。幸い、セミナーは夜からだったから、宿舎に戻って昼寝をすることにした。 もっと激しい議論を! さて、いよいよだ。20時から、ロバート・フラハティ・セミナーの本番が始まった。私たちのデビュー作「さようならCP」(72)が、オープニング的な意味合いを込めて上映された。これは素直に嬉しかった。今回のアメリカツアーのために、島野君と小林とが、お金のやりくりから技術的な問題点まで様々な課題を抱えながら、DCPを作ってくれたおかげだ。こうして鮮明な画面を見ていると、苦労した甲斐があったんだなと思う。二人とも、ご苦労さん。 上映後は、討論するための場が別に設けられていて、全員移動。さっそくディスカッションが始まった。とある男性がその口火を切ったのだが、なんと痛烈に、非難的な口調。あなたたち制作者は、横田さんをはじめとする障害者の人たちに対して、とてもひどいことをしている。被写体となる人たちに、撮影のアポイントを取ってから撮影したのか? と。撮影中に、映画をやめたい、と言い出した横田に対して私と「青い芝の会」(脳性麻痺者自身による問題提起などを目的として組織された障害者団体)のメンバーが頭にきて横田家に押しかけ、私が喧嘩を売りながらカメラを回したシーンを指しての発言だ。場が一気に緊迫した。 私は彼の意見に苦笑いをしながら聞いていた。「CP」が完成して初めての上映会を、東大全共闘の学生たちが駒場の大教室を借りて実施してくれたときのことを思い出していた。このときも、上映後のQ&Aの場で、映画に対して、というより、主人公の横田たちに対する私たちの態度がひどいということで、非難囂々だったのだ。 せっかく率直に「CP」に対して反感を表明してくれたのだから、売られた喧嘩は買ってこそ、ディスカッションである、さて、どう反撃しようかとあれこれ考えていたら、司会者から、もう少し他の人の発言を求めましょう、とお預けを食らった。すると2番目の発言者は、そういう失礼な言葉を製作者に向けるべきではない。もっと冷静に製作者の意見に耳を傾けるべき、と援護してくれた。その後は、散発的に批判する意見はあったものの、冷静な空気の中で質疑応答が続いた。もっと激しい議論を期待していた私は、正直、不発だったなあ、と思った。 この「CP」は私たちの作品の中でもっとも説明的な要素が少ない。だから、一見して分かりにくいという印象を多くの観客が抱くと思っている、と断った後で、私は、横田とこの映画を作るにいたったいきさつ、「青い芝前史」とでも言うべきエピソードを語った。ディスカッションの時間は、1時間を目処にと決められていて、司会者が私の話を遮ろうとしたが、もう少し長く話をさせてほしいと断り、話し続けた。私にすれば「青い芝前史」を知ってこそ、この作品の思想性やテーマが理解できる、と思うからだ。一気にまくし立てる私の話にみんなじっと耳を傾けてくれた、と思う。時間は大幅にオーバーしたが、やはり喋って良かったと思っている。 ▲上映後のディスカッションにて。いささか大人しい議論に、物足りなさが残った ここでセミナーの構成を説明しておこう。午前の部は、朝9時から上映がスタートする。午後の部は、ランチ後、14時から。そして夜の部は、ディナーの後、20時から上映開始だ。上映後にディスカッションという流れはいずれも同じ。どんな作品が上映されるかの事前の情報は一切ない(この作品、前に観たから私は観なくていいわ、ということのないようにという配慮だそうだ)。この構成から窺えるように、朝から晩まで、いや夢の中まで、映画をめぐって論争しなさいよ、と参加者たちはアジられているのだ。建前は、そうなのだ。が、どうも現実はそうなってないのでは、と私は不満を募らせていった。 何が原因なのだろうか? ひとつには、司会者が、参加者の発言を議論が膨らむような方向へと導いていないように思える。ふたつには、プログラムされた作品の多くが、そもそも議論を呼ぶような作品ではないのではないか。ジャンルは実に様々だ。実験映画、アニメーション、劇映画ふうなもの、日記ふうなもの、昔のフッテージを集めたもの……。だが、私からみれば、どれも小粒すぎる感じだ。私たちの「CP」が唯一、議論を誘発する作品じゃないか、と思うほどだ。 今回のセミナー全体のプログラマーのシャイ・ヘレディアさんが、「CP」をオープニングに持ってきたことで論争が起きて良かった、と言っていたことを後で耳にした。そうなんだ、やはり主催者は、激しい論争が起きることを期待しているんだ、と私は納得した。(次回へ続く) 制作:キネマ旬報社 【連載第2回】『原一男のアメリカ凸凹疾走ツアー第2回』スコセッシとヤンキー・スタジアム 【連載第1回】『原一男のアメリカ凸凹疾走ツアー第1回』米MoMAで特別上映された鬼才・原一男監督、マイケル・ムーアと再会! 【筆者プロフィール】 原一男(はら・かずお) 映画監督。疾走プロダクション代表。1945年、山口県生まれ。 「ゆきゆきて、神軍」(87)、「全身小説家」(94)等で知られる日本屈指のドキュメンタリスト。 新作「れいわ一揆」が待機中。 -
加古川市が作った映画の微熱は続く
2019年12月13日「36.8℃ サンジュウロクドハチブ」 ©2017 映画24区 連載「地域映画」は、本当に地域のためになるのか? その3 松本裕一さん(兵庫県議会議員)インタビュー 映画24区が運営する『ぼくらのレシピ図鑑シリーズ』第1弾「36.8℃ サンジュウロクドハチブ」(17)のプロジェクトに、制作担当として関わった松本裕一さんは当時、加古川市の市議会議員だった。若き日に若松組や高橋伴明組、NCPや日活撮影所を拠点に制作部として映画制作に携わっていた経験を活かし、地元の加古川市に戻ってからは、まちづくり活動の一環としてフィルムコミッションの設立にもトライしてきた。 そんな経歴を持つ松本さんだが、当初は『ぼくらのレシピ図鑑シリーズ』のプロジェクトに懐疑的、むしろ反対だったという。それがなぜ、地域活性に映画づくりを活かせると考えるに至ったのか。現在は兵庫県議会議員である松本さんにお話をうかがった。 取材・文=関口裕子 走り出した映画の計画 加古川市で撮影された「36.8℃ サンジュウロクドハチブ」 ©2017 映画24区 ――当初は加古川市で映画を作ることに反対だったとうかがいました。市の予算を使って映画を製作するとなると、市議会議員として懐疑的になるのは当然だと思います。むしろ疑問なく進んでしまうほうが怖い。まずはどんなところが肯定できない要素だったのか、教えていただけますか? 松本 市が製作費をほとんど出して映画作るってそもそもあやしいでしょ(笑)。地域映画でうまくいったところはないって思ってましたし。ずいぶん前ですが、地域活性化を考えて、加古川市にもフィルムコミッションが必要なのではないかと模索したことがありました。当時、兵庫県内には神戸と姫路、淡路の3カ所しかありませんでしたが、神戸と姫路のちょうど真ん中の加古川にフィルムコミッションを作って、県南部で連携できたらいいなと思い、フィルムコミッションのオーソリティである前ジャパン・フィルムコミッション理事長の田中まこさんが、当時は神戸フィルムオフィスの代表でしたので、まこさんに相談しながら、加古川市に設立のアプローチをしていました。しかし、行政がお金を出すとなると成果物が求められるわけです。それは刷りものであったり、冊子であったり、形に残るものでないとならない。フィルムコミッションの目的はそこではないので、なかなか話が進みませんでした。ただ、加古川市にある明治末期から昭和初期に建造された地元企業の社宅群を撮影に使いたいというオファーが続いたりして、フィルムコミッションを立ち上げないまま、撮影協力を続けていたところ、「ひょうごロケ支援Net」が設立されて、フィルムコミッションがない自治体の協力体制ができてきて、加古川市でも観光協会などが必要に応じて撮影協力を続けてきました。そんな活動をしていたこともあり、2016年夏頃に「実は映画を作る話があるのですが……」と担当者から聞かされました。 当時はバタバタして保留にしていたんですが、しばらくして、ふと気になって「あれどうなった?」と担当者に聞くと、けっこう話が進んでいて。でも映画作るっていうのに具体的な予算や進行を把握しきれていない。製作の部分は制作会社に任せておけば大丈夫みたいな雰囲気があって、言われるがままに進めていたし、それでは予算通すのも難しいですよね。悪い意味じゃなく、自治体の職員の多くはたぶんそんな感じだと思います。ましてや経験のない映画製作ですからね。でもこれは放っておいたらまずい、と思った。それがスタートです。しばらくほっといて文句言うなって担当の課長には怒られましたけどね(笑)。でも最近の地域映画の現状とか知りたくて、知り合いのプロデューサーに紹介してもらって、近年地域映画で製作に関わった自治体の担当者の方にお話を聞かせてもらいに行ったりもしました。 ――そこからどのように肯定的なスタンスへと変わっていったのでしょう? 松本 たとえば、この予算はどの部分にどれくらい使うものなのか、スタッフはどんな体制なのか、現場の費用をどう考えているのか、二次使用の契約はどうなっているのかなど、担当者を通じて映画24区と詰めてもらった。その間に、最初にやろうって言いだした課長の熱意も感じたし(喧嘩もいっぱいしましたが)、映画24区代表の三谷一夫さんも何度か加古川に足を運ばれ、会って話をしていくうちにこれはなんとかなるかなということと、うまく活用すればいろいろできるかもしれないなと思い始めました。 シビックプライドを育む 「36.8℃ サンジュウロクドハチブ」のワークショップ ――三谷さんは準備のときの対話が何よりも大事と話されていますね。 松本 はい。そうですね。ただ、やるとなったら徹底的にやらないといけないと思いました。その時点では、市にとっての成果がすごく曖昧だったんです。最近よく聞く「シティプロモーション」という言葉は「外向きの発信」として語られますが、外に発信するのは本当に難しい。丸投げ状態で映画を作ったらなおさら、外向きのプロモーションなんてできるわけがない。でも議会で予算を通すには、外向きのほうが納得されやすいです。「加古川市をこれだけ外に発信できます」とアピールするわけですが、簡単にはできないと分かっていたので、そこに「内向き」という重要な要素を加えたんです。 ――目的は3つあったそうですね。1つは「外向き」のシティプロモーション。2つ目は市民参加。3つ目はシビックプライドの醸成、つまり市民が「わがまち」に誇りをもつこと。後者の2つが「内向き」ということですね。 松本 はい、若い人たちは加古川市の良いところを何も知らずに進学や就職で離れていく。それは大きな損失だというのが考え方のスタートです。一度出て行っても、生まれ育ったまちに愛着やふるさと意識があれば、やがては「まち」の活力になってくれる可能性もあります。 そのために、映画製作においてこれだけは絶対に守ってもらうという条件を決めました。全篇市内で撮影する、地元の資産を最大限に活用する、それから地元の方言をつかうこと。そうして、「シビックプライド」を醸成できる仕組みで映画製作を進めてくださいと。それは、なにも観光名所を出してくださいということではなくてね。でも、まあ加古川出身のタレントや芸人さんには出演してもらって、地元の方言で話してもらいましたけど(笑)。 ――ただし、それらが決まったのは3月だそうですね。「36.8℃ サンジュウロクドハチブ」の撮影は7月。かなり短い期間で映画の準備を進めなければならなかった。脚本を作るにしても市内の資産を改めて検証しなければならないし、シナリオハンティング、ロケーションハンティングも必要です。 松本 そうなんです。でも地元としては脚本が上がってこないと準備ができない。できた時点でGOですとは言っていました。ただ、安田真奈監督と何度も加古川について話していたので、イメージはできていたなと思います。でも実際には、4カ月ではタイトでしたね。オリジナル脚本ですからね、よく間に合ったと思います。安田監督じゃなかったら難しかったかもしれません。 高校生と公務員も成長した 高校生たちが積極的に映画に参加 ――加古川市では、高校に呼びかけ、「高校生応援隊」を組織されたそうですね。脚本作り、ロケハン、完成後の告知や応援など映画の公開にも貢献したとうかがっています。高校生応援隊はどの段階で? 松本 予算が通ってからでないと告知を出せないので、各学校に案内を出したのは4月です。映画製作のお手伝いの募集や、オーディション、ワークショップのお知らせもその時に一緒に。学校によってボランティア活動や課外活動については温度差がありますから、信頼性を示すためにも、映画の実行委員会からではなく市から呼びかけてもらいました。 ――高校生応援隊については、安田監督のインタビューで詳しくご紹介させていただきましたが、活躍された方々は今どうされていますか? また、高校生応援隊の枠組は現在も継続中ですか? 松本 卒業して上京した子はなかなか関われないですが、映画の上映会に今も来てくれます。まだ公開から2年ですから、市としても高校生応援隊を続けています。卒業しても来てくださいねと呼びかけたり、新たに高校に呼びかけたりもしているので、やることがあれば関わりやすい環境ではあると思います。 ――今年、高校生ならではの視点で、加古川市の魅力をPRする動画も作られたそうですね。 松本 最初は映画づくりをきっかけに集まってもらいましたが、完成したので、次は新たにシティプロモーションを考えるという目標を掲げました。みなさん、モチヴェーションが高くて、自分たちのまちをプロモーションするにはどういう方法があるか、1年かけて考えたわけです。全国の実例を調べたり、映像を見たりしながら会議を重ねていましたが、映画作りを経験しているので、きっとムービーをやりたいと言うだろうなとは思っていました。 高校生応援隊が加古川市PR動画を制作 http://www.city.kakogawa.lg.jp/soshikikarasagasu/kikakubu/kikakubukohoka/citypromotion/1566981241784.html シナリオ作りからやりましたが、集まれるのは月に1、2回でしたので時間がかかり、3月までには終わりませんでした。一応予算も付いていたんですが、どう考えても年度内には終わらないと思い、特に予算が必要というわけではなかったので、年度をまたいで5~6月で撮影、8月に完成させました。最後までこだわったのは、原案、脚本、キャスト、撮影や編集まで全部彼らが自分たちでやること。それは最初から決めていました。 ――これに対する松本さんの関わり方は? 松本 保護者みたいな感じで立ち合い(笑)、軌道修正しながら大事なところだけ手伝って見届けた感じですね。会議の案内と場所の提供は市にしてもらいました。この事業を担当したシティプロモーション担当者も一緒に成長していったところはあるかもしれません。 フィルムコミッションの立ち上げを考えたときも、市の職員は、いわゆる役所仕事(本当は皆さん頑張って仕事しているのですが)では済まないことがたくさんあると言い続けましたが、仕事の仕方を少し変えたらできることがたくさんあります。特に現在は、イベント系の事業は民間のほうがパワーがあるし、ノウハウも持ってます。市は直接行わず、民間やボランティアを応援する立場へと変わってきています。半面、職員がそういった一から作っていくという事業を経験できる機会が減ったという側面もあります。そういう意味では、今回の映画製作という未知の事業を推進することで行政側が成長することも目的の一つであったわけです。あくまで裏目的ですけどね(笑) ――今回、「36.8℃ サンジュウロクドハチブ」で実施されたことは、映画だけでなく市の人材育成などすべてにつながりますね。 松本 そうですね。そうなるのが一番いいんですけど、そんな簡単には成果は生まれない。ただ、一人でも二人でもそういう経験を積んだ人が組織の中にいてくれたら、何かの形でプラスにつなげられる可能性があります。 映画の現場を離れ、地元で別な仕事を始めたときに思ったのが、映画の現場ってすべての仕事で求められることが詰まっている、ということでした。であれば、特にまちづくりが仕事の公務員は、それを本気で経験して欲しいと思いました。 ――市としての評価は? 松本 評価できないですよね。何をもって評価するのか。たとえばシティプロモーションの動画の再生回数が多ければ良い評価だとは言い切れない。加古川市の場合はただ、「市民と一緒にやりました」という人が増えた。これがひとつの成果だと思います。現在、こういったチャレンジをする自治体が減ってきています。市長にもリーダーシップより、うまく回せることが求められるようになってきています。だから面白くないですよね。隣のまちとうちのまちが違うのは当たり前で、だからこそ、その違いをどう活かすかなんですが、それがしづらくなってきている。元々、加古川はそういうチャレンジに慎重な市だったので、本当にいろいろな出会いや偶然が重なってできたのだと思います。 当事者をたくさん作ること 松本裕一さんと高校生たち ――結局のところ、プロジェクトを推進する時に重要なのは“人”ですよね? 映画24区は映画と出会う人々の学びの場と銘打って、『ぼくらのレシピ図鑑シリーズ』で学ぶ【地域プロデューサー術クラス】と【脚本術クラス】を開催していますね。その中でどんな人材が育てば、シティプロモーションにつながる映画作りができると思いますか? 松本 難しいことだとは思います。ただ要所要所にキーマンはいます。その方々をきっちりコーディネートできる人さえいれば可能になると思います。この人に言ったらなんとかなる、というようなことが地域にはいっぱいあります。弁当一つとっても、この人にお願いすればきっちりやってくれるとか(笑)。そこをうまくコーディネートできればいいんだと思います。 そのためにはちゃんと人間関係を作れる人でなければいけない。うちの場合はバタバタでしたけど、1年準備して、翌年撮って、次の年に公開も含めてイベントを行う、3年計画であれば、人間関係は作れると思いますし、その中でキーマンも探し出せるでしょう。どこのまちにも必ずいると思うので、そういう人たちをオーガナイズしていければ、できるんじゃないかと思います。うちの場合でも超ハードスケジュールで、関わってもらったみんなに騙された~って(笑)言われましたけど、いい仲間たちです。地域プロデューサーに一番求められるところはそこだと思いますね。それと製作側、自治体側それぞれの目的とねらいを理解すること。これがわかっていないと始まりません。そして関わる人の満足度を上げることを常に考えていくことですね。 ――人間力ですよね。 松本 まあね(笑)。全部をコントロールしようと思ったら無理ですけど、地域の中にはいろいろ考えている人がそれなりにいるので、うまくつながっていくことができれば。当事者(仲間)をたくさん作る、ということなのかな。 ――それに「映画のことは分からない」ではなく、地域活性事業として進めていく上では、同じスタンスで映画人と話すことも必要なのかなと。 松本 そうですね。フィルムコミッションを立ち上げようと思ったときもそれは主張してきました。自分の場合はそもそも映画人としてのプライドがありましたけど、福岡県田川市で『ぼくらのレシピ図鑑』第2弾の「夏、至るころ」を進めている福岡県田川市職員の有田匡広さんは、自ら地域プロデューサーの役を担われたわけですが、わざわざ加古川市を訪ねて来られて、熱心に質問をされました。最初から映画作りや加古川モデルを理解してスタートされたと思います。そういう姿勢が大事ですよね。定時になったから帰ります、じゃダメな世界ですから(笑)。加古川市の職員も頑張ってくれましたよ。 ――松本さんと今回一緒に仕事をした助監督の向田優さんは、田川市では松本さんのポジションに入られているそうですね。松本さんの志を継いで、みなさんをしごかれているそうです。 松本 しごいてはいませんけどね(笑)。今でも時々一杯やりながら、あーだ、こーだやってますよ(笑)。プロデューサーって曖昧な職業じゃないですか。規模によってやることや求められることが変わるし、これがベストのプロデューサーの仕事だと教えることができないというか。「こうなればこうなる」という答えがないので、非常に難しいし、経験から学ぶしかない部分が多い。プロデューサーという仕事には、色んな経験が大事なのかなと思います。 ――「36.8℃ サンジュウロクドハチブ」や「【高校生応援隊】加古川市PR動画」が、加古川出身の方が「加古川、いいな」と思うきっかけになることを祈っています。 松本 そうなるといいですね。行政関係者の方には「加古川モデル、いいな」と思ってもらえたら。まあでも加古川もこれで終わりじゃなく、まだまだ仕掛けますよ(笑) 次回は、「夏、至るころ」の田川市職員・地域プロデューサーの有田匡広さんに登場していただきます。 松本裕一 まつもと・ゆういち 〇プロフィール 1969年生まれ、加古川市尾上町在住。加古川市議会議員を2006年から12年間務める。2016年、「36.8℃ サンジュウロクドハチブ」に制作担当として参加し、市民と一緒に映画を作った。2019年に兵庫県議会議員となる。☆連載 「地域映画」は、本当に地域のためになるのか? プレ連載 https://wp.kinejun.com/2019/10/03/post-945/第1回 三谷一夫(映画24区代表)インタビュー https://wp.kinejun.com/2019/10/18/post-982/第2回 安田真奈(映画監督・脚本家)インタビュー https://wp.kinejun.com/2019/11/07/post-1078/●ぼくらのレシピ図鑑シリーズ http://bokureci.eiga24ku.jp/ ●映画『ぼくらのレシピ図鑑シリーズ』で学ぶ講座 【地域プロデューサー術クラス】と【脚本術クラス】来年春に第2期開講予定 ●お問合せ 株式会社映画24区 TEL:03-3497-8824 HP:http://eiga24ku-training.jp/contact/ -
ジョディ・フォスターの怪演に釘付け! 12月の「誰かに教えたくなるシネマ」
2019年12月11日毎月リリースされる未公開、単館系作品の中から、「観たら必ず誰かに教えたくなる」作品を厳選してご紹介。劇場で見逃した作品や隠れた名作が多く並ぶレンタル店だからこそ出会える良作、小規模公開でありながら傑作といった、様々な掘り出し映画との出会いを映画専門家レビューと共に提供します! ハイセンスな世界観に惚れる! 映画『アヴリルと奇妙な世界』 アクセスエーより11月22日リリース (C)2015/JE SUIS BIEN CONTENT STUDIOCANAL KAIBOU Production UMT Inc. NEED Productions ARTE France Cine' ma JOUROR Distribution RTBF TCHACK 映画『アヴリルと奇妙な世界』あらすじ 1941年のパリ。優秀な科学者たちが次々と失踪したため、産業革命が起こらず蒸気機関だけが頼りの世界。そこで孤独に暮らす少女・アヴリルは、相棒の猫ダーウィンと共に行方不明となった科学者の両親を探す旅に出る。 映画『アヴリルと奇妙な世界』映画専門家レビュー このスチームパンク的な世界観だけでなく、どこかジブリを彷彿とさせる雰囲気には終始わくわくさせられる。行方不明の両親を探す少女・アヴリルの冒険を描いているが、彼女をずっと見守ってきた喋る愛猫ダーウィンとのバディ感がまた良い。アヴリルの勇敢さとダーウィンのファインプレーで数々の困難を乗り越えていく様は爽快で、気付けば彼らと冒険を共にしている感覚に。絵のタッチや斬新な設定などすべてのエレメントにおいてフランスの底力を感じずにはいられない、激推しの逸品。 怒りのナース、ジョディ・フォスター 映画『ホテル・アルテミス ~犯罪者専門闇病院~』 ギャガより11月22日リリース (C) 2018, Hotel Artemis Ltd.. All rights reserved. 映画『ホテル・アルテミス ~犯罪者専門闇病院~』あらすじ 高額な会費を支払うことができる犯罪者だけが利用できる、会員制闇病院のホテル・アルテミス。ある日、銀行強盗を犯し致命傷を負った兄弟が病院を訪れたことをきっかけに開業以来の最悪の事態を迎えることになる……。 映画『ホテル・アルテミス ~犯罪者専門闇病院~』映画専門家レビュー 近未来のLAで暴力が街を支配する中、人知れず存在する病院で働くのはあの大女優、ジョディ・フォスター。カオスの中でのひと時の安らぎのような空間を象徴するマザー・テレサかと思いきや、院のルールが破られるとキレキレになる“両性感”はご健在。ある盗難事件をきっかけに起こる暴動のスマートなアクションと、自分の息子を殺した犯人に直面して高ぶるジョディの見事な演技が見どころ。危険な輩しかいない院内の暗がりのネオン感と共に、全編を彩るカントリーちっくな音楽も良い。 死を越えて答えを求める道程 映画『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』 ハピネットより12月3日リリース (C) 2017 Scared Sheetless, LLC. All Rights Reserved. 映画『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』あらすじ テキサスの郊外の小さな一軒家に暮らす若い夫婦のCとM。ある日、夫のCが事故でこの世を去りMは悲しみに暮れる。しかし遺体に掛けた白いシーツを被った状態で幽霊となったCは、彼の存在に気付かないMを見守ってゆく。 映画『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』映画専門家レビュー 正方形に近く四隅が丸みを帯びた画面と長回しは、“観察”に近い感覚。幽霊もまた“見る”だけで愛する妻に何もできない存在だ。しかし悲しみの深さでいえば妻だろう。食卓に置かれたパイを食べ続けるシーン。夫を失った妻の想いすべてが切々と胸に迫る。そんな彼女もひとつの答えを出す。夫はその答えの一片を求め、今度は妻からその場所に縛られる。しかし過去から未来への直線的な時間の流れから解放され、話はむしろ躍動してゆく。万人受けはしないが、極私的な愛と時について思いを馳せる秀作。 “笑ってはいけない”人形ホラー 映画『生き人形マリア』 マクザムより12月3日リリース (C) 2014 All rights reserved. 映画『生き人形マリア』あらすじ バス事故によって子どもを亡くした3人の親の前に、精神科医のマノロ博士が現れる。博士は亡くなった子どもそっくりの人形を親たちの下に置いていくが、その人形が来た日から3人の周囲で不可解な事件が起こり始める。 映画『生き人形マリア』映画専門家レビュー 親たちの心の傷を癒やすために、人形で代替作戦という単純さからして憎めない。不気味な人形たちは時に愛され、時に煙たがられながら(ある日はゴミ捨て場へ運ばれる)もその濃いキャラを爆発させ、遂には殺人人形と化す……。人形たちの無邪気で残酷な殺人計画が進む一方、ある少年の霊魂までもが絡み合い、大人たちが泣き叫ぶという、“笑ってはいけないのに大爆笑”の連続に。フィリピンのヒットメーカーにして49歳で夭折した監督の鎮魂のためにも、マリアと一緒に拝んで観よう。 奇跡のトンデモ映画が帰ってきた! 映画『アイアン・スカイ/第三帝国の逆襲』 ツインより12月4日リリース (C) 2019 Iron Sky Universe, 27 Fiims Production, Potemkino. All rightsreserved. 映画『アイアン・スカイ/第三帝国の逆襲』あらすじ 月面ナチスとの戦いの勝利から30年後。ナチスの月面基地で生き延びていた人類は、エネルギー枯渇のため危機に瀕していた。オビは人類を救うため地球内部へ旅立つが、そこはヒトラー率いる秘密結社が君臨する世界だった。 映画『アイアン・スカイ/第三帝国の逆襲』映画専門家レビュー 月面に生存する人々を救うため、無限のエネルギーを求め地球の内部に行くという、聞くだけでクラっとするような本作。ナチス(ヒトラー)+SF+トンデモ科学+宇宙人+恐竜という“鉄板要素”を全部入れ込んだらスゴくね? 的なとてもチャレンジングな本作。キワドイ描写と既視感たっぷりの要素満載だけど、作りは本当にしっかりしていて、恐竜などの質感や動きは相当リアル。ラストまで手を抜かない清々しいばかりの本気の悪ふざけ、映画愛に溢れた全力トンデモ映画として是非ご鑑賞を! 心揺さぶる、若者たちの信念 映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』 クロックワークスより12月4日リリース (C) Studiocanal GmbH Julia Terjung 映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』あらすじ 東ドイツの高校に通うテオとクルトは、訪れた西ベルリンの映画館でハンガリー民衆蜂起の映像を目の当たりにする。自由を求めるその姿に純粋に共感した彼らは、級友たちにハンガリー市民への黙祷を呼びかけるが……。 映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』映画専門家レビュー ただ素直に「自由」というものに共感しただけの高校生たちが、たった2分間で国家を敵に回してしまったという事実には驚愕。約束された将来を前に揺れる彼らの心情が痛いほど伝わってくるが、それでも意思を強く持ち、正しさを追求しようとする純粋さには涙が出る。青春を謳歌する無邪気な姿から過酷な状況に向き合おうとする凛々しい姿に変わっていく様もまた切なく、強制や対立の残酷さを感じずにはいられなかった。そんな若者たちの葛藤と勇気に、最後まで心を揺さぶられ続けた1本。 ■前回の誰シネはこちらから -
【連載】『原一男のアメリカ凸凹疾走ツアー第2回』スコセッシとヤンキー・スタジアム
2019年12月5日2019年6月、北米4カ所にて、ドキュメンタリー監督・原一男の業績を称える大々的なレトロスペクティブが開催された。それに合わせ現地へと赴いた原監督(プロデューサーの小林佐智子、島野千尋が同行)。果たして、日本が誇るドキュメンタリーの“鬼才”はアメリカといかに出逢ったのか? 監督自らが綴る旅の記録、第2回!! 第1回はこちらから。 NY番外篇〜とある既視感 スコセッシ新作のパーティーパス 今回のアメリカツアーが実現した背景には、それぞれのイベントのキュレーターたちの情熱と、映画のセンスが重要だったとつくづく思う。つまり、彼らが私たちの作品を選んでくれたからこそ、実現したわけだからだ。 MoMA のキュレーターのジョシュア・シーゲルは、2009年にアメリカで出版された“CameraObtrusa”(拙著『踏み越えるキャメラ―わが方法、アクションドキュメンタリー』〈フィルムアート社〉と『ドキュメント ゆきゆきて、神軍』〈皓星社にて復刻〉をベースに翻訳)にインスパイアされて、今回のイベントを発想したようなのだ。MoMA の初日にマイケル・ムーアをトークゲストとして呼んだのも、彼の尽力によるものだ。おかげでニューヨーク・タイムズ紙やニューヨーカー誌に寄稿する著名評論家たちがこぞってこの企画を注目、原稿を書いてくれた。彼の狙いは当たったわけだ。その彼が、イベント終了後、マーティン・スコセッシ監督の新作ドキュメンタリーのプレミア上映があるので観に行かないか、と声をかけてくれた。 チケットはすでにソールドアウト状態で、入手できるかどうかわからないが手配してみる、と彼は言い、なんとか2枚確保してくれた。チケットを持って上映会場のリンカーンセンターへと出かけた。さすがに世界の巨匠マーティン・スコセッシ作品だし、主演は、ノーベル賞を受賞したあのボブ・ディランとくれば、ニューヨークっ子は見逃せないだろう。劇場は大勢の観客でごった返していた。中に入ってさらに驚いた。昔、歌舞伎町に新宿ミラノ座や新宿プラザ劇場という巨大な劇場があったが、それ以上の劇場だった。私たちの指定席は、一番後ろ。全体がよく見渡せる。が、舞台挨拶をするスコセッシの顔は遠すぎて、よく判別できなかった。 さて、スコセッシ監督の新作ドキュメンタリー、タイトルは“Rolling Thunder Revue” で、ボブ・ディランの1975年のツアー「ローリング・サンダー・レヴュー」を追ったもの。プレスリリースによれば、同年の「アメリカにおける複雑な状況や、ボブ・ディランが演奏する喜びに満ちた音楽」を描いた作品。そう書いてあるが、私は英語が得意ではないので、作品の全容を理解できたとは言えない。が、映画の手法は、おおよそ分かる。観客席からは、時々笑いが起きていたから、観客は面白く見ていたのだろうと思うが、私のなかではある既視感が渦巻いていた。 1992年のことになるが、私は「文化庁1年派遣芸術家在外研修員」として、1年間NYに滞在していた。そこでアメリカと日本のドキュメンタリーの違いを洞察することで、ドキュメンタリー表現のおもしろさを学びたい、と考え、アメリカのドキュメンタリーを意識的に観た。語学力の問題で十分な本数を観られなかったが、おぼろげながらアメリカのドキュメンタリーの特徴のようなものが摑めた気がした。そして日本のドキュメンタリーの特徴も。あくまで、まだ仮説段階だが、アメリカのドキュメンタリーの特徴を一言でいえば「まず批評ありき」だと思った。ひるがえって、日本のドキュメンタリーの特徴、それは「まずは共生すること」であると思った。 スコセッシの新作を、言葉が分からないなりによく観ていると、観客の笑いが起きるシーンは、ボブ・ディランが何かに対して辛辣な意見を述べる、その言葉、つまり「批評」に反応しているようなのだ。他の出演者のシーンでも、そうなのだ。言葉=批評に反応している。日本のドキュメンタリーでも、言葉に観客が反応してはいる。しかし、冷静で論理的な言葉=批評というより、言葉に濃密な感情が込められている場合が圧倒的に多いように思う。日本の観客は、言葉に込められた感情に共感し、感情を吐き出す主人公の生き様、死に様に共感している、そんなふうに思うのだ。 20年以上も前に、そんなことを考えていたなあ、と私はスコセッシの作品を観ながら思い出していた。そんなアメリカのドキュメンタリー観を抱いている私にとって、この作品は典型的なアメリカのドキュメンタリーだと感じられたのだ。 いや、もちろん全てのアメリカのドキュメンタリーがそうだとは言い切れないだろう。私が知らない作品、作家が存在するかもしれない。そんなことを考えていると、改めてアメリカのドキュメンタリーを研究してみたい気持ちが、私の中で浮上してきた。 スコセッシの秘蔵コレクション 実は、マーティン・スコセッシ監督とは過去に一度、会っている。1992年に1年間NYに滞在していた時に、「ゆきゆきて、神軍」と「極私的エロス・恋歌1974」がNYで上映され、その紹介記事が新聞に掲載された。すると、スコセッシから手紙が届いた。「あなたの映画を観に行きたかったが、忙しくて行けなかった。だからあなたの作品のテープを貸してくれないか」と書かれていた。私はVHSテープを送ってあげた。しばらくして彼から、また手紙が届いた。「こんな映画を誰も作ったことがない。こんな映画を誰も観たことがない」と感想が書かれていた。続けて「私のオフィスに来ないか」と書いてあった。私は遠慮なく訪問することにした。 セントラルパークのそばの10階建てビルの、たしか6階だったと思う。フロア全部を彼が使用しているという。彼専用の試写室を見せてくれたが、豪華な椅子がゆったりと広めにレイアウトされていた。はあ、こんな環境でラッシュを見て作品を作り上げているんだと驚き、さすがアメリカの映画産業はビッグビジネスなんだ、と感心した。この時、スコセッシは、私が日本人であることを意識したのか、遠藤周作の『沈黙』をぜひ映画化したいんだ、と熱っぽく語っていた。 おもむろに、「あなたの作品のVHSを私にくれないか」と彼は切り出した。「私の映画コレクションに加えたいんだよ」と。そしてVHSが所狭しと並べられているスペースに案内してくれた。ぎっしりと、世界の名作、傑作、話題作のVHSテープが並んでいた。彼が映画青年であることは聞いていたが、なるほど、と私は納得した。「エリア・カザンとオリヴァー・ストーンは、私の友人だから、あなたの映画を観るように伝えておくよ」とスコセッシは私に言ったが、実際に見せたかどうかは今もって分からない。 ヤンキー・スタジアム観戦記 H! スペクタクル! と、ご満悦な原監督 MoMA から課せられたミッションは、4日間だ。次のトロントまで2日間のオフ。MoMA としては4日間のミッションということで、4泊分のホテルを用意してくれた。だが、オフの2日間のホテルは自分たちで用意しなければならない。NYは物価が高い街だ。3人の2泊分のホテル代は、辛い。 どうしようかと悩んでいるときに、救いの手を差し出してくれたのは、雑誌『BOMB』(註1)の編集者だったジョナ・マックスだ。ケン・ジェイコブスと私の対談の企画を成立させた有能な若者だ。その彼が、自分の親に相談して、親の家に泊まっていい、と言ってくれたのだ。彼の親は大富豪とのことだった。ありがたい。立派なマンションの一室に泊めて頂けた。だが、その上にも欣喜雀躍したのが、彼が私たちをメジャーリーグの試合観戦に招待してくれるというのだ。ニューヨーク・ヤンキースvsニューヨーク・メッツの試合だ。興奮しないほうがおかしい。 初めて訪れるヤンキー・スタジアム。でっかい!私たちに用意してくれたのは、ニューヨーク・ヤンキースのブルペンの上のほうの、まさに上等な席。ここから見るスタジアムの全景を私は生涯忘れないだろう。おう! スペクタクル! と思わず口にした。夕方、日が暮れようとしている試合に頭の上から煌々と照らし出された照明の眩しさ。いつもTVでしか観戦してなかったが、実際に身を置いてみると、球場の立体感が、すごくリアルに感じられて圧倒された。観客たちの熱気でエネルギーがムンムンと立ち上っていた。 ジョナのお父さんが、何か欲しいものは、と聞いてきたので、遠慮なくメジャーリーグ観戦の3点セット、ポップコーン、ホットドッグ、生ビールをお願いします、と私。彼は笑いながら、その3点セットを買ってきてくれたのだ。いやあ、美味しかったこと。私はその味も、一生忘れることはないだろう。 さて試合のほうだが、ヤンキースがまるでやる気のないような試合運びで、一方的にメッツの大勝。10対4。9回の裏にソロホームランが出たのが、唯一の見せ場だった。私は、にわかヤンキースのファンになった気で、ヤンキースの帽子を急遽買って応援したが、残念だった。聞けば、この日はダブルヘッダーで昼の試合は田中マー君が登板して、ヤンキースが勝ったそうだ。それを聞いて、ますます悔しい思いをしたが、ま、仕方ないこと。ともあれ、メジャーリーグ初体験の夜は、興奮のうちに過ぎていった。 カナダ、トロントへ トロントでのトークショー 昨夜の余韻を引きずりながらNYを後にして、カナダのトロントへ向かった。トロントは2回目だった。「神軍」が、ベルリン国際映画祭で「カリガリ映画賞」を受賞して注目が集まったのだろう、世界の国際映画祭で上映される機会が一気に増えた。その流れの一環で、1987年にトロントを訪れたのだ。 今回のイベントは、私のメモには、「Vertical Film Festival」(Innis at the College of University of Toronto)と書かれている。会場のトロント大学に着いて、私は驚いた。広大な大学構内(?)に、市街地の道路が、そのまんま、突っ切っている。つまり、ここからが大学ですよ、という仕切りがないのだ。これは、とても大事なことだと思う。市民たちの生活空間の地続きで大学が存在しているということは、権威ぶってもいないし、自由であることを意味している。会場のホールには、Innis at the Collegeという表記。主催者に聞いてみると、トロント大学の中にInnis College があるんです、という答え。つまり、Innis College のような小さな大学の集合体がトロント大学、ということらしい。 さて、上映のほうだが、今回はタイミングが悪かったようだ。実は、この日、6月14日。NBA(北米のプロ・バスケットボール・リーグ)の試合の日だったのだ。カナダのトロント・ラプターズとアメリカのゴールデンステート・ウォリアーズの試合。トロント・ラプターズが勝てば優勝が決まる日、ということで、映画鑑賞どころではないのだ。前日の「神軍」上映は、そこそこの観客数だったが、その夜は、やっと二桁に届いた程度。あまりの少なさに驚いて担当者になぜ? と聞いてみて、試合のことが分かったのだ。まあ、仕方ないなあ、と諦めるしかなかった。 そんな数少ない観客だったが、二人の中年の男性が、上映後に残って私に質問してきた。聞けば、カナダにアスベストスという地方都市があって、そこが町じゅうアスベストの被害にあった、という。私は、じっと耳を傾けていた。その町がカナダのどこに存在して、現地の関係者とコンタクトを取れる人の情報を聞いておくべきだったのだ(註2)。だが、なぜか私は、そこまで頭が回らなかった。今となっては、とても悔やまれる。 さてNBAの試合の結果は、114対110で、地元のトロント・ラプターズが勝利した。上映+トークが終わって、宿舎に向かう車で街の中心部を通り抜けるとき、試合に勝って優勝して歓喜する市民たちの熱気が街中を覆っていた。 (次号に続く) 註1……アメリカの季刊カルチャー誌。非営利団体により1981年から発行されている。 註2……原監督は、大阪・泉南アスベスト国家賠償訴訟の裁判闘争に8年間にわたって同行。2017年に長篇ドキュメンタリー「ニッポン国VS泉南石綿村」として発表した。 出展:『キネマ旬報』2019年9月上旬号より 制作:キネマ旬報社 【筆者プロフィール】 原一男(はら・かずお) 映画監督。疾走プロダクション代表。1945年、山口県生まれ。 「ゆきゆきて、神軍」(87)、「全身小説家」(94)等で知られる日本屈指のドキュメンタリスト。 新作「れいわ一揆」が待機中。 -
キネマ旬報創刊100周年 企画展『表紙で振り返る 時代を彩った映画スターたち』開催決定!
2019年11月26日©KINEMA JUNPOSHA 1919年(大正8年)に創刊いたしました映画雑誌「キネマ旬報」は、今年、創刊100年を迎えました。 読者の皆さま、関係各社の皆さまをはじめ、これまで「キネマ旬報」に関わったすべての方々のおかげをもちまして、映画とともに100年、歩んで参ることができました。 このたび、100周年を記念いたしまして、 キネマ旬報創刊100周年 企画展『表紙で振り返る 時代を彩った映画スターたち』 と題し、2019年11月29日〜2019年12月11日まで、渋谷Bunkamuraにて企画展(入場無料)を開催させて頂きます。 会場では、1919年7月11日に発行された創刊号をはじめとする、その時代を彩った表紙のパネルや、実際に手に取ってお読み頂けるよう、1950年代以降の「キネマ旬報」約1,000冊を展示いたします。 また、1924年に始まり今年92回を迎えた「キネマ旬報ベスト・テン」のトロフィーや普段目にすることのない映画のフィルム缶など、映画にゆかりのある品々の展示に加え、最新の技術により、展示物にスマートフォンをかざすことで映画情報が得られる「かざして案内(R) for Biz」も体験することができます。 100年続く映画雑誌だからこそ味わえる、ノスタルジーと新たな映画の楽しみ方を発見できる企画展、皆さまのご来場をお待ちしております。 また、来場いただきました際、アンケートにお答えいただきました方には「キネマ旬報」創刊号オリジナルポストカードを差し上げておりますので、ご協力頂けますと幸いです。 キネマ旬報創刊100周年 企画展『表紙で振り返る 時代を彩った映画スターたち』 ●開催場所:Bunkamura Gallery 〒150-8507 東京都渋谷区道玄坂2-24-1 アクセスマップ ●開催期間:2019/11/29(金)~12/11(水) ●開館時間:10:00~19:30 ●主催:株式会社キネマ旬報社 キネマ旬報100周年×Bunkamuraル・シネマ開館30周年記念 特別上映『花様年華』&トークイベント 開催決定! 更に、開催地である東急文化村併設の映画館ル・シネマも今年開館30周年を迎えました。創刊100周年を迎えたキネマ旬報と、開館30周年を迎えたBunkamuraル・シネマ。それぞれのアニバーサリーイヤーを、そして本展の開催を記念して、一夜限りの特別上映を開催いたします。 上映作品はBunkamuraル・シネマにて2001年に公開、同年のキネマ旬報外国映画ベスト・テンで第2位に選ばれた、ウォン・カーウァイ監督不朽の名作『花様年華』。上映前には映画評論家の渡辺祥子さんとル・シネマプログラミングプロデューサー中村由紀子さんによるトークイベントも開催いたします。 キネマ旬報創刊100周年×Bunkamuraル・シネマ開館30周年記念 特別上映『花様年華』&トークイベント 日時:11/29(金) 19:30~ 会場:Bunkamuraル・シネマ 料金:特別記念価格 1,000円均一 ★上映前に記念トークイベントを開催 <登壇者> 渡辺祥子(映画評論家) 中村由紀子(Bunkamuraル・シネマ プログラミングプロデューサー) チケットは3日前の11/26(火)より、ル・シネマ カウンター、もしくはオンラインサービスMY Bunkamuraにてお求めいただけます。 『花様年華』 2000年/香港/98分/Blu-ray 監督・脚本・製作:ウォン・カーウァイ 撮影:クリストファー・ドイル/リー・ピンビン 美術・編集・衣裳:ウィリアム・チャン 出演:トニー・レオン/マギー・チャン 配給:アスミック・エース 切符がもう一枚取れたら、僕と行かないか── 1962年、香港。新聞社の編集者であるチャウと、商社で秘書として働くチャン。二人は同じアパートに同じ日に引越してきて、隣人になる。やがて二人は、互いの伴侶が不倫関係にあることに気づき、次第に時間を共有するように。誰にも気づかれないよう、慎重に会っていた二人。家庭を持つ貞淑な男と女は戸惑いつつも、強く惹かれ合っていくのだった。誰にも言えない秘密を包み込む紫煙、ナット・キング・コールのバラッド、そしてなんといってもチャイナドレスの美しさ──今作でトニー・レオンが第53回カンヌ国際映画祭最優秀男優賞を、そして撮影と美術/衣裳が評価され高等技術院賞を受賞。本作の一部設定や世界観は『欲望の翼』から引き継がれており、さらに後年の『2046』へと醒めない夢は続く。英BBCが昨年発表した「21世紀の名作映画トップ100」リストで、あらゆる名作を差し置いてなんと第2位に輝いた、永遠の愛の物語。 ©2000, 2009 Block 2 Pictures Inc. All Rights Reserved.