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中国の気鋭監督3人の新作、ワン・ビン「青春 -帰-(第2部)「青春 -帰-(第3部)」、ロウ・イエ「未完成の映画」、ジャ・ジャンクー「新世紀ロマンティクス」が公開 【キネマ旬報5月号特集】
2025年4月28日国際映画祭での華々しい実績を誇る、中国の気鋭映監督、ワン・ビン、ロウ・イエ、ジャ・ジャンクー。彼らの最新作がこの春、同時期に公開される。ワン・ビン「青春 -帰-(第2部)」「青春 -帰-(第3部)」は4/26(土)、ロウ・イエ「未完成の映画」は5/2(金)、ジャ・ジャンクー「新世紀ロマンティクス」は5/9(金)から、それぞれ上映スタート。 この3作品の公開にあわせて『キネマ旬報』電子版および4月18日発売の『キネマ旬報』5月号では、特集記事「中国映画作家3人が見た、いまの中国」を掲載している。 [caption id="attachment_49646" align="aligncenter" width="1024"] 「青春 -帰-(第2部)」© 2023 Gladys Glover - House on Fire - CS Production - ARTE France Cinéma - Les Films Fauves - Volya Films - WANG bing[/caption] 57歳のワン・ビン、60歳のロウ・イエ、54歳のジャ・ジャンクー。同世代の3人は改革開放後の中国、極端な格差社会が広がり表現が厳しく規制されている故国を、カメラの目でどのように見ているのか。 「青春」によって「一つの場所、一つの時代が浮かび上がる」とワン・ビンは主張する。「未完成の映画」が中国で公開される可能性はまったくないロウ・イエは、「この映画を完成させること自体が一つの成果だと考えられます。残るのは何か、私には分かりません」と嘆息する。そして「新世紀の最初の21年間を振り返ってみた」ジャ・ジャンクーは「どれだけ多くのことが忘れ去られたのか」気づいたそうだ。 それぞれのやり方で現代中国と向き合っている彼らの映画を、本特集では3人の映画のプロ、四方田犬彦、川口敦子、晏妮が批評している。 [caption id="attachment_49647" align="aligncenter" width="1024"] 「青春 -帰-(第3部)」 © 2023 Gladys Glover - House on Fire - CS Production - ARTE France Cinéma - Les Films Fauves - Volya Films - WANG bing[/caption] ワン・ビン「青春」は中国・織里(しょくり)で働く少年少女の群像を記録したドキュメンタリー。今回上映される第2部、第3部と2024年4月に公開された「青春 -春-」を合わせると、上映時間は実に9時間53分に及ぶ。思わずひるんでしまう程の超長尺だが、四方田犬彦は「(ワン・ビンは)ランズマンの「SHOAHショア」(ナチスによるホロコーストの全容に関係者の証言のみで迫ろうとした、全篇9時間27分の超大作。映画史における偉大な達成のひとつ)をいかにして乗り越えるかという問題意識から出発」していることを強調。「映画的持続こそが映画体験の本質であると考える作家の作品」と大絶賛する。そして川口敦子は「ただただ見続けることで、国と人、歴史的現在へのしぶとい批評の目を浮上させてしまう」ワン・ビンの映画力を称える。そして上海出身の晏妮は「止まることなく、一作ごとに目覚ましく進化していく」ワン・ビンの映像革新に目をみはっている。 [caption id="attachment_49648" align="aligncenter" width="1024"] 「未完成の映画」© Essential Films & YingFilms Pte. Ltd.[/caption] 新型コロナウイルスの感染爆発によって滞在先の武漢のホテルに閉じ込められた撮影クルーと俳優たちを、ドキュメンタリータッチで描いたロウ・イエ「未完成の映画」を四方田は「虚構と現実の間にはもはや境界などとうに消滅してしまったという残酷な認識を観客と共有しようと試みている」と評する。川口は「歴史的現在の切り取り方を断行する、その挑発性にロウの自恃が透けて見える」、晏妮は「国内でタブーとされたコロナ期間を真正面から「記録した」本作は、映画とはなにかを再考させる貴重な一本に違いない」と、その勇気を称えている。 [caption id="attachment_49649" align="aligncenter" width="1024"] 「新世紀ロマンティクス」© 2024 X stream Pictures All rights reserved[/caption] 「新世紀ロマンティクス」ではチャオ・タオ、ジャ・ジャンクーの妻で彼の映画のミューズが、恋人ビンとめまぐるしく変化する街に飲み込まれ翻弄され、出逢いと別れを繰り返す。でも、時間は戻らないからとにかく、前に向かって進むしかない。その彼女のまなざしの美しさに、四方田と川口は撃たれた。「ウイルス蔓延時に顔をマスクで隠した男女が、どのように偶然の再会を果たすことができるのか。女優は目と眉と額だけで勝負をする」(四方田)「その心を意志ある沈黙で体現し、今への怒り、悲しみの先にそれでもなお前を向く覚悟を腹の底から吐き出した「はっ」のたった一言に託し切る」 四方田犬彦、川口敦子、晏妮の作品評全文は、『キネマ旬報』電子版および4月18日発売の『キネマ旬報』5月号内の特集「中国映画作家3人が見た、いまの中国」で読むことができる。 文=キネマ旬報編集部 キネマ旬報 2025年5月号 No.1962 2025年4月18日(金)発売 (雑誌コード:02991-05) 定価1320円(税込) 【詳細・購入はコチラ】 ・Amazon ・KINEJUN ONLINE SHOP -
あまりに痛く、美しいトランスジェンダーの少女がふみだす一歩 映画『Girl /ガール』
2019年7月22日ガールの、この先は峻厳にも薔薇色に染まる (c)Menuet 2018 『ガール』という映画に予備知識もないまま興味をもったのは昨年5月、カンヌの映画祭公式ページで授賞セレモニーの中継を見た時のことだ。カメラ・ドールを受賞した監督ルーカス・ドンと共に登壇した金髪のひとりは、小公子のような黒いリボンで襟元を飾り、消え入りたげな微笑みを湛えてそこにいた。少年とも少女とも見える美しい人の、周囲の空気をしんと澄み返らせるような清冽なたたずまいに惹きつけられてそのまま受賞者たちの会見も見逃せない気持ちになっていた。会見の席でもまた監督の脇にどこまでも控えめにいた彼、ヴィクトール・ポルスターが質問に真摯な答えを返しつつ青白い頬から首筋まで、みるみる痛ましいほどに紅潮させる様がくっきりと目に焼きついた。 薔薇色に染まった肌が象る純真。その痛々しさとも映る記憶。それが、一年を経て見ることの叶った映画『Girl /ガール』のみつめるトランスジェンダーのヒロインの抱えた幾層もの痛みと向き合ううちにふるふると蘇ってきた。トウシューズを着け爪先立ちで踊る女性の踊り手としてバレエを究めること。心身共に女の子になること。そのどちらが欠けても真の自分になれないと思いつめて、文字通り血のにじむレッスンに励み、ホルモン療法、さらには性別適合手術をも希求するララを、水面下のあがきを見せない白鳥の清雅で体現し得るひとり、ポルスターと出会えた監督と映画の幸福を改めて嚙みしめた。 (c)Menuet 2018 実在のダンサーに触発されたドンの映画は、ララの16歳の誕生日に父が語る「いろいろ大変なことはあった」とのひとことで、性のアイデンティティをめぐる外界との闘いをかいつまみ、潔く脇に置く。それよりは、思う通りの自分となるためにララがかいくぐる彼女自身との闘いに焦点を合わせることを選ぶ。確かにララの新人生を祝福する誕生パーティで「3人目の男の子」を妊娠中と実母がきめる脳天気な発言(インタビューで監督も不在と述懐している母をこの場面に敢えて見出してみたいのは、その発言がララ/ヴィクトールをまだ「一人目の息子」と捉える彼女の無意識の罪を示唆すると見ても面白いかもと思えるからだ)のように、悪意なき人のむごさや鈍さ、世界の厳しさを垣間見せはするものの、映画はそれより理解を湛えた大人たちの中で、すべてをひとりで抱え込み「大丈夫」と日々の痛みを裡(うち)に裡にと沈殿させるヒロインの辛さこそを辛抱強くみつめようとする。 ドキュメンタリーのように演技を超えるポルスター (c)Menuet 2018 シングルファーザーとして子供たちと暮らす父とララとの関係はとりわけ印象的だ。「君の名前で僕を呼んで」や「ビューティフル・ボーイ」の父とも通じる彼が注ぐ大きな愛。ゆっくりと思春期を愉しめ、あっという間に終わるから――と投げ掛けられる励ましの言葉。その100パーセントの善意ゆえに、もしかしたら紋切型の反抗も封じこめずにいられなくなるララの辛さがいっそう胸に迫る。そんな父やセラピストや医師の前で、ララは鎧のように微笑みの仮面を纏い続ける。そういえばと思い出すのは20世紀の初め、世界初の適合手術を受けた“デンマークの娘”リリー・エルベを描いた『リリーのすべて』のことだ。妻に後押しされて画家アイナー・ヴェイナーがトランスジェンダーの生を生き始めた自由と、身についた抑制の狭間で臆病な微笑みに閃光然とした瞬きをよぎらせる様。やがて手術によって身体的にも真の自分を全うする時、その瞬きがみごとに駆逐されていく様。演じたエディ・レッドメインはそんなひとりを英国俳優ならではの外側からのアプローチで完璧に形にしてみせていた。 かたやドンの映画はドキュメンタリー然とポルスターの演技を超えた佇まい、さらには肉体そのもののありさまを掬い上げていく。トウシューズを脱いではがされるテープ、血まみれのつま先の赤。レオタードの下の性器のふくらみを押さえつけるテープをはがすとその肌が鞭打たれたように赤く染まっている。そこで目を撃つ痛み。蛇口で水を含み、高窓に風を呼んで耐えるララを苛む肉体的な痛みが心のそれをも射抜き、ひりひりと見る目にも沁みてくる。そうやって日々繰り返される苦闘を記録する映画にやがて痛みの記憶を背負い込むように赤バックの場面がじわじわと増殖していくことも見逃せない。そうして開幕部分、諌める父をしり目に「もう遅い」と望み通り耳にピアスの穴をあけていたララが静かに選ぶデスパレートなその先の一歩――。 『無防備』(市井昌秀監督)と通じる「共感と衝撃」 (c)Menuet 2018 実は本稿をと送って下さった編集の川村さんのメールには市井昌秀監督の『無防備』を見た時の「共感と衝撃」と通じるとあって、最初はひとつもぴんとこなかったのだけれど、事故で子供を生めなくなった女(木下)と臨月の女、ふたりの関係を日々の暮しの中で丹念にみつめた挙句、走り出す映画の先に置かれた無修正の出産シーンを振返る時、目からうろこのような感覚がじわじわと襲いかかってきた。その時の原稿を少し長いが抜粋してみたい。「無論、新たな命の誕生を見届けることで殺意も憎悪も突破して自らも再び新しく生き始めた木下の笑顔のストップモーションに癒しや救いや赦しばかりを探るのはあまりに安易というものだろう。映画は終わり、そこで終わる筈もない世界に向けて観客はまた歩み出さずにはいられない。それでも、苛酷な世界に向けて小さな頭をはみださせた赤ん坊の無防備、その強さをまざまざと目撃した事実は残る。目撃させた映画が、むきだしの命の源を世界に向けて突きつけて露悪趣味とも感傷とも無縁の真空地帯、その峻厳をそこでもぎとっていた事実もまた観客の胸に美しく刻まれているだろう」 ララの薔薇色の痛みの先、選ばれた一歩も同じ峻厳をもぎとっていると思う。 文=川口敦子/制作:キネマ旬報社 この記事は『キネマ旬報』7月下旬号に掲載。今号では『Girl /ガール』の特集をおこなった。川口敦子による寄稿記事はじめ、ルーカス・ドン[監督・脚本]への取材記事を掲載している。(文中敬称略) 『キネマ旬報』7月下旬号の詳細はこちらから↓