成田三樹夫での検索結果

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  • 成田三樹夫

    4男1女の4男。山形大学英文科に入るが、演劇研究会で芸居をやって過ごすことが多く、中退して上京。59年、俳優座養成所に入り、1年落第し12期生として松山英太郎、中村敦夫、山本圭らとともに63年卒業。同年、大映と専属契約を結び、「殺られる前に殺れ」(64)で映画デビュー。以後「宿無し犬」「検事霧島三郎」(64)、「ごろつき犬」「兵隊やくざ」「あゝ零戦」(65)などに出演。端正な容貌からニヒルな雰囲気を発散する敵役として、じわじわ売り出し「座頭市地獄旅」(65)で市と対決する浪人を演じて敵役としての地位を不動のものにした。その後は「新・兵隊やくざ」「氷点」「野良犬」(66)、市川雷蔵ふんする殺し屋に惚れこむやくざを演じて印象的だった「ある殺し屋」や「早射ち犬」(67)、「女賭博師・鉄火場破り」(68)、「あゝ海軍」「眠狂四郎円月殺法」(69)、「女組長」「あぶく銭」(70)などに助演。「犬」シリーズ5本、「兵隊やくざ」シリーズ3本、「女賭博師」シリーズ6本と、当時の大映量産体制を支える人気シリーズに多数出演した。70年、大映を退社してフリーになる。同年の日活「新宿アウトロー・ぶっ飛ばせ」では執念深い殺し屋サソリをやり、主役の渡哲也と対決して生きるか死ぬかの凄絶な戦いを演じた。72年の「影狩り」「影狩り・ほえろ大砲」では石原裕次郎、内田良平と影狩りトリオを組んで幕府の隠密である影を斬りまくり翌73年の「反逆の報酬」では麻薬組織のボスにふんして石原裕次郎、渡哲也と対決した。同年、東映「仁義なき戦い・広島死闘篇」に出演してから、東映実録路線の常連となり、「仁義なき戦い・代理戦争」「現代任侠史」(73)、「安藤組外伝・人斬り舎弟」(74)、「県警対組織暴力」(75)、「実録外伝・大阪電撃作戦」(76)、「日本の首領(ドン)・野望篇」(77)ほか数多くの実録ものに独得の持ち味を発散した。近年は「歌麿・夢と知りせば」「西陣心中」などの地味な作品にも出演して芸域を広げているが、本領はやはり敵役にある。彼の演技の特徴は時代劇、現代劇を問わず、思い入れや腹芸ではなく積極的に動き、いわば前へ前へ出ていって演技を決める切れ味の良さにあり、ドスのきいた低音の口調も魅力の一つになっている。78年の「柳生一族の陰謀」では白塗りの公卿・烏丸少将文麿にふんし、ホッホと奇怪な笑い声を出して柳生一族を斬り捨てて場面をさらっていた。同年のSF「宇宙からのメッセージ」でも地球征服をたくらむガバナス星の皇帝ロクセイア十二世となって千葉真一の正義派と対決。その後は「雲霧仁左衛門」「野性の証明」「赤穂城断絶」(78)、「トラック野郎・一番星北へ帰る」「白昼の死角」「総長の首」「その後の仁義なき戦い」(79)に出演。戦後悪役史に確実に名をとどめる存在といえよう。テレビはTBS『狼のうた』(64)で初出演し、ほかにTBS『土曜日の虎』(66)、東京12『命を賭けます』(71)、NHK『新・平家物語』(72)、日本テレビ『鞍馬天狗』(74)、フジ『編笠十兵衛』(74)、TBS『江戸を斬る●』(77)など。趣味は実力3段の将棋が有名でテレビの将棋番組にも出演している。69年12月に今野温子と結婚、2女あり。

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  • 徹底した娯楽とバイオレンスの巨匠として20世紀後半の日本映画界を怒濤のように駆け抜けた深作欣二。没後20年を迎える今年、改めてその魅力に光を当てるシリーズ企画の第3弾。今回ご登場いただくのは「柳生一族の陰謀」(78)を皮切りに、70~80年代の深作映画で華やかに躍動した“伝説のアクション女優”志穂美悦子さん。長く芸能活動からは離れていても、現役当時と変わらぬエネルギッシュさで、当時の思い出を語っていただいた。 深作欣二との出会い ©東映・東北新社 「宇宙からのメッセージ」 ◎東映チャンネルにて6月放送 志穂美: 亡くなられて、もう20年にもなりますか。深作監督、たしかにそう言ってくださいました。いま思い出しても、涙が溢れそうになります。 ──2023年4月、志穂美悦子は遠い目となった。1981年に刊行された山根貞男責任編集『女優 志穂美悦子』(鈴木一誌造本・写真構成による志穂美への愛に溢れた本だ)に深作欣二が寄稿している。その文章には、「いつまでもカラテ女優でもあるまい」と新聞記者に謗(そし)られ泣いて悔しがった志穂美に深作がこう言ったと記されている。 「肉体こそが俳優のことばなのだ。その肉体を君ほどみごとに駆使出来る女優は日本にいない。それを君は誇っていい。見ていたまえ、今にきっと君の価値が花開く時が来るから」   そののち、深作は「里見八犬伝」(83)、「上海バンスキング」(84)で志穂美の新境地を拓(ひら)き、「里見八犬伝」の桜吹雪の中での志穂美の殺陣(たて)から、絢爛にして過剰な1980年代の深作映画が幕を開ける──。 志穂美: 深作監督には、本当にお世話になりました。映画人として大きくしていただいたと思っています。 深作監督と最初にお目にかかったのは東映京都撮影所でした。「新仁義なき戦い 組長最後の日」(76)の撮影を一方的にですが、覗いたんです。第1ステージ前の広場で、乱闘シーンを撮影するために煌々(こうこう)とライトが灯っていました。そこに人一倍大声を出している人がいる。台詞を言いながら走っているから、俳優さんだと思っていたんです。「あれが深作欣二監督だよ」と殺陣師(たてし)の菅原俊夫さんが教えてくれました。かっこいいんですよね。でも、話すと水戸弁で親しみやすい方でした。私は子どもの頃からアクションが好きで、弟と物置の上から飛び降りて写真を撮ったりしていたんです。運動神経はあるほうでしたけど、だからといって殺陣ができるわけではない。ただただ、アクションをやりたい、と妄想していたんです。最初は、東京の早稲田大学教育学部教育学科へ行こうと決めていました。そこから文学座などの劇団に入って芝居をやっていれば、好きな殺陣をやらせてくれるんじゃないかと思っていた。絶対やりたいと思うけれど、何もできない。そんなふうに悶々とする東京に出てくるまでの岡山での二年間が、人生で一番苦しかったかもしれないです。その頃、週刊誌を読んで知ったのが千葉真一さん主宰のジャパンアクションクラブ(JAC)でした。TVの『キイハンター』で千葉さんを見て電流が走るほど感動していましたから。絶対にここへ行きたい、と思いました。 そして、映画の世界に入り、18歳で「女必殺拳」(74、山口和彦監督)に主演しました。映画の仕事はとにかく楽しかったんです。演じるって楽しいですし、監督さんたちもよくしてくださいました。そうしたなかで、深作監督に出会うことができ、公私ともにお世話になりました。 70~80年代の深作監督と並走 ©東映 「柳生一族の陰謀」 ◎東映チャンネルにて6月放送 (右は千葉真一)  ──1978年、「仁義なき戦い」(73)から始まった実録やくざ映画路線に終止符を打ち、深作欣二は時代劇とSFに挑む。「柳生一族の陰謀」(78)で志穂美と初仕事をした深作は、「宇宙からのメッセージ」(78)で志穂美を宇宙に連れ出したばかりか、得意のアクションを封じ、芝居で勝負させた。 志穂美: 私が21歳のとき、JACでトレーニングを積んで、京都に乗りこんで時代劇の殺陣をやったのが「柳生一族の陰謀」です。私は萬屋錦之介さん演じる柳生但馬守の娘、茜役。錦之介さんには恐れ多くて近づいてさえいません。いま思えば、何かお話すればよかったなあと後悔がつのります。 深作監督は殺陣をやるときに自ら動かれるんですよ。上野隆三さんが殺陣をつけられて、深作監督も身振り手振りでアイデアを出されて。おそらく女性でそういうことができる俳優がほかにいなかったからでしょうけど、私が殺陣で動けば動くほど、監督は喜ばれるんです。だから、殺陣の場面が増えていったんじゃないかと思います。 一緒に殺陣で組んだ成田三樹夫さん、素敵でしたね。白塗りにされて、眉をちょこんと書かれた烏丸(からすま)少将文麿(あやまろ)の姿を見て、綺麗だな、かっこいいなあと思いました。役になりきって演じられていました。 次に深作監督の作品に出演したのは時代劇から一転してSFの「宇宙からのメッセージ」。奈良の生駒に惑星のロケセットを組んで、宇宙船も造って、その中で私がエメラリーダ姫を演じました。ヴィク・モローさんと共演できたのは感慨深かったですね。『コンバット』の「軍曹」は家族中で見ていましたから。  ──その後1981年、深作は志穂美が主演した舞台『柳生十兵衛 魔界転生』の演出を務めた。 志穂美: あるとき私が、「これから歌って踊って魅せる時代が来る、JACはこんなに動けるんだから舞台をやりたい」と千葉さんに直訴して、真田広之君も巻き込んで、踊りのレッスンをはじめました。当時、TVで放送していた『ソウル・トレイン』なんかを見て刺激を受けていたんです。だから、この舞台(『柳生十兵衛 魔界転生』)ができたことが嬉しかったですね。当時は真田君人気でJACのオーディションをやると1日で3千人が受けに来た。そこからできる人たちを集めて舞台を作りました。 これは映画「魔界転生」(81、深作欣二監督)の舞台版で、映画で沢田研二さんが演じた天草四郎時貞を女性に変えて、私が演じました。宙吊りになって私が一人で登場する。降りてから薙刀(なぎなた)を持って「全知全能の神よ!」と叫ぶんですが、そのあとも一人で言うセリフが2~3頁ずうっと続くんです。あの頃はそれも一瞬で覚えられたんですよね。 深作監督は演出のとき、とにかく舞台の上を走り回るんです。演出家というと客席から舞台を見て意見を言うものですが、深作監督は客席にいるのを見たことがないんです。いつも私たち、役者と一緒の側にいて、一緒に作ってくださる監督でした。  ──そして、「里見八犬伝」の犬坂毛野、「上海バンスキング」のクラブの歌姫・リリーが深作と志穂美の最後の仕事となる。 志穂美: 「里見八犬伝」のときは、「悦っちゃん、蛇持てる? 首に巻ける?」──最初に深作監督からそう言われて、「えッ!?」となりました。「観光地の記念写真みたいにニシキ蛇を首に巻いて登場するのが毛野のイメージなんだ」と。それぐらいのインパクトが欲しかったんだと思うんです。それで蛇に慣れようと、伊豆のジャパン・スネークセンターにも行きましたが、前世で蛇と何かあったのか、私にはとても無理(笑)。「監督、自分なりの努力はしてきました。けれど、蛇には触れないし、巻きつけるなんて無理です」と言いました。諦めてくれたのでしょう。代わりに、作り物の大蛇にグルグル巻きにされて私自身が飛びましたが、それは私にとって初のワイヤーアクションのシーンでした。 私が登場する場面にも、最後の場面にも桜吹雪が散っています。それが監督のイメージだったんでしょうね。散らすために用意された花びらが100枚ぐらい綴られていて、照明待ちの1時間半ぐらいの間に一枚一枚剝かなければならないんです。深作監督とスクリプターの田中美佐江さんと私で、一緒にずうっとその単純作業をしました。なかなか、そういうことまでなさる監督さんっていませんよね。そうしたら深作監督が「いいなぁ」とおっしゃるんです。監督として現場でいろいろと考えなければならないときだったと思うのですが「無心になれるなぁ、これがいいんだよ」って。そのひとことをすごく覚えています。 「上海バンスキング」は、オンシアター自由劇場の舞台を見ていましたから「松坂慶子さんと一緒に歌って踊ってほしい」と依頼をいただけて、嬉しかったです。映画賞を総ナメにした「蒲田行進曲」──私も一場面だけ出演させてもらいましたが──のメンバーが再び集 まった映画に参加できるのも、本当に嬉しかったですね。 リリーは中国人なので、カタコトの日本語しかしゃべれません。さらに私にとって初の奥さん役ですから、どういうふうに演じたらいいのだろうと思って、深作監督とディスカッションをさせてもらいました。そこで「切なさを出すようにしよう」「純粋に夫の亘(宇崎竜童)を愛しているんだから、健気さを出そう」とエスコートしてくださったんです。少女が空手をする「女必殺拳」シリーズで女優人生をスタートして10年、28歳になって演じたリリー役で、「この子、色気もあるよ」と私の女っぽい部分を引き出そうとしてくださったのかな、と思っています。深作監督は、私のことをずっと見てくださっていたんですね。 深作欣二の〈故郷〉 志穂美: このあと「二代目はクリスチャン」( 85 、井筒和幸監督)に主演して、「男はつらいよ 幸福の青い鳥」(86、山田洋次監督)にも出演します。ですが、深作監督とはご一緒する機会がないまま……やがて結婚して、私は映画を封印してしまったんです。だから話題になった「バトル・ロワイアル」(00)も拝見していません。家庭を作りましたし、子育てをしなければならないので、最近まで映画は観ないようにしていたんです。本質的に映画に出ることが好きなので、観ると血が騒ぎ出してしまいますから。 私が映画に出演させていただいた頃は、本当にいい時代でした。時代も私に味方をしてくれたんだと思います。だからこそ、私はスクリーンの中で「戦う女」でいられました。だって私、お茶の間でご飯食べたりなんて似合わないですもん(笑)。自分が一番目指して、普通はなれないものになることができた。職業にできた。そのことが、自分の人生において、本当に素晴らしいことだったと思っています。 そんな映画の世界で深作監督と出会うことができました。深作監督の生い立ちのこととか、もうちょっと興味を持って聞いておけばよかった、といまにして思うんです。深作監督は〈故郷〉(ふるさと)という曲がお好きでした。うさぎ追いしかの山……水戸でのご自分の原風景と重ねられていたんでしょうね。   ──かつて深作とともにスクリーンを沸かせた志穂美悦子は現在、フラワーアレンジメントを手がける「花創作家」として活動し、依頼があると巨大な花を活ける。そして今も筋トレをし、動ける身体を維持しているという。「90歳になったときにアクションおばあちゃんをやってみたい」と話す口調は、あながち冗談でもなさそうだ。 取材の最後に、志穂美が薬師寺の聖観世音菩薩に手向けた5千本の花の写真を見せてもらった。絢爛でありながら寂として、深作欣二が好きだった桜吹雪の匂いがした。 取材・文=伊藤彰彦 撮影=近藤みどり 制作=キネマ旬報社(キネマ旬報2023年4月上旬号より転載)   志穂美悦子[元俳優・花創作家] しほみ・えつこ/1955年生まれ、岡山県出身。72年、千葉真一主宰のジャパンアクションクラブ(JAC)を受験し合格。「女必殺拳」(74)で映画初主演。本作はシリーズ化され日本初のアクション女優として人気を博す。「華麗なる追跡」(75)、「女必殺五段拳」(76)など主演作のほか、千葉やJACの弟分・真田広之と共演した助演作も多い。87年、結婚を機に芸能界を引退。2010年から花の世界に魅せられ、フラワーアレンジメント作品の制作を開始。13年、奈良明日香村での天武天皇御陵献花をはじめ、各地で展覧会やステージパフォーマンスを披露している。 深作欣二 ふかさく・きんじ:1930年生まれ、茨城県出身。53年、東映に入社。「風来坊探偵 赤い谷の惨劇」(61)で監督デビュー。67年からはフリーとして東映、松竹、東宝、大映などでも活躍。73年から始まった「仁義なき戦い」シリーズは大ヒットを記録。同作を筆頭とする実録ヤクザ映画、現代アクションをはじめ、SF、時代劇大作、伝奇物、文芸物など幅広いジャンルの娯楽作品を手掛ける。実質的な遺作となった「バトル・ロワイアル」(00)まで、生涯に手掛けた長篇劇場映画は全60作。2003年、ガンのため死去。享年72。   『没後20年総力特集 映画監督 深作欣二』 ◉東映チャンネルでは1月から9カ月にわたり、全51本という過去最大級の規模で監督作品を特集放映。代表作から希少なドキュメンタリー作品まで、反骨のエネルギーにあふれた数々の作品を、ぜひこの機会に! ▶東映チャンネルの公式サイトはこちら ★2023年6月放送予定 【まだ間に合う!見逃し深作欣二】 ●柳生一族の陰謀 4Kリマスター版 13日(火)12:30-15:00、30日(金)11:00-13:30 ●赤穂城断絶 6日(火)12:00-15:00 ●バトル・ロワイアル 4Kリマスター版[R15+] 13日(火)22:00-24:00 ●バトル・ロワイアルⅡ【特別篇】REVENGE[R15+] 14日(水)22:00-24:50 ●宇宙からのメッセージ 2日(金)23:30-25:30、15日(木)22:00-24:00 【没後20年総力特集 映画監督 深作欣二 Vol.6】 ●資金源強奪 5日(月)20:00-22:00、15日(木)13:00-15:00、22日(木)21:30-23:30 ●暴走パニック 大激突 6日(火)20:00-21:30、12日(月)22:00-23:30、19日(月)21:30-23:00 ●白昼の無頼漢 7日(水)20:00-21:30、11日(日)22:00-23:30、20日(火)21:30-23:00 ●ギャング対Gメン 8日(木)20:00-21:30、16日(金)11:00-12:30、26日(月)23:00-24:30 ●ギャング同盟 9日(金)20:00-21:30、21日(水)13:30-15:00、27日(火)23:00-24:30 ●脅迫(おどし) 10日(土)20:00-21:30、16日(金)12:30-14:00、21日(水)21:30-23:00
  • 菅原文太が主人公・広能昌三を演じた「仁義なき戦い」シリーズ全5作品が、日本映画専門チャンネルで、2月26日(土)、27(日)に4Kニューマスター版で一挙放送される。そこで当時の製作背景に迫ってみたい。 一癖も二癖もある連中が蠢く群像劇 今では老若男女が知る実録やくざもののビッグネームとなっている。第1作「仁義なき戦い」が封切られ大ヒットした73年は、再生日活のロマンポルノも活況を呈しており、まさにやくざとポルノの時代であった。 重要なのはこのシリーズが全て東映の京都撮影所で撮られていることだ。ご存知のように東映は京都太秦の京都撮影所と東京大泉の東京撮影所と東西二つの撮影所がある。撮影所システムがほぼ崩壊してしまった現在はともかく、51年の東映創立よりしばらくは〝時代劇の東映〞がキャッチ・フレーズで京撮こそが東映の本流であった。任俠ものの嚆矢と言われる鶴田浩二主演「人生劇場 飛車角」(63・沢島忠監督)は東撮であった。だが企画者で撮影所長であった岡田茂が京撮へ移動したことから、同じ鶴田主演の「博徒」(64・小沢茂弘監督)が本格的任俠路線第1作として京撮で撮影された。かくして任俠路線も京撮が中心となって製作されることになった。 その任俠路線の主導的プロデューサーが俊藤浩滋で、鶴田浩二、高倉健、藤純子、若山富三郎、菅原文太といった任俠スターのマネージメントも手掛ける絶対的存在であった。だが10年近く続いた任俠路線も徐々に翳りが見え始め、俊藤も岡田も新規路線を模索していた。特に岡田は社長に就任したばかりで、新たな鉱脈探しは急務であった。そんな様々な思惑の中で俊藤が広島やくざ、美能幸三の手記を基に飯干晃一が書いたノンフィクション『仁義なき戦い』を読み映画化を主導した。京撮を選んだのは、時代劇・任俠路線と続く東映京撮こそ本流という意識があってのことだろう。 深作欣二を監督に起用したのは、任俠路線の監督では適応し切れない原作のピカレスクな味わいを出せる監督という見識故か。深作は「現代やくざ 人斬り与太」「人斬り与太 狂犬三兄弟」(以上72)で、義理人情クソ食らえのアウトローを主人公に従来の任俠路線とは一線を画した作風で頭角を現しており俊藤も目をつけていた。俊藤は日活「㊙色情めす市場」(74)を観て感心し、監督の田中登を何と高倉健主演「神戸国際ギャング」(75)に起用した剛のものである。脚本の笠原和夫は、原作の味を消さぬため従来のスター主義ではなく一癖も二癖もある連中が蠢く群像劇として、戦後史を背景に投影しつつ描きあげた。急速ズーム、ハンディカメラによる手振れを物ともしないカメラワークの多用など、従来の京撮では考えられない深作の過酷な要求を、撮影の吉田貞次と照明の中山治雄のコンビが見事にクリアしてシリーズすべてを走り抜けた。 主人公だが時には狂言回しとなる広能昌三役の菅原文太は、新東宝・松竹を経て外様である東映において、ようやく決定的な当たり役にめぐり合った。今や菅原文太=「仁義なき戦い」と言っても過言ではない。狡猾・吝嗇だが、どことなく憎めない広能の親分、山守義雄に扮した金子信雄にとっても彼の集大成とも言える当たり役で、菅原文太と共に表裏の顔となった。殺されてもゾンビのように違う役で復活する松方弘樹、梅宮辰夫、渡瀬恒彦らも楽しい。そして京撮の大部屋俳優たちで結成された〝ピラニア軍団〞が大挙出演した。本作を群像劇と称する深作は彼らにもスポットを当てて、それが作品の活性化にも繋がっていた。川谷拓三、室田日出男は一躍売れっ子俳優となった。 シリーズ最高傑作と謳われる「仁義なき戦い 代理戦争」 シリーズの脚本構成がまだ固まっていないため、スピンアウト的に製作された「仁義なき戦い 広島死闘篇」(73)は、俊藤がプロデューサーを外れて以降、東映本社の主導となった。文太は狂言回し的役割となり、山中正治役の北大路欣也と大友勝利役の千葉真一が主人公で、壮絶な対立を展開した。大友勝利は「仁義なき戦い 完結篇」(74)でも登場するが、この頃の千葉は空手映画で忙しく宍戸錠が代演した。 シリーズ最高傑作と謳われるのは第3作「仁義なき戦い 代理戦争」(73)で、ここから広島やくざ戦争が本格的に描かれていく。明石組(山口組)VS神和会(本多会)の二大勢力の対立なのだが、実際に対立するのは、それぞれの下部組織による代理戦争。ドンパチはシリーズの中でも少なめなのだが、登場する連中の権謀術策をめぐらす魑魅魍魎ぶりが無類の面白さで、随所に漂うブラック・ユーモアも味わいがある。本作より武田明役の小林旭と打本昇役の加藤武が登場して作品に厚みを加えている。 第4作「仁義なき戦い 頂上作戦」(74)は、笠原和夫が広島やくざの終焉まで描いたので「もうおしまい」と言うように、事実上の完結篇。菅原文太と小林旭が、粉雪が舞い込む寒々とした裁判所の廊下で「間尺に合わん仕事したのう」「辛抱せいや」と言って別れるラストは、シリーズの完結に相応しかった。だがヒット中のシリーズを東映が手放すわけもなく「仁義なき戦い 完結篇」が作られた。脚本は笠原が降りて高田宏治が書いたが、似て否なる感はぬぐえなかった。シリーズはまだ終わらずこの後も「新 仁義なき戦い」(74)「新 仁義なき戦い 組長の首」(75)「新 仁義なき戦い 組長最後の日」(76)が作られた。   ※本文は「キネマ旬報3月上旬号」から転載したものです。 文=ダーティ工藤 制作=キネマ旬報社 ◆2月26日(土)よる10時〜 「仁義なき戦い〈4Kニューマスター版〉」<R-15> 監督:深作欣二 原作:飯干晃一 脚本:笠原和夫 出演:菅原文太、松方弘樹、渡瀬恒彦、伊吹吾郎、中村英子、川地民夫、名和広、内田朝雄、内田朝雄、田中邦衛、梅宮辰夫   ◆2月26日(土)よる11時50分〜 「仁義なき戦い 広島死闘篇〈4Kニューマスター版〉」 監督:深作欣二 原作:飯干晃一 脚本:笠原和夫 出演:菅原文太、千葉真一、梶芽衣子、山城新伍、名和広、成田三樹夫、松平純子、前田吟、金子信雄、遠藤辰雄、小池朝雄、北大路欣也   ◆2月26日(土)深夜1時40分〜 「仁義なき戦い 代理戦争〈4Kニューマスター版〉」 監督:深作欣二 原作:飯干晃一 脚本:笠原和夫 出演:菅原文太、小林旭、池玲子、堀越光恵、中村英子、渡瀬恒彦、山城新伍、金子信雄、木村俊恵、成田三樹夫、加藤武、田中邦衛、丹波哲郎、梅宮辰夫   ◆2月27日(日)よる10時〜 「仁義なき戦い 頂上作戦〈4Kニューマスター版〉」 監督:深作欣二 原作:飯干晃一 脚本:笠原和夫 出演:菅原文太、梅宮辰夫、黒沢年男、田中邦衛、金子信雄、小池朝雄、内田朝雄、遠藤太津朗、加藤武、松方弘樹、小林旭   ◆2月27日(日)よる11時50分〜ほか 「仁義なき戦い 完結篇〈4Kニューマスター版〉」TV初 監督:深作欣二 原作:飯干晃一 脚本:高田宏治 出演:菅原文太、北大路欣也、松方弘樹、野川由美子、桜木健一、山城新伍、伊吹吾郎、田中邦衛、宍戸錠、金子信雄、小林旭   特設サイト:日本映画専門チャンネル
  •  2021年に、日活ロマンポルノは生誕50年の節目の年をむかえました。それを記念して、「キネマ旬報」に過去掲載された記事の中から、ロマンポルノの魅力を様々な角度から掘り下げていく特別企画「あの頃のロマンポルノ」。キネマ旬報WEBとロマンポルノ公式サイトにて同時連載していきます。  今回は、「キネマ旬報」1975年9月上旬号より、寺脇研氏による「プロフェッショナル藤田敏八」の記事を転載いたします。  1919年に創刊され100年以上の歴史を持つ「キネマ旬報」の過去の記事を読める貴重なこの機会をお見逃しなく! プロフェッショナル藤田敏八  『野良猫ロック ワイルドジャンボ』(70)、『八月の濡れた砂』(71)での、若者たちを溶かし込んでしまうような、激しい夏の光は印象的だ。日が眩む強烈な光の氾濫の中で、肢体が躍動する。  藤田敏八にとって、夏の思い出は、朝鮮で過ごした少年時代と重なる。半島の乾いた夏だ。父親が朝鮮鉄道の社員だったため、生地の平壌をふりだしに、各地を転々とした。日本人学校だけでなく、現地の子たちと共学の学校に通った土地もある。そこで、さまざまな形での差別を見、子供心にそれを理不尽に感じたという。だが、植民地生活の深刻な部分は、子供たちの耳目に入らないようになっていた。のびのびと、平和な少年時代。朝鮮の夏を、彼は今も懐かしむ。  朝鮮で迎えた13回目の夏、8月15日が来た。特別な感慨は覚えなかった。父は勤務の都合で北部におり、母と弟妹とともに、彼は釡山にいた。食べるため、貨車から大豆を盗んだりしたのを記憶している。自分が家族を守っていかねばならない、という気負いを感じていた。まだ中学2年生の少年には、重すぎる体験だったに違いない。  父親が戻らぬまま、一家は郷里の三重県四日市に引揚げた。地元の中学に編入する。引揚げ者としての疎外感を味わった。やがて抑留されていた父が帰国し、再び家族が揃う。高校は県立四日市高校。あまり本を読んだりしなかった。映画も見ていない。もっぱらスポーツに打込んだ。陸上競技部に属した。チーム競技でなく、個人の筋肉や瞬発力がそのままの形で発揮されるスポーツを選んでいるのが興味深い。その一方では、アルバイトで石鹸の行商などをしていた。  家庭は、ごく普通の小市民生活だった。父親は、まじめな人で、ことさら厳格というわけでもなかった。母親は、教師の経験もある人だったが、教育熱心で口うるさいなどということはなかった。それでも、周囲には、何となく息苦しい雰囲気があった。母方の叔父が県知事や国会議員をつとめる政治家であったりして、そうした権力への志向性が、まわりに色濃かったのだ。これに反撥していた。また、主体性がはっきりしない、三重県人のあいまいな県民性も厭だった。5年余り過ごした四日市の町を、彼は今でも好きになれないという。  “非行少年”ではなかった。闇市に出入りしたようなことはあったけれど、本格的な非行はしていない。“非行少年”というのが、今のように軽いイメージと違う。犯罪者同然に見られている時代だ。  家は、大学なぞ行かなくてもーーだったが、一浪の後、東大に入学し、上京する。将来については、別にどうとは考えていなかった。だから、駒場の教養学部では、バスケット部にはいったりして、普通に学生生活を始めた。学内の駒場寮にいたせいもあり、授業にも良く出席。  2年のとき、合演というサークルで演劇活動を始める。福田善之(劇作家)、渡辺文雄(俳優)などが一緒だった。芝居に、急速に惹かれだす。映画は念頭になく、演劇を志した。戦後の新しい新劇が生まれようとしていた頃だ。夢中になる。  本郷の文学部、仏文学科へ進む。当時は教養から学部へ移るとき試験があり、仏文は人気学科だったから難問だった。同級に石堂淑朗(作家)、井出孫六(作家)、種村季弘(詩人)、そして吉田喜重。ここでは、もう、ほとんど授業には出なかった。  で、その代わり、俳優座の養成所に通っていた。養成所5期生。ここでの同期は矢野宣、平幹二朗、亡くなった木村俊恵ら。かたわらでアナウンス学校にも通った。もし、そのまま俳優の道を歩いていたら、と想像してみるのは楽しい。俳優・藤田敏八。さぞ個性的な性格俳優になっていたろう。監督となっている現在でも、風貌を買われて、しばしば画面に登場するくらいだから。  後に『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』(70)で、成田三樹夫を初めて使ったとき、ボクは養成所で先輩だと言って驚かせたという話がある。 ▲『八月はエロスの匂い』の撮影中の藤田敏八監督  まだ、新劇俳優で食っていくのが難しい世の中だった。役者では生活していけぬ、と思い、どこか就職しようと考えたが、行きたいところは、もう皆、試験が終わってしまっていた。残るは映画会社だけ、というので、日活と松竹に願書を出した。特に映画をやりたかったわけではない。成りゆきのようなものだった。ただ、映画は、養成所時代あたりから、熱心に見るようになっていた。日本映画では木下恵介のファンだった。『女の園』(54)などが印象に残っているという。  結局、知人のいた日活だけを受けた。映画全盛期にはいろうとする頃で、縁故者の推薦制にもかかわらず、800人近い受験者があり、その中から11人が採用された。試験官には中平康や鈴木清順がいた。創作試験のテーマは「窓」。窓のない、密室の物語を作った。合格。昭和30年。前年に製作を再開した新生・日活の3期組だ。他に遠藤三郎、千野皓司がいる。  多摩川撮影所に行くと、いきなり市川崑組『青春怪談』に放り込まれた。助監督の仕事がどんなものなのか、カチンコを鳴らすくらいしか知らなかった。五里霧中。すぐ次には西河克己組、滝沢英輔組--と、息つく間もなく5本、1年目につく。チーフ助監督だった舛田利雄や蔵原惟繕に鍛えられた。  助監督生活は辛く、特に映画をやりたくてはいったわけではないから、いつやめてしまおうか、と考えていた。そんなとき、ブニュエルの『忘れられた人々』を見る。刮目した。映画そのものを見直した。これほどまでみごとに自分のイメージを作り出せるのか、と。初めて、自分の映画を作りたい、という気持になった。  日活多摩川は、若々しい活気に満ちていた。次々と新しい才能が登場していった。助監督として、蔵原組を中心に、多くの作家についた。蔵原惟繕『愛の渇き』(67)の脚本が名高い。  そろそろーーと思っていた昭和42年、監督昇進の話が出た。番組に穴があき、吉永小百合ものの併映作が急遽必要になって、何かないか、ということになったのだ。前々から気になっていた、シナリオ誌所載のひとつの脚本を、企画として提出した。未知の間柄だったが、その作者は、松竹助監督の広瀬襄。そして、封切日に追われるあわただしい撮影。ーーこれが、『非行少年 陽の出の叫び』(67)だ。  評判になり、次に、浦山桐郎ら2監督と共同で『日本の若者たち』(68)というドキュメンタリーを撮る。だが、非公開となる※『にっぽん零年』として2002年に公開。しばらく沈黙が続くが、デビュー作の直後に次回作として準備していた企画が世に出ることになる。『非行少年 若者の砦』(70)。これが、いわゆる日活ニュー・アクションの先駆けとなった。  日活は傾き始め、ダイニチ映配が発足する中で、『野良猫ロック ワイルドジャンボ』(70)。ホリ・プロの歌謡映画を、もののみごとに自分の世界のものにして、若さを描きとった。『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』(71)『野良猫ロック 暴走集団'71』(71)『八月の濡れた砂』(71)ーと続く。  藤田敏八の映画作家としての声望が高まるのとうらはらに、日活は窮地に陥り、ポルノへ転進した。最初、ポルノは撮れない、と思ったという。性表現が100%可能でない限りは、真に性を描けないと考えたからだ。性表現には、0か100かしかないという姿勢だった。 けれど、日活ポルノが当局に摘発され、裁かれる事態が生じたとき、ポルノを作らねばならぬ、と決心した。大きな力で圧してくるものに対し、手むかわずにはいられなかった。『八月はエロスの匂い』(72)『エロスの誘惑』(72)『エロスは甘き香り』(73)。しかし、ポルノはやはり体質に合わず、これらの諸作も、性そのものを主題にすることはできなかった。                        ▲『八月はエロスの匂い』より  以後、東宝で『赤い鳥逃げた?』(73)『修羅雪姫』(73)『修羅雪姫 怨み恋歌』(74)。秋吉久美子三部作と言われる『赤ちょうちん』(74)『妹』(74)『バージンブルース』(74)。そして、加藤彰と合作の『炎の肖像』(74)。不評だった「修羅雪姫」シリーズの、錦絵風の明治から現代が浮かび上がってくる感じと、耽美的な画面が印象に残る。  前作から半年余、次回作の予定はないという。現在の日本映画の状況に、少なからず絶望しているという。撮らないことによる自己主張。だが、映画作家は作品でものを言わなければならない。三島由紀夫の「美しい星」など1ダース近くもあるという企画が、作品の形をとることを待ち望みたい。  ニュー・アクションの作品群で連帯の熱さを描いた70年。秋吉久美子を得て、人間の絆の脆さを持ち出すことで連帯に背を向けた74年。時代と自己、自己と時代のかかわりを見つめていこうとする藤田敏八監督、次はどのような状況を掴むのか。  75年、夏。その長身が、なぜか弱々しく見えてしまう。「『新幹線大爆破』のような秀れた映画がヒットしない現実を映画人は自身の痛みとして感じるべきだ」という言葉が忘れられない。  愛称‟パキさん” 。彼ほど同業者中にファンを持つ人も少なかろう。  自作以外の脚本は『愛の渇き』『戦争を知らない子供たち』(73・共作)など。テレビでの仕事はほとんどなく、「颱風とざくろ」「夕陽ヶ丘3号館」などを伺本か演出しているだけだ。 文・寺脇研 「キネマ旬報」1975年9月上旬号より転載   藤田敏八 / ふじた としや 昭和7年1月16日朝鮮平壌生まれ。弟、妹が1人ずつ。終戦で引揚げ、三重県四日市市で中学、高校時代を過ごす。県立四口市高校から26年東大文学都へ。30年日活に入社。助監督として多くの監督につくが,蔵原惟繕、滝沢英輔などに影響を受ける。 「日活ロマンポルノ50周年×キネマ旬報創刊100周年」コラボレーション企画、過去の「キネマ旬報」記事からよりすぐりの記事を掲載している特別連載【あの頃のロマンポルノ】の全記事はこちらから 日活ロマンポルノ50周年企画「みうらじゅんのグレイト余生映画ショー in 日活ロマンポルノ」の全記事はこちらからご覧いただけます。 日活ロマンポルノ50周年新企画 イラストレーターたなかみさきが、四季折々の感性で描く月刊イラストコラム「ロマンポルノ季候」