フィルモア 最后のコンサート

ふぃるもあさいごのこんさーと
上映日
1973年1月13日

製作国
アメリカ

制作年
1972
レーティング

check解説

ロック・ミュージックの育成と向上に情熱を傾けた名興行主ビル・グレアムが、1965年にサンフランシスコと、ニューヨークに創設したロックの殿堂フィルモア・ウエストとフィルモア・イーストが71年に閉鎖されたことを記念して開かれた、一週間にわたる特別コンサートの模様を生々しくとらえたドキュメンタリー。製作総指揮はクロード・ジャーマン、製作はハーバート・F・デッカー、監督はリチャード・T・へフロン、撮影はアラン・キャップス、アル・キン、ポール・ローマン、エリック・サアーリネンの四人。編集はリチャード・クラーク、ダニエル・ヘーラス、チャールズ・タイトーン。出演はサンタナ、ピル・グレアム、ラム・コールド・ブラツド、ボズ・スキャッグス、ホット・ツナ、ローワン・ブラザーズ、クイックシルパー・メッセンジャー・サービス、ジェファーンン・エアプレーン、ニュー・ライダーズ・オブ・ザ・パーブル・セージ、グレートフル・デッド、イツツ・ア・ビューティフル・デイ、エルビン・ビショップ・グループなど。
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ユーザーレビュー

「フィルモア 最后のコンサート」のストーリー

ビル・グレアムは足かけ6年の間に、サンフランシスコとニューヨークで、最高のロツク・コンサートを演出し、ロック界を牛耳ってきた。フィルモア・ウエストとイーストは、最高のロックの同義語となり、その最盛期にはサンフランシスコの住民たちは、ビル・グレアムとフィルモア・コーポレーションの好意により、一週間ロック・ミュージックを満喫することができた。それは週末の特別コンサート、火曜の夜のオーディション・コンサート、公園における無料コンサート、ビル・グレアム主催のチャリティー・コンサート等々といったものであった。ロックをこよなく愛して、ロック・ファンを大事にした彼が、フィルモアを閉鎖した・理由についてジャーナリストは様々な論議を醸したが、真相は、最近のロック・ミュージックの機構の著しい変化に起因するらしい。フィルモア・イーストの音響装置はサンフランシスコ一であったし、演目も技術と人気によって吟味された。6年の興行期間中、一度も騒ぎを起こさなかったし、聴衆の中にも舞台に馳けあがる人もいなかった。聴衆にポスターなどが無料で配られ、万一の場合に備えて医師を招く用意もできていた。ジェリー・ガルシアをリーダーとするグレートフル・デッドが紹介される。この人ほどギタリストたちに大きな影響を与える音楽はないといわれる。ビル・グレアムは、この人を、最高のロックを代表する人であると推奨している。カルロス・サンタナをリーダーとするサンタナは、彼がまだ若い流しの音楽家であった頃フィルムモアにスコーク・インしようとしてグレアムに発見された。彼はロックにラテン・ドラムと強烈なエレキ・ギターを採用して、それを極限まで高めた。ラムとコールド・ブラッドの二つは、比較的新しい、サンフランシスコ出身のグループで、小数のロック・ファンに盛り上げられ、やがて権威あるロック愛好家たちの支持を得るようになつた。ホット・ツナは事実上、サンフランシスコ・グループの親ジェファーンン・エアプレーンの分身である。エルビン・ビショッブ・グループと新人ローワン・ブラザーズの演奏は、フィルモア・オーガニゼーションの呼び物となったバスケットボールの試合のシークエンスで聞くことができる。この外にグレートフル・デッドを生みの親とするグループであるニュー・ライダーズ・オブ・ザ・パープル・セージのリハーサルも記録されている。ビル・グレアムはフィルモアを閉鎖してから、しばらく休養をとった後、再びコンサート興行に復帰し、選抜したメンバーによるコンサー卜をしばしば催している。

「フィルモア 最后のコンサート」のスタッフ・キャスト

スタッフ
キャスト役名

「フィルモア 最后のコンサート」のスペック

基本情報
製作国 アメリカ
製作年 1972
公開年月日 1973年1月13日
製作会社 メディオン・プロ作品
配給 フォックス
レイティング
アスペクト比 シネマ・スコープ(1:2.35)
カラー/サイズ カラー/シネスコ