祈り 幻に長崎を想う刻の映画専門家レビュー一覧

祈り 幻に長崎を想う刻

劇作家・演出家の田中千禾夫が1959年に発表した戯曲『マリアの首-幻に長崎を想う曲-』を初映画化。1945年8月9日、原爆が長崎市に投下され、多くの市民と共に東洋一の大聖堂といわれた浦上天主堂も被曝。12年後、天主堂跡からマリア像を盗む一味の姿があった。出演は「おみおくり」の高島礼子、「Daughters」の黒谷友香、「椿の庭」の田辺誠一。監督は「ある町の高い煙突」の松村克弥。2021年8月13日よりユナイテッド・シネマ長崎にて先行公開。
  • 脚本家、映画監督

    井上淳一

    この作り手たちに名作戯曲を映画化する畏れはなかったのだろうか。確かに分かりやすく通俗的にまとめられてはいる。しかし、そこからこぼれ落ちているものの多さたるや。戯曲に罠のように張り巡らされた、人間、現実の、二面性多様性。見事にそれらがスルーされている。それこそが演劇→映画の肝のはずなのに。喋るマリアの首が祈りになっていない。原爆も戦争も絶対NOというテーマまでが表層的に見えてしまう。あの世で田中千禾夫が嘆いていまいか。演劇人に笑われていまいか。

  • 日本経済新聞編集委員

    古賀重樹

    戦後演劇の名作『マリアの首』の映画化。田中千禾夫の哲学的かつ詩的なセリフの力をそのまま生かそうとした意図はわかるし、それがなくては『マリアの首』ではない。ただ舞台という非日常空間で屹立した言葉を、現実と地続きの映画の画面で響かせるのはやはり難しい。ケロイドも、原爆症も、夜の女も、ヤクザも、闇市のカオスも、焼け跡での凌辱も、映画なりのリアリティーの強度がなければ、画面は空々しい。想像力に満ちたセリフを受け止めきれず、劇的な言葉に負けるのだ。

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