映画専門家レビュー一覧
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破戒(2022)
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日本経済新聞編集委員
古賀重樹
丑松の内面の葛藤を描く一方で、日露戦争後の国家主義の台頭、同調圧力の高まりといった時代背景を念入りに描いている。そこに現代との共通性を見出したのだろう。わかりやすい図式だが、丑松の悩みそのものはややぼんやりとしてしまった。教室で子供たちに出自を明かし、町を出る丑松に士族の娘が寄り添い、子供たちが泣きながら見送るという終幕も、わかりやすく、メロドラマを盛り上げる。ただ丑松の目的地に具体性がない分、ふわりとした情緒しか残らない憾みがある。
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映画評論家
服部香穂里
同原作の過去の映画化を思い返しても、色々な意味で華や品が必要な丑松役に、間宮祥太朗は適任。見えない差別意識や同調圧力にさらされつつ、自身のアイデンティティに苦悶し葛藤を続ける姿を繊細に好演し、普遍的な共感を呼ぶ。子役も芸達者を揃え、家庭環境など不遇な状況下であれ、可能性に満ちた生徒たちとのふれ合いも丹念に描き、教育の大切さを今改めて問い直す意図は伝わるが、“最後の授業”の場面が胸を打つだけに、それに続くくだりが少々長く、蛇足に見えるのは痛い。
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アルピニスト
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
マーク=アンドレ・ルクレール。カナダ生まれの23歳のアルピニスト。彼は階段の下のスペースで寝起きするような変人。寝袋が破れてたってガムテープ貼って過酷な冬山に行く。彼は束縛を嫌う。急に行方不明になる。制作チームが、「困った」とあたふたしているのが面白い。で、とうとう事故が起こる。やっぱりか。いつこれが来るのかとずっと身構えていた。死ぬことを予感していた若者の、神がかりのようなクライミングが記憶に残る。猿みたいに壁をひょいひょい進む。
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文筆家/女優
唾蓮みどり
すいすいと山の壁を登っていってしまうその姿は、動物的なしなやかさがあり美しい。生活や名誉欲のためではなく、ただ純粋に楽しむためだけの登山する若きマーク=アンドレ・ルクレールの姿に魅了されつつも、命綱がない状況で挑戦することなど、死とあまりにも接近している状態を黙って見ることしかできない状況を手放しに楽しめる余裕が私にはなかった。彼を撮りたい気持ちはわかる。だが本当に気楽に彼の人生を見てしまってよかったのか。何とも言えない葛藤が今も続いている。
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映画批評家、東京都立大助教
須藤健太郎
登山とかクライミングとか何も知らない。もちろんマーク=アンドレ・ルクレールというアルピニストのことも初耳だ。死と隣り合わせの世界。GoProとドローンの映像はいかにもスポーツバー(行ったことないけど)でループ上映されていそうな見目麗しいものだが、こんなすごい人がいるのかと夢中になって見ていた。だからそれだけに、彼の死がこんなかたちで物語化されていることに違和感を抱く。彼の死をドラマの転機とすべきではない。それはこの映画の出発点であるべきだった。
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神々の山嶺
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
登山家なんてみんな変人に決まってる。わざわざ死ぬかもしれないことを意地を張って貫く。アホだけど、冒険ってそれほど人を惹きつけるものなのだろう。慕ってくる若者が、案の定、事故にあって死んでしまう。ほらもう言わんこっちゃない。予想はしていたが痛々しかった。死んでもいいから山に登りたいっていう狂ったやつらの、だからこその連帯にグッとくる。頑なでストイック。実は心優しい。登山家のキャラってみんなこうなのか。もっと変なやつがいても良かった。
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文筆家/女優
唾蓮みどり
山登りについて何の知識がなくとも、いかに登山が過酷なものであるかが伝わってきて何度も息を飲みながら釘付けになっていた。「アルピニスト」がドキュメンタリーであったのに対しアニメーションである本作は、緊張感がありながらも、映像の中で人が死なないという安心感によって集中して見ることができたように思う。フィクションだからこそ織りなすことのできるリアリティだ。シンプルながらも、こと細かに書き込まれた背景からは匂いすら立ちこめていた。
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映画批評家、東京都立大助教
須藤健太郎
写真家の深町は、山を被写体にしようと崇高な自然美には関心がない。彼にとって写真とはあくまで証拠であり、「マロリーのカメラ」にこだわるのはそれゆえである。一方、登山家の羽生はそんなマロリーのカメラを「どうでもいいこと」だと吐き捨てる。写真には大事なことは何も写らないからだ。この作品は「グラン・ブルー」(88)の深海を山頂に転じたもので、通俗的な自殺の審美化にすぎない。そのうえイメージの不可能性に居直る点では「グラン・ブルー」以上に反動的である。
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宇宙人の画家
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映画・音楽ジャーナリスト
宇野維正
説明にテロップを使う怠惰さ、さらにその文章の拙さに「?」となっていたら、中盤から思わぬ展開に。そんな野心的な構成や印象に残るショットなど長所も少なくないのだが、映画として骨格がこれだけガタガタではすべてが台無し。いくら台詞が棒読みでも、あるいは台詞を?んだシーンをそのまま使うのでも、作品内でその基準が一定に保たれていればまだ観られるのだが。ここまで無理をして映画というフォーマットにこだわらなくてはならないほど、今も映画は特別なものなのだろうか?
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映画評論家
北川れい子
ろくでもない世界に絶望し、みんな死んでしまえ、と願うのは、思春期の子供たちにありがちな現象だが、99年生まれという保谷監督は、そんな極端な発想をべースにカラーとモノクロの二つの世界を作りあげ、しかもカラーの世界はモノクロ世界が生み出した自由のない全体主義。発想は子供っぽいが、なかなか侮れない怪力作である。モノクロ世界の舞台がいじめありの中学校なのもリアル。漫画にアニメに写真や特撮、銃にピアノに達磨光現器なる悪人退治道具まで登場、そして巨大観音像!!
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映画文筆系フリーライター。退役映写技師
千浦僚
かなり計算されて、意志的にわけのわからないものになっていると思うが、このわけわからなさだけでもう断然評価したい。呂布カルマが一刀彫の観音像をマイクのように握って説法ラップをかますところで、確実に異様な何かが起こっている、と嬉しくなった。構造上、後半部分が失速してしまっていると思う。前半の妄想世界の全面展開こそが最高の夢であった。そこに浸っていたかった。ただそう感じた者は既に少年とシンクロしている。そのため、観た後、眼から光線が出そうになる。
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シネマスコーレを解剖する。 コロナなんかぶっ飛ばせ
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映画・音楽ジャーナリスト
宇野維正
「東京は反文化都市」「配信を敵視してきた」といった支配人や副支配人の言葉の端々から本心が窺える。自分はそれをはっきりズレていると考える立場だが、だからこそミニシアターが置かれている現状の理解には役立ったし、昨今表面化している日本映画の制作過程における諸問題と地続きであることにも改めて気付かされた(特殊な成り立ちであるこの劇場を過度に一般化すべきではないが)。タイトルに「コロナなんかぶっ飛ばせ」とあるが、本当の問題は「コロナ」ではないはず。
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映画評論家
北川れい子
そういえば以前、シネマスコーレの副支配人、坪井篤史のドキュメンタリー「劇場版?シネマ狂想曲」を観たことがある。ある種の映画を神輿のように担ぎ上げ、ゲストを招いて学園祭的に大はしゃぎ。本作にも坪井副支配人は登場するが、コロナ禍でイベントも開けず意気消沈、退職まで口にする。それに比べると、シネマスコーレ生え抜きの木全純治支配人は、精一杯の言葉と行動で映画文化を守ろうとする。1円に至るまでの収支報告もさることながら、自ら劇場の補修をする支配人に脱帽だ。
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映画文筆系フリーライター。退役映写技師
千浦僚
映画館の運営から離れてかなり経つがその記憶は残っていて、ひとが集うことがひたすらに良きことであり、それがあらゆる意味あらゆる方向にはたらく力であったという感覚があるので、新型コロナ感染症の流行、そのために、集うな、となったことはほんとに憎かった。それは現場の人間ならもっと切実、深刻だろう。現在劇場で流れる映画館の換気の解説映像はこういう意志で、やってできたの? そこなども含め、本作が記録した木全純治氏、坪井篤史氏の奮闘ぶり、情熱には頭が下がる。
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マルケータ・ラザロヴァー
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
ヒロインがもう悶絶死するぐらい美しかった。彼女のことを考えるだけで、幸せな気持ちになる。女の人がこんなに美しいとは! こんな気持ちは久しぶりだ。猥雑で詩的でとことん美しい。もう一人の肉感的な女の人もエロくてたまらん。野生動物だ。どっちの女子もトラウマ級に印象に残る。男どももみんな下品でユーモラスで、エネルギッシュだ。羊を連れた牧師が出てくるのだが、こいつが底抜けにアホで情けなくて大好き。暴力と血にまみれた物語。強烈な描写に我を忘れる。
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文筆家/女優
唾蓮みどり
こんな幸せがあっていいのだろうか。奇跡的としか言いようのない凄まじい映画体験であり、どの瞬間も完璧に作り込まれた映像、すべての登場人物たちの表情に惹きつけられ、この世界にあっという間に吸引されてしまう。完全に映像と一体化したズデニェク・リシュカの作り出す神秘的で魔術的な音楽が、より立体的なものとしてこの身に迫り来て、距離を保てなくなる。マルケータのあやうく鋭い視線に誘われ、喜びとともに朽ち果ててゆく疲弊の快楽に包まれる。映画の完全なる勝利である。
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映画批評家、東京都立大助教
須藤健太郎
舞台は13世紀のボヘミア。なるほど、雄大な風景をともなう壮大な叙事詩である。衣裳や美術などを通して忠実な時代の再現を図り、長期にわたるロケ撮影で役者とスタッフを作品世界に浸透させた。だが、表現としては、この世界がいかに閉じられているかを強調するつくり。わかりやすいのは、台詞にエコーをかける音響処理だろう。教会の内部ならいざしらず、屋外の開かれた場所であっても人物たちの声はつねに反響をともない、あたかも密閉空間の内側にいるかのようなのだ。
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ヘタな二人の恋の話
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脚本家、映画監督
井上淳一
「花束みたいな恋をした」は有村架純と菅田将暉が演じた時点で、普通が神聖化されている気がした。本作は花恋へのカウンターで、普通じゃない人の花束みたいじゃない恋を描く。その姿勢や良し。だから後半、病気に走らず、性格や心の不安定だけで押して欲しかった。いまおかさんの台詞は上手いが、演出がそれを処理するのに汲々としているようだった。最後のセックスで相手の名前を忘れるのなら、台詞で後説するのではなく芝居だけで見せないと。そのぎごちなさも悪くないのだけれど。
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日本経済新聞編集委員
古賀重樹
「うざい」「きもい」とデート相手に罵倒された鬱の女とコミュ障の男。そんな二人が一緒に暮らしてもやっぱりうまくいかないが、そのとことんうまくいかない姿を丁寧に描く。困難が降りかかるたびに、女と男の相寄る力は純度を増すし、二人の欠落感は実は誰もが抱えているものだとわかる。でもやっぱりうまくいかない。極端な設定の女が身近な存在になるにつれ、街山みほがどんどん魅力的になる。走るショットもすばらしいが、仰角で夕空と二人をとらえたロングショットは白眉。
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映画評論家
服部香穂里
実生活ではできれば関わりたくない、互いを高め合うどころか足を引っ張り合っているようでもあり、こじれた拍子に新聞ネタにでもなってしまいそうな危うい男女。先日の某泥沼裁判ではないが、出逢わなければよかった方の運命のふたりの物語かと思いきや、白くまアイスで涼をとり、クレイジーな夏を何度もともに過ごすうちに、真の運命のカップルへと転じていく。自身のことだけで精一杯だった自己中同士が、相手を思いやることで愛を見つける、何気ない“攻め”も光る巧篇。
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