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原田芳雄の関連作品 / Related Work
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ツィゴイネルワイゼン
制作年: 1980特設映画館を作って各地で映画を上映して回るという日本映画の新しい形を目指すことで注目を集めるシネマ・プラセットの第一回作品で、最初の公開は東京タワーの駐車場に作られたドーム型特設劇場で行われた。昭和初期、一枚の奇妙なSP盤に取り憑かれた二組の男女と一人の女を描く。脚本は「おんなの細道 濡れた海峡」の田中陽造、監督は「悲愁物語」の鈴木清順、撮影は「殺しの烙印」の永塚一栄がそれぞれ担当。40点 -
さらば映画の友よ インディアンサマー
制作年: 1979映画を一年に三六五本見ることを二十年続けるとうそぶく中年の映画狂と映画館で甘い夢にまどろむ青年の友情に一人の少女を絡めて描く。脚本、監督は映画ジャーナリストからこの作品でデビューする原田眞人、撮影は「戒厳令」の長谷川元吉がそれぞれ担当。50点 -
原子力戦争 Lost Love
制作年: 1978原子力発電にスポットを当て、青年ヤクザが目撃した、ある港町の原子力発電所をめぐる賛成派と反対派の利権争いを描く。田原総一郎原作の同題名小説の映画化。脚本は「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の鴨井達比古、監督は「祭りの準備」の黒木和雄、撮影は「ある機関助士」の根岸栄がそれぞれ担当。70点 -
大地の砦
制作年: 1978一九六九年の「砂川反戦塹壕行動隊」以来、一貫して反基地闘争を記録し続けてきた星紀市監督作。一九六九年春の反戦塹壕構築から一九七七年秋の米軍・立川基地全面機能停止までの九年間の立川基地撤去闘争を記録した作品。--一九七七年十一月三十日、米軍立川基地は日本政府に全面返還された。戦後三十二年間の米軍駐留時代が終わった。立川基地が飛行場として開設されたのは大正十一年、当時の陸軍飛行第五連隊が立川へ移駐して来た時である。一九六八年二月二日、二・四沖縄ゼネストに呼応して、高さ八メートルの反戦旗を滑走路の北端ぎりぎりに十数本立て、米軍の飛行を実力で阻止しようとする闘いが「砂川反戦塹壕隊」によって始められた。その年四月十八日には拡張のための土地収用認定取り消しが閣議決定され、また、十二月一日には米軍の飛行業務が停止された。七十年夏、塹壕の地主(砂川町基地拡張反対同盟員)から、基地の拡張も中止され、米軍の飛行業務も停止されたのだから塹壕を埋めて返してほしい、という申し入れがなされた。しかし、自衛隊側は、立川基地使用が決まっている現在、塹壕を埋める事は出来ないと主張し、地主と激しく対立した。一九七一年八月二十九日、自衛隊の立川基地進駐阻止の具体的戦術として反戦放送塔が自衛隊立川基地進駐阻止共闘会議の手によって建設された。翌年十二月二十七日、自衛隊は反対派の主張を無視し、立二基地に強行進駐した。そして、立川基地返還後も自衛隊が継続使用している現実に、数多くの問題を投げかけた、米軍・立川基地全面機能停止までの九年間の闘争記録映画である。(16ミリ) -
無宿人御子神の丈吉 黄昏に閃光が飛んだ
制作年: 1973“御子神の丈吉”シリーズ第三作目。恋女房と子供の仇、国定忠治を追って道中をつづける丈吉の前に、次々と強敵が現われ、また殺し合いを演ずる者同士に奇妙な友情が生まれる。脚本は「反逆の報酬」の永原秀一、監督は脚本も執筆している「無宿人御子神の丈吉 川風に過去は流れた」の池広一夫、撮影は「喜劇 泥棒大家族 天下を取る」の岡崎宏三。 -
無宿人御子神の丈吉 川風に過去は流れた
制作年: 1972笹沢左保原作・小説の映画化二作目。妻と子を惨殺された無宿人御子神の丈吉が仇を求めて復讐の旅をつづける。脚本は「無宿人御子神の丈吉 牙は引き裂いた」の石松愛弘、監督は脚本も執筆している同作の池広一夫、撮影も同作の宮川一夫。 -
無宿人御子神の丈吉 牙は引き裂いた
制作年: 1972時代小説に新しい股旅ブームを捲き起した笹沢佐保原作の同名小説の映画化。一度は渡世の足を洗った男が、妻子を惨殺され復讐の旅に出る……。脚本は「現代やくざ 人斬り与太」の石松愛弘。監督は「片足のエース」の池広一夫。撮影は「沈黙」の宮川一夫がそれぞれ担当。 -
木枯し紋次郎「峠に哭いた甲州路」
制作年: 1972笹沢左保原作、渡世人・木枯し紋次郎の活躍を描くTV時代劇シリーズ「木枯し紋次郎」の第3話。シリーズ監修と演出は市川崑。出演は中村敦夫、黒沢のり子、原田芳雄、加藤嘉ほか。2000年2月19日、東京・渋谷ユーロスペースにて「新選組」公開記念として上映。(同時上映:「京」) -
塹壕
制作年: 1971一九六九年二月二日。その日、雪降る砂川の地で反戦塹壕闘争が開始された。二・四沖縄ゼネストに呼応する、本土における沖縄闘争の構築をめざす労働者、学生。市民同志諸君の手によって米軍機の離発着を実力で阻止しようとする、八メートルを越える反戦旗が滑走路の北端ぎりぎりに、約三〇本立てられた。ありとあらゆる米日権力の弾圧をはねのけ、反戦塹壕は「行動隊」「共闘会議」を軸として一九六九年四月十八日の基地拡張中止閣議決定、土地収用行政処分撤回を勝ちとり、一九六九年一二月一日には米軍飛行業務全面中止にまで追い込む闘いを闘い抜いた。だが「立川基地の自衛隊使用方針」が、一九六九年暮れに政府防衛庁から打ち出されて以来、今日まで約一年間、反戦塹壕は、敵権力との対峙を辛うじて維持する形で保ってきたにすぎない。「砂川反戦祭」に代表されるような塹壕主体の堕落解体現象に対する地元の批判として塹壕の地主(砂川町基地拡張反対同盟)から、塹壕を埋めて更地にして返してくれとの申し入れが一九七〇年に発せられた。 -
関東流れ者(1971)
制作年: 1971信じていた伯父貴、兄貴に裏切られ、義理ある組長まで殺された、ヤクザの世界に生きる男の、復讐物語。脚本は、「女子学園 ヤバい卒業」の棚田吾郎と小椋正彦。監督は「土忍記 風の天狗」の小沢啓一。撮影は「女子学園 ヤバい卒業」の安藤庄平がそれぞれ担当。60点 -
野良猫ロック 暴走集団’71
制作年: 1971新宿をネグラにする、自由気ままなフーテンが捲き起こすグループ・アクション。“野良猫ロック”シリーズ第五作。脚本は「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」の永原秀一と「やくざ番外地」の浅井達也。監督は「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」の藤田敏八。撮影も同作の萩原憲治がそれぞれ担当。60点 -
新宿アウトロー ぶっ飛ばせ
制作年: 1970「無頼・殺せ」「無頼より 大幹部」に続く渡哲也の新シリーズ第一作脚本は「野良猫ロック ワイルド・ジャンボ」の永原秀一と「反逆のメロディー」の蘇武道夫。監督は脚本にも参加している「野良猫ロック ワイルド・ジャンボ」の藤田敏八。撮影は「ハレンチ学園 身体検査の巻」の萩原憲治がそれぞれ担当。60点 -
復讐の歌が聞える
制作年: 1968石原慎太郎の原作『青い殺人者』(集英社刊)を彼自身が脚色、これが監督昇進第一作の貞永方久と山根成之が共同で監督したアクションもの。撮影は「天下の快男児」の酒井忠と、「黒部の太陽」の金宇満司。 -
夕映えに明日は消えた
制作年: -1中村敦夫の初主演作品であり、脚本ジェームス三木、監督西村潔、共演原田芳雄と豪華布陣で製作されたが、撮影後内容の協議の結果、お蔵入りとなってしまっていた。1977年12月10日より「任侠外伝 玄界灘」の併営作品として高知東宝で上映されたことがある。