中村登 ナカムラノボル

  • 出身地:東京下谷上根岸
  • 生年月日:1913/08/04
  • 没年月日:1981/05/20

略歴 / Brief history

【文芸映画・女性映画の巨匠として松竹を支える】東京都生まれ。幼いときから浅草六区の映画街に出入りし、1933年東京高等学校を卒業、36年東京帝国大学文学部を卒業した後、松竹大船撮影所助監督部に入る。斎藤寅次郎、島津保次郎、吉村公三郎につき、「風見隆」の筆名でシナリオを書く。当時、吉村、渋谷実、原研吉、大庭秀雄らが相次いで監督に昇進したところだったが、斎藤、島津らベテランが東宝に移籍、小津安二郎の応召などもあり、41年に監督に昇進、文化映画ではあるが「生活とリズム」を撮る。続く同年の「結婚の理想」から劇映画を撮り始める。戦中から戦後にかけて、その温和な性格が禍いしたのか、際立って目立つ作品には恵まれなかった。51年「我が家は楽し」でやっと芽を出す。大船伝統のホームドラマであるが、リアリティを持たせた作劇法が好評を得る。「夏子の冒険」(53)は、松竹カラー映画第2弾で華麗なラブロマンスを展開する。【女性映画の第一線に立つ】55年以降は、岡本綺堂原作の「修善寺物語」(55)、舟橋聖一の「白い魔魚」(56)、永井荷風の「つゆのあとさき」(56)、丹羽文雄の「日日の背信」(58)、梅崎春生の「ボロ家の春秋」(58)などの文学作品が続き、中でも井伏鱒二原作の「集金旅行」(57)はローカルカラーを巧みに取り入れながら庶民の哀歓を笑いとペーソスで見事に描ききった作品。63年の「古都」は川端康成の原作で、幼児のときに別れた双生児姉妹たちの恋模様を綴る。岩下志麻の二役の好演もあって、余韻のある作品となった。曾野綾子原作の「二十一歳の父」(64)は、不幸な家庭をもった若者の悲劇を静かに謳いあげ、小品ながらなかなかの佳作とした。そして66年の大作、有吉佐和子原作「紀ノ川」は“女性映画”の松竹を復活すべく製作された作品で、中村はその期待によく応え、風格ある堂々たる女性の一代記を撮ったのである。その“女性映画の中村”のイメージは確固たるものとなり、67年には「智恵子抄」で精神に異常をきたしていく妻・智恵子を見守る夫の苦悩と夫婦愛を叙情たっぷりに描いた。そこには薄っぺらな感傷ではなく、人生に対する真摯な態度があふれていたのである。以降も「爽春」(68)、「辻が花」(72)、「遺書・白い少女」(76)など、主に女性映画にベテランらしい熟練の腕の冴えを見せた。

中村登の関連作品 / Related Work

作品情報を見る

  • サッちゃんの四角い空

    制作年: 1980
    交通事故で頭に重傷を負い、“植物人間”となりながらも、周囲の人々の献身的な看護で、奇跡的な快復を見せる少女を描く。梶田欽志の原作の映画化で、脚本は「極道社員遊侠伝」の長谷部利朗、監督は長谷部利朗と山田健の共同、撮影は長沼六男がそれぞれ担当。
  • 日蓮

    制作年: 1979
    古代王朝から新興武士へと政権が移りつつあった承久四年(一二二二年)に生まれた日蓮の、言語を絶する迫害をはねのけての布教活動の生涯を描く。原作は川口松太郎、脚本監督は、「遺書 白い少女」の中村登、撮影は「俺は田舎のプレスリー」の竹村博がそれぞれ担当している。
  • 遺書 白い少女

    制作年: 1976
    多感な19歳の少女と、白血病に犯された若き青年画家の悲恋を描く。原作は落合恵子の同名翻案小説。脚本は「この青春」の八木保太郎、監督は「三婆」の中村登、撮影は「港のヨーコ ヨコハマ ヨコスカ」の竹村博がそれぞれ担当。
  • 三婆

    制作年: 1974
    金融業の社長が急死したために、本妻と妾と小姑が同居生活することになり、身寄りのない“三婆”の欲の皮のつっぱった奇妙な三角関係が展開される。原作は有吉佐和子の同名小説の映画化。脚本は「放課後」の井手俊郎、監督は「塩狩峠」の中村登、撮影は「日本侠花伝」の村井博がそれぞれ担当。
  • 塩狩峠

    制作年: 1973
    列車事故を身を挺して車輪の下敷になって喰い止めた国鉄職員の、純愛と信仰に貫ぬかれた生涯を描く。三浦綾子の同名小説の映画化。脚本は楠田芳子、監督は「辻が花」の中村登、撮影は「恋は放課後」の竹村博が担当。
  • 辻が花

    制作年: 1972
    原作は、愛のきびしさを追求して評判の立原正秋の同名小説。脚本は「婉という女」の鈴木尚之。監督は「甦える大地」の中村登。撮影は「初笑い びっくり武士道」の川又昂がそれぞれ担当。