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  • スティーブン・スピルバーグやアラン・ドロンといった世界を代表する映画人と対等に仕事をし、尊敬された日本人はいただろうか? 「世界のミフネ」と呼ばれた三船敏郎 生誕100周年を記念し、創刊100周年を迎えた「キネマ旬報」に過去掲載されたアーカイヴから三船敏郎に関するよりすぐりの記事を「キネマ旬報WEB」にて連載する特別企画。過去に「キネマ旬報」に掲載された記事を読める滅多にないチャンスをお見逃しなく。 第一弾は、1984年5月&6月発売の「キネマ旬報」に掲載された、水野晴郎による三船敏郎本人へのインタビューをお届けします。 戦後最大の国際スター三船敏郎の巻 戦後あの混乱の中で、東宝第一期ニューフェイスとしてスタート。以来、黒澤明監督をはじめとする巨匠たちの薫陶を受けながら、自身も日本映画の柱となられた三船さん。淡々と語る様々な作品の想い出の中から、その道が決して平坦ではなかった事実がにじみ、越えて来た努力の豊かな稔りが香る。まさに戦後の日本映画の歩みをその姿で具現している大スター。もっともっと映画に出てほしいと願う気持ちでいっぱいになった。   水野(以下、省略)三船さんは、日本の生んだ国際スター。しかもしかもワン&オンリーの大スターで、後が続かないですけどね。 三船 とんでもない。 それだけに、今日はじっくりといろいうなお話を伺いたいのですがー。少年時代は、青島と大連にいらっしゃったんですね。 三船 ええ。私は、中国の青島の生まれで子供の頃に大連に移って、兵隊に行くまでいました。兵隊も現地の関東軍だったんです。公主嶺の第七航空教育隊に入って、半年間バカンバカソぶん殴られて、牡丹江の第八航空教育隊に転属になった。そしてちょうど南方の戦線がちょっとあやしくなった頃、山下奉文閣下が関東軍司令官で来られて、現役の兵隊を全部連れて南方へ移動したわけです。その時、我々教育隊生は、日本へ帰れというんで、初めて日本の土を踏んだということです。 ということは、関東軍の中でも、学生の身分だったんですか。 三船 いえいえ。ただの一銭五厘(赤紙のハガキの値段)の兵隊です。まあ、我々の時代は、二十、二十一にもなれば兵隊にとられましたからね。兵隊にとられれば死ぬもんだと思ってましたから、かってなこと、ずいぶんやってましたよ(笑)。 関東軍でしたら、満州の中をあちこち回られたんでしょうね。 三船 いえ私は、公主嶺と牡丹江しか知りません。子供の頃、修学旅行で奉F天(落陽)、新京(長春)、鞍山とかを回ったことはありますけどね。 お父さんは、写真館とか貿易関係のお仕事をなさっていたということですが。 三船 青島では貿易もやってましたけど、事業に失敗して、私が兵隊に行く頃は大連の写真屋一軒だけだったんですよ。 それで、三船さんもその写真館には携わってらしたんですか。 三船 親父も年をとってましたし、病弱で入院してましたんで、いやいやながら跡を継いでやってたわけですよ。それが、芸は身を助くになっちゃってね(笑)。第七航空教育隊はー原隊が浜松で、今でも航空自衛隊の基地ですーそれぞれが無線、通信、気象など特技経験者だった,んです。私は写真が特技だったので航空写真の方に入ったんです。いつか部隊長の家庭を撮れと言われましてね。それが傑作で、「技術優秀である」というので教育隊に残されて、命拾いしたんです。戦友はほとんど戦死してます。 そうしますと、終戦時を境とした戦前と戦後のお気持ちの落差というのはずいぶんありましたでしょうね。 三船 そうですね。戦争中は、とにかく兵隊に行けば死ぬもんと思ってましたからね。戦争末期は、教育隊には、兵隊さんが半年間に一万人ずつ入ってきていたんですが、第二乙、丙なんて、鉄砲も担げないような兵隊さんぽっかりでしたからね。終戦の二十年の春には、熊本の特攻隊の基地に手伝いに行ってたんですよ。そんなような状態でしたね。 日本にはご親戚は無かったんですか。 三船 いえいえ、親父の本家が秋田にありましたし、たくさんいました。 終戦後は、すぐ東京にお出になったんですか。 三船 ええ。たった一円二十銭と軍隊毛煮・ぷ持主布二枚持ってね(笑)。食糧も何もないしね。田舎は秋田だから、米はあるんで、時々行って一儀ずつ担いできちゃあ食いつないでたんですよね。 東宝にお入りになるきっかけは何だったんですか。 三船 教育隊で写真をやってた時の先輩や同僚の中に、映画関係の人がずいぶんいたんです。なかなか仕事にありつけないんで、そういった先輩たちを尋ね歩いて、トライボード(三脚)でも担ぐから、撮影部あたりに何か仕事させて欲しいと頼んだんです。それでなんとなく映画界に入ることになったという感じです。 それがまた、なぜ撮影部ではなく俳優になられることになったんですか。 三船 ちょうどその頃、東宝で三年間続いた大争議がありましてね。仕事を探してもらってた先輩が「ちょうどニューフェイスを募集している。そっちの方に履歴書回しておいたぞ」。そんなんでこういうことになっちゃったわけです(笑)。 その前に演技の経験は、全然なかったわけですね。 三船 ええ、全然(笑)。i我々が伝え聞いていることでは、ニューフェイスの試験の時に、山本嘉次郎監督が「面白い個性だ」と、三船さんをピック・アップなさったということですが、本当ですか。 三船 違うんです。あの先生は「あいつはダメだ」(笑)。でも、撮影部の、もう亡くなられましたけど、三浦(光雄)さんとか、いろいろな方が応援してくれてね。それでどうにかこうにか補欠で入れてもらったんです(笑)。 いわゆる、戦後の東宝のニューフェイス第一期生ですね。 三船 ええ。他にも何人かいました。 久我美子さん、若山セツ子さんなどがそうですね。男の方はどういう方がいらしたんですか。 三船 今、うち(三船プロ)にいる伊豆(肇)君、堺ブーチャン(左千夫)、まだ仕事を続けてる人は、そんなとこかな。 それで、東宝撮影所で演技訓練を受けられたんですね。 三船 男女あわせて、三十七、八人いたんですけどね。争議が長びいてしまって、授業も細ぽそという感じで。争議中に、大スターが皆さん(注*長谷川一夫、大河内伝次郎、高峰秀子、山田五十鈴、花井蘭子らが新東宝へ移った)いなくなっちゃったんです。それで、ニューフェイスで映画を作ろうと、活動が始まったんです。 三船さんのデビュー作は「銀嶺の果て」ですね。 三船 ええ。谷口(千吉)さんの監督で黒澤(明)さんの脚本で。谷口監督がロケで撮ったフィルムをどんどん撮影所に送って、それを黒澤さんが編集なさった作品です。その時、「あのやろう、人相悪いし、ギャングいけるんじゃないか」っていうんで、「酔いどれ天使」になった(笑)。だから、これが黒澤さんとのご縁のはじまりです。 「銀嶺の果て」は、谷口監督のダイナミックな演出が見事に盛り上がった作品でした。大ロケーション映画で、大変だったでしょうね。 三船 そうなんです。白馬、黒菱、唐松の山小屋に半年以上こもったんですからね。毎朝三時、四時に起きて、機材を担いでね。第一ケルン、第二ケルン、第三ケルンと登って行くんです。なんか荷物担ぎになったみたいだった(笑)。 その時は、東宝の社員で、給料制ですか。 三船 いえ、社員じゃないんです。契約者。しかも、ニューフェイスのチンピラですからね。二千円か三千円か、そんな程度でしたよ。 共演の若山セツ子さんが実にフレッシュで、悪人の心に光を当ててゆくという感じで適役でした。 三船 そうでしたね。志村(喬)さん、小杉義男さん、河野秋武さんらが共演でね。 谷口さんとは、その後もいろいろな作品でお付き合いなさってますが、どういう方でしたか。 三船 谷口さん、黒澤さん、本多猪四郎さん、丸山(誠治)さん、みんな山本嘉次郎先生のお弟子さんでしたからね。 いわゆる嘉次郎一家。 三船 その中でも、谷口さんが一番先輩格だったようですね。すごく面白い人でしたよ。 その頃の作品で、山本監督の超ヒット作がありますね。「新馬鹿時代」。エノケン〆(榎本健一)、ロッパ(十口川)がヤ工演なのに、えらく三船さんが印象に残ってるんです。 三船 いやあ(笑)。 すごい貫禄のあるギャング・スターという感じで。 三船 ご冗談を。下手な役者で(笑)。メシも食わねえようなひょろひょろで。何か知らんけど、そこへ座れと座らされただけなんですけどね(笑)。 先ほど、「銀嶺の果て」がきっかけで、黒澤監督が「酔いどれ天使」にキャスティングなさったということですが。 三船 そうですね。「銀嶺の果て」がきっかけで、 黒澤さんに「酔いどれ天使」で使っていただいて、以来ずっと、勉強させていただいたということです。 「酔いどれ天使」では、いきなりあれだけの大役をやられたわけですからご苦労も相当のものだったでしょうね。 三船 そうですね。でも、まあ、人相が悪いから、演技しなくても、そのままでいいんだといわれて(笑)。ただ無我夢中でした。 だんだん病気が重くなってゆく時のメイク・アップがすごかったですね。 三船 ちょっとオーバーでしたらけどね「静かなる決闘」三篠美紀(右)「醜聞」山口淑子(右)106(笑)。あれ、てめえで塗りたくったんですよ。 はーあ。ご自分でなさったんですか。木暮(実千代)さんとのラヴシーンとか、ジルバを踊るところなどは、特に我々はウワーッという感じで見ましたね。痛快感というか爽快感たっぷりで。 三船 今や古い話になりました(笑)。 でも、映画史上に永遠に残りますよ。あの映画の頃が、戦後日本映画の黄金出品期だったような気がするんです。三船そうですね。映画しか娯楽のない時代だったから。とにかく、作れば全部お客さんが入ったわけですからね。だから、東映さんなど、第二東映まで作ったりした。テレビの到来とともに、映画も変わってきました。 「酔いどれ天使」は、全部、砧撮影所のセットだったんですね。 三船 今の砧の奥の方、橋を渡った向うにオープンがありましてね。あの池もわざわざ造ったんですよ。 メタンガスがブクブク出ているどぶ池ですね。 三船 あれ、黒澤さんの発想です。すごく工夫して造ったんです。 確かに、初期はギャング・スター役が多かったですね(笑)。でも一方では「静かなる決闘」のように、大変、理知的な、自分自身をグッと抑える役もなさってる。その兼ね合いは、大変だったんじゃないですか。 三船 自分では、演じ分けているという「酔いどれ天使」意識はないんですよ。 「静かなる決闘」は、大峡作品ですね。 三船 まだ、東宝が争議中だったので、山本先生を中心に、映画芸術協会っていう名称で、新橋に事務所を設けて、黒澤さんとかみんなでチームを組んでは、方々に出稼ぎに行ってたわけです。大映、松竹……。大峡京都では「羅生門」を撮りました。 松竹では「醜聞」を撮った頃ですね。「野良犬」は新東宝でしたか。 三船 お金を出したのが新東宝で、スタジオは、今の東映さんが使っている大泉でした。元の新興キネマ。全部、あそこで撮りました。 「野良犬」は、その後、現代まで続いている刑事アクションのはしりといえますね。汗をびっしょりかいて歩いているシーンが印象的でしたが、真夏の撮影でしたか。 三船 確か夏から秋にかけてだったと思います。あれも、相当日数かかってましたからね。 ラスト・シーンが強烈でした。木村功さんとお二人でパターンと倒れて、ハーッハーッと息をつく。戦後の二つの青春がそこで交差したという感じで。その頃外国ものの翻案がいくつかありますね。「白痴」や、『マクベス』を基にした「蜘蛛築城」。そうした作品に取り組む時は、原作が世・ぽ芥的に知られているだけに、また格別むずかしいと思うんですが、いかがでしたか。 三船 いやあ、発想も企画も全部、黒澤さんですからね。こっちは、そのつど、体ごとぶっつかるだけです。もう、それのみ(笑)。 「蜘蛛巣城」の最後のシーンで、三船さんの城主が討たれるところ。あそこでは、本当の矢が射られたそうですね。 三船 そうなんです。はじめ、エキストラたちを助監督が集めて、ベニヤ板に丸を書いて、小道具の弓に矢をっがせて、その丸に矢が当たった者を引っぱってきて、そいつらにやらそうとしたんですよ(笑)。あーぶない、あぶない。どこへ飛んでいくか分かりゃしない。みんなが心配してね。それで、今でもお付き合いしてますけど、鎌倉にお住まいの流鏑馬の金子家教先生や、その方のお父様で亡くなられた武田有鄭先生など、弓道何段という方々にお願いして射っていただいたんです。でも安全が保障されたというわけではないんです。黒澤さんは、アップでも望遠レンズを使いますからね。ずーっと遠くにキャメラを据えるんですよ。そのキャメラの後ろから射るからとにかく遠い。矢一本それぞれ癖がありますしね。ほんとの鏑矢ですよ。こんなとこ(首元)にきたのもあります(笑)。皆さん有段者だっていうんで安心してたんですけど、こっちが逃げ回るところにピュビュビューソとくるでしょう。生きた心地しなかった。弓のシーンだけで三日か四日かかりましたね。いやーあ(笑)。笑いごとじやないけど……。個人的には自分も弟子入りして流鏑馬をやりますけど、今でも仲間と語り草ですよ。見てる方も怖かったと。 それはそうでしょうね。動きながらだから余計ですね。ウィリアム・テルの場合はじっとしているからよかったけど(笑)。でも、黒澤監督の作品の場合は、そういったエピソードが多いんでしょうね。 三船 そうです。なかなか妥協しない人で、やるといったらやる人だから。 でも、それがOKになった時は、ホッというか、ドドッと疲れが出るんじゃないですか。それこそ、その後は酒でも一杯ですか。 三船 いやいや、一杯どころじゃないですね。もう。がーっくりですよ(笑)。 「羅生門」もそうですけど、それまでの現代劇にくらぺて、コスチューム・プレイの場合は、取り組む際に特に気をつけることはありましたか。 三船 いやあ、こっちは、時代考証など何も知りませんからね。時代劇に関しては、ヴェテランはたくさんいらっしゃったけど、こっちは、とにかく何の訓練も受けたことのない、ただのど素人で、そのまんまで出たわけです。「羅生門」だって、ただただ無我夢中……。 「羅生門」の時に、黒澤監督が豹の動きを三船さんに映画で見せて、「あの動きをつかめ」とおっしゃったというエピソードを聞いてますが。 三船 とにかく、役としては山賊、野盗のたぐいですからね。山をかけずり降りてサササッと木陰に隠れたり、サササッと出て来て、盗んだりね(笑)。豹のようにすばやく、が黒澤さんの狙いだったんでしょうね。 ほんとうに野生的でした。 三船 こちらも若かったからよく走りましたね。今はとてもできないけど(笑)。 京マチ子さんも、こめ映画で国際的に飛びたっていきましたけど、最初にお会いになった時の印象はいかがでしたか。 三船 やっぱり体当たりでやってるというか、気迫が感じられたね。京さんは、今でもちっとも変わってまぜんね。相変わらず舞台やテレビで活躍してる。 あまり人々は語りませんけど、京さんとの「馬喰一代」は、爽快な映画で私は、大好きです。大峡作品で、木村恵吾監督。北海道ロケでしたね。 三船 いえ。あれは、信州の霧ケ峰で撮ったんです。 キネ旬のこの対談で京さんにお目にかかりましたら、京さんも「馬喰→代」は、ものすごく好きで、印象に残っているとおっしゃってました。やはり「羅生門」見ても感じましたけど、三船さんと京さんは、リズムが合うんだと思いますね。三船さんは、セリフを最後まで頭にたたき込んでから撮影現場に臨まれるそうですから、共演者としても、ぶつかりがいがあるんでしょうね。 三船 まあまあ、どうでしょうか。黒澤さんあたりに厳しくしっけられましたから(笑)。 やはり、かなり厳しい指導でしたか。 三船 撮影現場に脚本を持って入ることは許されませんでしたからね。全部覚えていかなきゃならない。撮影に入るまでに何十回、何百回と、ホンを読み直して、セリフを必死で覚えたものですよ。 黒澤さんの場合は、リハーサルを立ち稽古の形でやられたそうですね。 三船 ずいぶんやりました。 舞台と同じで、頭から最後まで完壁に覚えてから撮影に入るというのは、その後、三船さんが外国の方々とお仕事をなさる時に、ずいぶんプラスになったんじゃないですか。 三船 それはもう。 三船さんは、早くからフケ役をやってらっしゃるせいか、今も全然お年を召していない。おなかも出てないですね(笑)。さすがに鍛えていらっしゃるから。 三船 いやいや、ある程度は出てますよ(笑)。 海外への旅は、全然億劫ではないですか。 三船 いや、こたえますねえ(笑)。 海外での作品も多いですけど、「グラン・プリ」でも、フケ役でしたね。 三船 フケ役が多かったね。黒澤さんの作品でも「生きものの記録」とかね。だから、ずいぶん勉強させられたし、鍛えられてたから、「グラン・プリ」でも慣れたものですよ(笑)。ただ、今、若いですねと言われると、なんだか照れちゃうね。「私はもう六十三ですよ」って。もう還暦すぎてる。大正九年ですからね。 「生きものの記録」の時は、同じフケ役でも、最後のシーンのフケ役と途中のフケ役と、えらく段差を付けてられましたね。もうブラジルへ行けないってことになって、ガクーッときた感じが、すごく出てた。 三船 最後は、もう気が狂っちゃってましたから、ちょっと極端にね。 「赤ひげ」は、壮年の役でしたね。 三船 いろいろな年齢の男性を、勉強させていただいたというわけです(笑)。 小林正樹監督も、黒澤監督と同様に、相当粘られるんじゃないですか。三船なかなか粘りますね。 「上意討ち」は、いい作品でしたね。 三船 とにかく丁寧に撮る人ですから。ワン・カット撮って、またワソ・カット。二人の対話のシーンでも、それぞれの方向から一人ずつ撮って、ライティングもそのつど変える。中を抜いて撮ることは絶対しないんです。 そのシーンどうりに、順番に撮っていくわけですね 三船 ええ。実に几帳面に撮っていく。 そういう点、稲垣(浩)監督は、トントンとお撮りになったようですね。 三船 そうですね。ご自分で活動屋とおっしゃってましたけど、パッパッパッと実に手際よくうまい具合に進む。 稲垣演出には、特別なまろやかさみたいな味がありましたね。「風林火山」などは、お好きな作品なのではないですか。すごくパワーが感じられた。 三船 私のプロの作品でしたから(笑)。 稲垣監督との一番初めは「佐々木小次郎」ですか。 三船 そうですね。 その「佐々木小次郎」の時の武蔵は、やがて当たり役になる「宮本武蔵」にっながってゆく事になるんですね。 三船 あの頃、アメリカから来てた兵隊さんで日本語の達者な人が、このフィルムを買って帰ったんですよ。そして、ウィリアム・ホールデンがナレーションを入れてくれて、あの作品、アカデミー賞(外国語映画賞)もらったんです。東宝の本社にその時のオスカー像があります。 ウィリアム・ホールデソがナレーション入れてるんですか。知りませんでした。 三船 ただ、「サムライ」というタイトルになってましたね。 「幕末」の時の伊藤大輔監督はいかがでしたか。もっとも、この作品は錦(萬屋錦之介)中心でしたね。 三船 これは、中村プロ作品だから、ちょっとお手伝いしただけです。 初期には田中絹代さんとも共演してらっしゃいますね。 三船 「白痴」かなにかで大船に行ってる時に、木下恵介さんのお話がきて、田中絹代さんと現代劇を一本撮りました。 「婚約指輪」ですね。これは貴重な顔合わせですね。田中さんはどう方でしたか。 三船 ずいぶんやさしい方だったですですよ。いろいろ面倒みていただいて……。 田中さんとは「西鶴一代女」で共演されてますね。 三船 あの時は、京都でしたけど、溝口(健二)先生は独特の方でね。昼に、スタヅフはみんな、食事に出て行きますけど、溝口さんはセットに残るんです。それで弁当を用意させて、田中さんと、それと僕の分もちゃんと用意してくれて、セヅトの中で食べるんです。よーく覚えてます。シーンとしたセットの中で、食べながら、時々、ポツリ、ポツリと演技指導をしてくれるんです。あそこはこうした方がいいよ、とか、いろいろなお話をしてくれた……。 「西鶴一代女」の溝口健二さん、ただ一本のお付き合いでしたね。やはり厳しい方でしたか。 三船 そうでしたね。僕はほんのちょい役でしたけど、セットの小さな小道具一つでも、思いどうりのものがないと「探してこい。これじゃあだめだしって、半日、一日待ったことがありましたね。 「荒木又右衛門・決闘鍵屋の辻」は、森一生さんの大傑作で、今までの荒木又右衛門と違って、リアリスティックでしたね。脚本は黒澤監督。 三船 これまでの講談ヒーローを否定してね。 そうやって、様々な巨匠と組んでいかれたことで、どんどん磨かれていったんですね。 三船 いい仕事に恵まれました。 日本では、独立プロダクションというと、三船さんが一番頑張ってらっしゃいますが、経営は容易なことではないと思います。アメリカの場合は、今や、メジャー会社が映画を作るのじゃなくて、それぞれ独立プロダクションが作っていますね。一時期、三船さんを中心として勝(新太郎)さん、石原裕次郎さん、錦之介さん、皆さん力いっぱいなさってましたけど、財政的に難しかったり、健康を害されたりして……。またがんばっていただきたいですね。 三船 そうですね。当時は、そんな名称ふさわしいかどうかしらないけど、スター・プロなんて言われてね。このプロダクションも、もう20年近く続けていることになるんですよね。戦後、テレビの上陸とともに映画が少し具合が悪くなった時、一番初めに見切りをつけたのは東宝ですからね。砧の撮影所を閉鎖することにしたわけです。その時に、森岩雄さん、藤本真澄さん、川喜多長政さん三人が、俺たちが援助するからといって、三船プロダクションを作ってくれたんですよ。ですから、こちらも責任あるから、今大変厳しいんだけど、歯ぁ食いしばって維持してきましたが、もう限度ですよ。この敷地、二千坪くらいあるんですけどね、不動産屋とか建築業者が譲れと来るんですよ。田園調布に次ぐ住宅地だって、成城のはずれですけどね。でもね、ちょっと待て。俺のスタジオ売っちゃったら、三船プロつぶれた、なんて言われる。そう思ってがんばってきたんですけどね…。 日本映画の為にがんぼってこられたわけですね。今度も、久々に劇場用映画を完成なさいましたね。 三船 ええ。「海燕ジョーの奇跡」を松竹さんと提携でね。海外でロケしました。 やはり、我々映画ファンとしては三船さんの映画での活躍を一番拝見したいわけですからね。 三船 敏郎(ミフネ トシロウ) 日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。1951年にヴェネツィア映画祭で最高の賞、金獅子賞を受賞した黒澤明監督「羅生門」に主演していたことから世界中より注目を浴び、1961年には主演した黒澤明監督「用心棒」、1965年にも主演した黒澤明監督「赤ひげ」にて、ヴェネツィア国際映画祭の最優秀男優賞。その他にも世界各国で様々な賞を受賞し、アラン・ドロン、スティーブン・スピルバーグなど世界中の映画人たちへ多大な影響を与えた、日本を代表する国際的スター。1920年4月1日 - 1997年12月24日没。 三船敏郎生誕100周年公式ページはこちら
  • スティーブン・スピルバーグやアラン・ドロンといった世界を代表する映画人と対等に仕事をし、尊敬された日本人はいただろうか? 「世界のミフネ」と呼ばれた三船敏郎 生誕100周年を記念し、創刊100周年を迎えた「キネマ旬報」に過去掲載された三船敏郎に関するよりすぐりの記事を「キネマ旬報WEB」にて連載する特別企画。過去に「キネマ旬報」に掲載された記事を読める滅多にないこの機会をお見逃しなく。 今回は1961年9月下旬号「キネマ旬報」に掲載された、映画「価値ある男」の撮影を終え、メキシコから帰国した三船敏郎本人へのインタビューをお届けします。 ======== 映画界で、純金製男性 一 100パーセント男性の爽やかさを持っているのは三船敏郎と、裕ちゃん。映画以外いっさい目をくれないというのも、このひとらしくうれしい。 外国から狙われた男 山本恭子(以下、山本):メキシコからお帰りになってもう大分になりますね。 三船敏郎(以下、三船):ちょうど一と月くらいですかネ。 山本:そのあいだインタビュー、インタビューで、うんざりなさったでしょう?おきらいなことだから……。 三船:いや別に。ぼくはなんにも喋らんから……(笑) 山本:でも、これからさっそくお訊ねしますけれど、よろしくお願いします。(笑) 三船:満足な答えができるかどうかわかりませんがね。 山本:三船さんが、外国から映画出演の申込みをお受けになったのは、こんどがはじめてじゃありませんね、だいぶ前に、イタリア映画に出演のお話があったんじゃないですか? 三船:ええ、「七人の侍」をやってるとき、「アッチラ大王」に出演の話がありましたけれども、「七人-」が撮影に一年かかっちゃったので、だめになりました。 山本:じゃあ、向うで諦めちゃったわけですね。 三船:まあそうですな。あれは、アンソニイ・クインが代りに出たのが日本へ来ましたね。 山本:「侵略者」という題名で……。 三船:その他、小さな話はたくさんあったんですよ。「サランボオ」というのもあったし、最近では、アンソニイ・クインと谷洋子の共演したのがあったでしょう?エスキモーの話で……。 山本:ええ、ええ「バレン」。 三船:あれも、最初は東宝と合作の話だったんです。こっちのステージを使おうとかなんとかだったんですけれども、うまく話がまとまらなかったんですね。ディズニーで、早川雪洲さんの出たものも……。 山本:「南海漂流」という題名で、RKOにはいってますね。 三船:なんでも船が難破して、海賊に助けられる話ですよ。 山本:すごく狙われていらっしゃるんですね、外国から狙われた男。(笑) 三船:そうじゃないんですけれども。個人的にきたのはそれくらいです。他にもそうでないのがチョクチョクあったようです。 契約しなければ帰らない 山本:今度のメキシコ(「価値ある男」)のお話は、どんないきさつで、まとまったんですの? 三船:今度の映画のイスマイル・ロドリデス監督は非常に熱心な人で、最初話があったのは一昨年のことなんです。メキシコから照会があったんですが、ほったらかしておいたんです。それから去年、ぼくがロスアンゼルスへ行ったときも、やかましく言ってきたんですが、そのときも忙しかったので、そのままニューヨークへ行ったら、向うのホテルへ電話をかけてきて、どうだと言うんですね。旅先で、ぼく一人では勝手にすぐきめるわけにはいかんから、日本で改めて話をしたいと言って帰ってきたんですよ。そしたら、イスマイル・ロド・リゲス氏が、去年の十月に日本へやってきたんです。 山本:へえ?とうとう日本まで? 三船:ええ。脚本を持ってきてこれだというんです。「価値ある男」となってましたけれど、どういうんでしょう?だれか変てこに訳したんじゃないかな。原題は「animas Trujano」というんです。話を簡単に言うと、メキシコはカソリックが浸透していますから、小さな町でもぜんぶ教会を中心に町ができているところだし、そういう宗教的行事が一年三百六十五日くらいあるわけです。そのお祭りの主宰者ですか、そういうようなもので、町会の総代みたいなもの、マイヨルドーモというのですが、それになりたい奴の話なんですね。 山本:そして、それになれるんですか? 三船:結局なれるんですね。あんまり向うが熱心なんで、その脚本を翻訳して、黒沢(明)さんや菊島(隆三)さんに見せたんですけれど、面白そうじゃないかというし、それにイスマイル氏は契約してくれなかったら帰らないというし、(笑)二週間も毎日足をはこんでくるんです。 山本:ついにそれにはほだされて……? 三船:太平洋を隔ててはいるが、まあ隣りの国だし(笑)、日本とメキシコを結ぶ絆にもなるのじゃないかということでね。 山本:なんだか、ギャラはおきめにならかったとか? 三船:ええ、出演料といったものの代りに、フィルムを日本へもらうという条件です。もちろん往復の旅費とか滞在費は別ですがね。イスイマル監督曰く「われわれ映画で飯を食ってるんだから、映画を通じてもっと民間外交に役立てなければならない」なんていうような、立派なことを言うもんだから、ぼくも賛成々々、そうだ、そうだというわけで引受けちゃったんです。(笑) 山本:こちらのウィーク・ポイント、いや、ストロングですか(笑)それをっいてきたわけですね。イスマイル監督は、前から三船さんの映画を見ていたんですか? 三船:だいたい見ていましたね。 山本:それで惚れこんだわけね。 三船:そういうわけでもないでしょうが、いけるんじゃないかということで話を持ってきたんですね。初めは彼も半信半疑のところはあったんでしょうね。ぼくの扮するのは、日本人じゃなくて、メキシコの先住民族の純メキシコ人ですからね。インディオと言ってますがね。アニマス・トルファーノという名の人物です。こっちも不安だったから、扮装して、「これでいけるか?」と言ったら、「大丈夫だ」というんでね。喋るのがスペイン語だというから、はじめはどうかと思っていたんですが…… 山本:ぜんぜん、吹き替えなしですか?雑誌なんかで拝見した記事に、台詞はぜんぶ暗記なすったって出てましたけれど…… 三船:元来台詞というものは暗記するもんですからね。覚えていかなきゃなりませんよ。 山本:しかし、スペイン語でしょう?前に勉強なさったことがあるんですか、少しくらい? 三船:いや、丸暗記です。単語の意味なんかも一つもわかりやしない。これが覚えられなかったら、九官鳥やオウム以下だと思ってね。(笑) 山本:台詞の数は? 三船:六百いくつで、なかには長ったらしいのもあるんだから、演説じゃないけれども。いちばん困ったのは、せっかく覚えたのが、向うへ行ってから後半、ずいぶん変ってきちゃってね。覚え直さなきゃならないし、前に覚えたのが邪魔するし、こりゃえらいものを引受けちゃったと思ったが、いまさら帰るわけにもいかず、しようがないから、やっちゃいました。(笑)それがAPにはいった通信では、向うでメキシコ各界の名士を集めて試写会をやったところ、これが大へん反響があって、絶讃されたというんですね。それで、イスマイル氏はハリキッちゃって、ヴェニス映画祭へ出品することになったそうです。 山本:そうすると、三船さんは主演者としてヴェニスへいらっしゃらなきゃァ。 三船:急遽行くことになったんですよ。日本からは「用心棒」を出すんです。これは招待出品ですが、ヴェニスの場合には、招待出品でも賞の対象になるんです。 山本:三船さんのものが、日本とメキシコと、二本になるわけですね。それはますます御苦労さんですね。外国へ行ったり、外国で仕事をしたりすることは、ずいぶん疲れませんか? 三船:それほどでもないですな。 黒沢式演出?のメキシコ映画 山本:メキシコの撮影所の設備というのは、立派なんですって? 三船:立派ですよ。中南米ではメキシコとアルゼンチンがいいといわれてます。 山本:メキシコは、映画の質もいいものがありますね。日本にエミリオ・フェルナンデル監督の「真珠」というのが来ましたけれど……。 三船:その監督さん、今でも活躍してますね、みんなが、めいめいプロダクションを持って映画を作っています。国立映画銀行というのがあって、映画製作専門に融資をしています。全国の映画館の六〇%くらいは、国家経営なんですね。国民に安い娯楽を提供しようということで、入場料は四ペソ日本円で百二十円くらいかな。 山本:一本の製作費にどれくらいかけるんでしょう。 三船:こんどの場合は、だいたい中級作品の上くらいでしょうね。日本の金でどのくらいかけてるのかな。こないだ日本で封切られた「ぺぺ」。あれはメキシコのスター(カンティンフラス)が出演した映画ですけれど、ハリウッド製で、コストが高くてメキシコでは上映できないそうです。四ペソの安い入場料では……。 山本:撮影所の設備なんか、例えば東宝なんかとくらべてどうですか? 三船:ステージなんか、ずいぶん大きいのがありますね。三十五くらいステージのある撮影所なんだが、冷房装置なんかはないですよ。もちろん、その必要もないからだけれども。 山本:メキシコというと砂漠とサボテンで暑いところという感じですね。 三船:向うは空気が乾燥してますから、冷暖房はもちろんいらないんですけれども、そのほかの設備は、はるかにいいですよ。衣裳部屋なんか各ステージについているし、休憩する部屋はみんな持っています。 山本:ハリウッド式なんですね。 三船:撮り方なんかもハリウッド式ですよ。カメラを回しつ放しでやるんです。途中でNGを出しても、そこからあともどりしてやるわけですけれども、カメラは回しっ放しです。あるシーンを通しで撮っちゃうんです。セリフをとちっても、そのままやっちゃうんですよ。芝居をするのと同じですね。そうすると台詞はぜんぶ覚えなければならないから、こっちはなおさら大変なんです。こまかくカットにきってやってくれると助かるんですけれどもね。 山本:演技のほうはいいにしても、言葉が大変ですね。 三船:黒沢さんの演出が、どちらかというとそんな風だから、長いショットで撮られるのには馴れてるんだけれど……。 山本:しかし、これからもあるでしょうね、外国からの出演申込みが……。 三船:メキシコでも、引き続いて二本くらい撮っていけと言われたんですけれども「価値ある男」の結果を見てからにしょうということで帰ってきました。 山本:すごく朝早くから、夜おそくまで強行撮影だったんですって? 三船:それは、ぼくがベルリン映画祭に出席することになって、それまでに間に合うように撮れということでやったんです。朝六時に起き、七時にはロケに出発です。 山本:日本と似てますね。 太陽と美人の国メキシコ 三船:メキシコでも、引き続いて二本くらい撮っていけと言われたんですけれども「価値ある男」の結果を見てからにしょうということで帰ってきました。 山本:すごく朝早くから、夜おそくまで強行撮影だったんですって? 三船:それは、ぼくがベルリン映画祭に出席することになって、それまでに間に合うように撮れということでやったんです。朝六時に起き、七時にはロケに出発です。 山本:日本と似てますね。 太陽と美人の国メキシコ 三船:ぼくのいたあいだはちようど乾燥期で、晴天ばかり、天気待ちということがないから、どんどん撮れます。ステージでの撮影は、土曜、日曜の二日は休みでしたけれども、八時ごろからはじめて、夜十時まででしょう? 山本:お食事は? 三船:二時、三時まで食事で、そのあと十時まで撮ってます。それからラッシュを見て、うちへ帰ってくると十二時ですね。 山本:食事にはどんなものを召上るんです? 三船:むこうの料理ですね。 山本:私だったら、お腹がすいて倒れちゃうわ。 三船:食事がおそいですからね。昼食なんかゆっくり食べていますよ。土曜日なんか、午後じゅう昼飯食ってますよ。(笑)ですから晩飯もおそいわけです。 山本:土、日の二日つづきの休みには、方々へ招ばれていらしたんでしょうね。 三船:あちらの人は一家をあげて人をもてなすことが好きでね。いろいろ招待があったり、連絡があったりで日曜日は必ず、お昼はどこ、晩飯はどこときまっているからしょうがないんです。 山本:ラッシュはごらんになったとおっしやってますが、完成したものは? 三船:まだ見ていないんです。プリントも着いたらしいですから、皆さんに見ていただいて、どの程度、うけいれられるか、蓋をあけてみなきやわかりませんけれど。話が日本人にはあまり馴染みのない話ですから。メキシコ・シティから飛行機で一時間、車で六、七時間のところにあるマヤですか。そういう遺跡がたくさんあるところの原住民の話で、風俗とか習慣を知らないと、写真ではピンと来ないかもしれません。 山本:それだけに、地方色豊かな面白さがあるんでしょう? 三船:そういうことです。闘牛は入っていませんが、闘鶏とか、土人の民芸サラペとかマゲイ・サボテンの大きいやつメスカルとか、そういったメキシコ特有のものがたくさん出てきて、メキシコ人が見ても珍しいようなものが、たくさんあります。いろいろとイスマイル氏も考えてやってるわけですよ。 山本:イスマイルさんというのはどのくらいの年配の方です? 三船:五十年配ですね。自分では四十三だと言ってましたけれど。(笑)自分がプロダクションの主宰者であり、監督です。「ラ・クカラチャ」という映画が前に日本にきています。「大砂塵の女」とか言いましたね。クカラチャというのは油虫のことだそうです。 山本:お忙しくて、あちらの人々の普通の生活なんかよく見ていらっしゃる暇はなかったかもしれませんが、メキシコは原住民のほかに、白人との混血が多いんですか、きれいな人が多いようですね。 三船:ほとんどラテン系で、スペイン系のべっぴんさんですね。メキシコの中心は、やっぱり白人がにぎっていますね、政治でも経済でも。 山本:インディオは生活程度が低いんですか? 三船:ひどいのがたくさんいます。ちょっと見ただけでも。満州や中国、朝鮮などの地方の農村生活と似ています。日本の水のみ百姓というのだってそうですが。土地が乾燥していて、何にも出来ないんですね。トーモロコシと豆くらいです。しかし地形には変化があるのですね、北へ行くと乾いて、火山灰地みたいで何もできない。しかしずっと南の方へゆくと、地味が豊かですごいんですよ。農作物、野菜、果物、みんなそこからきてるんですね。 山本:非常に繁殖力が旺盛な地方もあるわけですね。 三船:メキシコ・シティは山脈の中心にある海抜二千四百メートルくらいの土地で、一年中六月ごろの気候で、とても快適なところです。 山本:都会としてもなかなか立派だそうですね。 三船:中南米で一番だなんて威張っていますけれど、立派ですね。ニューヨーク、シカゴ、ロスアンゼルスに肩をならべられるくらいでしょうね。高速道路は発達しているし、日本みたいに、道路工事で掘りかえしてるところはないし、(笑) 建築物も、何世紀か前の古いカソリックの教会なんかがあるかと思うと、超近代的な建物があって、太陽はギラギラ、空は真っ青、木は緑、といった工合にそれが美しく調和しているんですな。絵描きさんたちが、たいへん行きたがってますが、わかりますね。 山本:非常に強烈な感じの絵があるようですね、壁画が盛んで……。 三船:メキシコ展がこちらでもあったけれど、タマヨとか、シェケィロスとか、有名なんでしょう。革命までは、しいたげられていた民族なんで、強烈なものが出るんだろうな。 日本映画はまだこれから 山本:あちらの映画は? 三船:イスマイル監督が撮ったものを見ました。面白いんだな、一昨年だったか、自家用飛行機セスナに乗っていて、墜落して死んだスターがいるんですよ。ペドロイン・ファンティとかいうんだけれど、たいへんな二枚目の若手スターで、そいつが死んだときに、女の子が四、五人も自殺したほどだと言うんですな。(笑) 山本:どこにもあるんですね、メキシコのジェームズ・ディーン。(笑) 三船:そいつが生きていたらやるはずの役がぼくにまわってきたんだと言うので、帰りに墓参りしてきましたよ。墓には一年中花やら、線香はないだろうが(笑)とにかく花が枯れてたことがないそうです。 山本:帰りはご家族の方とヨーロッパへまわられたそうですね。 三船:出かけるときに、仕事がうまくゆきそうだったら呼んでやると約束したんで、メキシコへやって来ました。そのあとベルリン映画祭に出席、パリ、ローマなど歩いて帰ってきたんですが、あとでやっぱりメキシコがいちばんよかったと言ってますね。 山本:ベルリン映画祭での日本映画は? 三船:「悪い奴ほどよく眠る」を出したんですが、ほかに黒沢週間というのをやっていて、「七人の侍」「羅生門」「どん底」「蜘蛛築城」「生きものの記録」の五本を昼夜二回ずつやって、たいへんな入りでしたよ。アメリカ人でリチイさんというのがいるでしょう?あの人が来ていて、日本映画祭開催中、日本映画をやる前に講演してくれるんですよ。「黒沢明について」とか「日本映画について」とかいって、自分で印刷物を作って、ちゃんと日本映画の紹介をしてくれてました。日本人がそれをやらないで、外国人にやってもらっているんですからね。 山本:リチイさんは、日本映画史みたいな本を出版してるでしょう。たいていの日本人より日本映画のことをよく研究して知っていらっしゃるんだから、かないませんね。ベルリンにいっていらしたんですか? 三船:もう帰ると言ってました。日本には最近また来るそうです。ヨーロッパにもあきたし、やっぱり日本がいちばんいいと言ってましたよ。(笑) 山本:外国へいらして、改めて日本映画の外国での人気にまたびっくりなさったんじゃありませんか? 三船:日本映画もまだまだこれからですよ。これからいいものを作って紹介しなけりゃだめです。日本映画が外国でどうとかこうとか言ってますけれども、実際見ている人は少いですよ。日本の旅行者だって、。バリなんかの運転手に、お前たち、インドネシアか、(笑)なんて言われているんですから。日本人だというと、「ああ、羅生門」なんて言われましたがね。日本独得のものをどんどんだして、日本人を認識させなきやね。 俳優としては落第の三年生 山本:ところで、ヴェニスからお帰りになると、また黒沢さんで、「用心棒」の続篇ですか? 三船:ええ、もう脚本ができました。黒沢さんと菊島さんとで書いていたんです。 山本:こんどは、桑畑三十郎が椿三十郎になるんですってね。いつごろからおはいりになります? 三船:目下準備中だから、ぼくが九月三、四日までヴェニスにいなけりゃならないらしいから、それから帰ってきて、すぐですね。 山本:三船さんは、これまでずっと東宝で仕事していらっしやるんですが、ご自分で会心の仕事というのはどれですか?やはり「羅生門」? 三船:別にそういうわけではないけれど、「羅生門」は、国際映画祭で戦後はじめて外国の賞をもらったというので、そういう思い出みたいなものがありますね。「酔いどれ天使」は最初だし、ぼくは黒沢さんで撮ったもので「生きものの記録」というのが、印象に残ってますね。 山本:私もあの映画は黒沢さんのもののなかで好きですね。原爆恐怖症の人の話ですね。 三船:あの当時、批評家はあまり良くいわなかったけれど、黒沢さんも、「とにかくあの時期に、ああいう問題を取りあげたのは、おれとしてはぜんぜん後悔してない、じゃなくて、誇りに思ってる」と言ってましたからね。あれから後でしょう、アメリカで「渚にて」なんか作ったの。日本人は直接原爆の被害をこうむったのに、なに考えてるんだと言いたいくらいですね。 山本:いまや原爆の問題がやかましくとりあげられるようになったというわけで・・ 三船:「白痴」も、翻訳劇みたいなものだと言われたようですけれど、あのあと、ソ連の監督があちらで「白痴」を撮るのについて、黒沢さんの「白痴」を何回か見ているというんですからね。 山本:スエーデンの「処女の泉」は、ベルイマン監督が黒沢さんの「羅生門」に刺戟されたとはっきり言ってますね。 三船:フランスあたりの若い映画監督たちは、黒沢さんや溝口さんに学んでいると言ってますね。 山本:三船さんは、監督をおやりになる気持はないんですか? 三船:とんでもない。 山本:俳優だけでいらっしやるんですか。 三船:俳優だって一年生 - 一年生にしてはとうが立ってますが、落第の三年生とこかな。(笑)だからまだまだ……。 テレビも見ずに映画一筋 山本:最近俳優さんで大変意欲的になって、自分でこういうものをやりたい、ああいうものをやりたいということがあるんですが、三船さんにはそういうプランは? 三船:いろいろありますけれど、発表して実現しない人がありますからね、余計なことを言って恥をかくなというわけです。 山本:映画一本で、例えば舞台やテレビに対する浮気は? 三船:ぜんぜんないですな。人間そんなにできるはずはありませんよ。ぼくは不器用ですからね。一つに対することでいいと思うんですよ。できる人はけっこうだけれども、ぼくはできないから。負けおしみでいってるわけではないけれども、ぼくは映画だけしかやりません。 山本:テレビはごらんになります? 三船:見ないですね。うちのテレビなんか昔買った古いやつそのままで、変っているから映像なんか出てきませんよ。(笑) 山本:テレビのスポーツ放送もごらんにならないんですか? 三船:ぜんぜん見ないですね。野球なんかあんまり興味がないし、相撲も面白くないし、見るといえばボクシングくらいだな。 山本:へえ、野球、相撲に興味のない男の方ってめずらしいですね。ゴルフは? 三船:ゴルフもここ一、二年やってません。 山本:じゃ、暇なときは何をなさってるんですか? 三船:別にこれということはありませんね。裸になって家で芝を刈ったり、ボートの掃除をしたり……。 山本:家庭的で奥さん孝行……。 三船:いや、そんなこともありません。 山本:三船さんの趣味はモーター・ボートでしたね。 三船:ええ、まあ、そんなもんです。 山本:暇なとき映画はごらんになります? 三船:わりと見るほうですね。最近見たのは「片目のジャック」です。あれも「荒野の七人」もメキシコヘロケした映画ですね。「荒野ー」はまだ見てませんがね。 山本:ところで、外国映画に日本人が出演する場合、どんな点がいちばん問題だとお思いでしたか? 三船:やっぱり語学でしょうね。語学ができれば、これから国際的な活躍をすることが十分できますね。それと、ぼくのように外国人に扮した場合は問題はないけれど、外国映画の中の日本人を演じるときには、十分研究してからでないと「竹の家」みたいなのがあって、国辱問題を起したりしますからね。山本あちらの監督の演技指導はうるさいですか? 三船:イスマイル氏は、ここはこう思うんだけれどもどうしようかと聞きますよ。撮影で使う簡単な言葉は日本語で教えてあるんです。おはよう、今晩は、本番、テスト、お疲れさま、もう少し右、もう少し左、もう一度、それでけっこう間に合いますね。(笑)自分でやる通りやってきました。 山本:それだけ好意的だったらいいですね。 三船:とても雰囲気がよくて、着いた当座は連日レセプション。山本大統領夫人のレセプションもあったそうですね。 三船:ええ、日本の大使も喜んでくれたし、在留邦人の方たちも涙を流して喜んでくれました。帰るときは「チャーロ」というハイ・ソサエティのクラブで大送別会をやってくれましたし、まあ、こんな風に少しでも国際親善につくせたら、映画の出来をどうこう気にする必要ないみたいな気持になっちやいました。これで映画がよければなおいいけれど。(笑) 三船 敏郎(ミフネ トシロウ) 日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。1951年にヴェネツィア映画祭で最高の賞、金獅子賞を受賞した黒澤明監督「羅生門」に主演していたことから世界中より注目を浴び、1961年には主演した黒澤明監督「用心棒」、1965年にも主演した黒澤明監督「赤ひげ」にて、ヴェネツィア国際映画祭の最優秀男優賞。その他にも世界各国で様々な賞を受賞し、アラン・ドロン、スティーブン・スピルバーグなど世界中の映画人たちへ多大な影響を与えた、日本を代表する国際的スター。1920年4月1日 - 1997年12月24日没。 三船敏郎生誕100周年公式ページはこちら   『価値ある男』12月24日(木) セルDVD発売! “世界のミフネ”の原点となった初海外主演作が、生誕100年を記念してHDニューマスターで国内初ソフト化! 初海外主演作としてメキシコ人を演じ、各国映画祭で激賞され“世界のミフネ”の原点となった名作が、生誕100年を記念して、遂に国内初ソフト化!約60年の時を経て、美麗HDニューマスターにより鮮やかに蘇る。 発売・販売:TCエンタテインメント、提供:三船プロダクション  
  •  2021年に、日活ロマンポルノは生誕50年の節目の年をむかえます。それを記念して、ロマンポルノの魅力を様々な角度から掘り下げる定期連載記事を、本キネマ旬報WEBとロマンポルノ公式サイトにて同時配信いたします。  衛生劇場の協力の下、みうらじゅんがロマンポルノ作品を毎回テーマごとに紹介する番組「グレイト余生映画ショーin日活ロマンポルノ」の過去の貴重なアーカイブから、公式書き起こしをお届けしたします。(隔週更新予定) 2011年12月放送、第3回のテーマは「海女」 どうも、みうらじゅんと申します。 「グレイト余生映画ショーin日活ロマンポルノ」今回目のテーマは、コレ「AMA」でございます。 こう言うとちょっと航空会社のイメージが出るでしょう(笑)。実は私の童貞期、一番遠いテーマでありました「海女」シリーズについておくりたいと思います 。 今回のお送りするテーマは美しき海の女、「海女」。愛と情欲の波渦巻く、背徳のシーサイドエロスに迫る。伝統を受け継ぐSEXYマーメイド。神秘に包まれた、女だらけの桃源郷がいま露わに!! 今回も上野オークラ劇場という成人映画専門館からの収録です。僕が当時、海女シリーズを観た所もこの雰囲気に近いです。 今回紹介するのは1976年製作の『色情海女 乱れ壷』から1982年製作の『くいこみ海女 乱れ貝』までの4本でございます。僕が当時観た作品はもっと前のものでしたから、海女シリーズは長年に渡り、撮られてきたことになりますね。80年代というと、音楽の方ではYMO 台頭でテクノが大流行。バブル期でイケイケの時代でしたが、そんな中でもその時代でも海女シリーズが製作されていたということは大変興味深いですね。 今回の特集に当たり、いろいろ私物を持ってきたんですがね。 まず、この海女の絵葉書を見て下さい。そもそも海女が何故絵ハガキに登場してたかということを説明しないと、今回のシリーズは分からないと思います。これは、今でいう週刊誌のグラビアアイドルですよね、そのグラドルの走りが海女であったという事実。これは御宿の海女さんですね。トップレスでしょ。そりゃ大人気ですよ。次に、これは能登半島の舳倉島っていう所におられた海女さんのトップレスモノ。Tバックなんてものじゃない。紐パンの元祖がここにあります。そしてこれが海女さんの被っておられる白い布に描いてある「ドーマンセーマン(道満・清明)」という海にいる魔物から守る御札みたいなものです。これを縫い付けて行くらしいです。自分とそっくりな顔をしたトモカズキという魔物がね…その説明はいりませんよね?(笑)   これは三重県に行って、ツーショットをお願いしたものです。当然海女マニアとしては、欲しい写真ですから。 海女モノといえば『潮騒』(1975年東宝製作の映画)も有名ですね。山口百恵さんなどキレイな女優さんで何度もリメイクされています。すなわち、海女は歴代アイドルがやってきたものであるということですね。そしてこの、「御宿ブルース」。レコードまででているくらい人気があった世界ということです。昨今、可愛すぎる海女登場で週刊誌の記事にとりあげられたり、平成になってからも海女が再ブームをしているということを伝えときましょう。(※注、収録はドラマ『あまちゃん』以前) 頼まれてもいないのに、絵を描いてみました。力が入っているでしょう(笑)。   皆さんわかっていただきたいのが、海女の分布図ですよね。こういうことですね。昔はですねアワビとかを取った海女さんが沢山おられたということで。岩手、千葉、三重、石川、山口、長崎と海女さんが沢山おられた時代の地図でございます。 今回見ていただく海女シリーズの特徴ですね。この4本における共通点を絵に描いてきました。フンドシをされている方がおられる。岩場と海女小屋で大体行為をされるということが特徴でございます。海女小屋というのは、海女さんが暖を取られる場所で、こういった所でもプレイが行われる。そして浜でもありますね。浜では海女どうしのよくキャットファイトが行われるということです。そして船上ですね。たいがい、浜とか船上で行われる時にでてくるのがアワビの踊り焼き。地獄焼きって言うんですか、火で炙っている映像が出ていきます。 この4作品から名言集として私選んできました。 「誰かのアソコみたいだな」という『色情海女 ふんどし祭り』のセリフですけど、 『くいこみ海女 乱れ貝』でも「あんたのアソコみたい」ということで、必ずアワビが紹介されるということが共通点でございます。 「いまにたっぷり突っ込んでやっから」(『くいこみ海女 乱れ貝』)と地方色を出していたり、「あいかわらずええケツしとるの~」(『色情海女 ふんどし祭り』)と住職のセリフとは思えないセリフが飛び出すのも、特徴でございます。 海女さんも、都会からやってきて海女さんになる方とか色々出てくるんですけど、海女さんが織りなすそうですね青春ドラマと言っても過言ではないんじゃないですかね。なんか今見るとちょっとキュンとするような青春がこの海女シリーズにはあるということで、ももう戻ってこない青春をあなたもご覧になってはいかがでしょうか。 『色情海女 乱れ壷』(1976年) 『潮吹き海女』(1979年) 『色情海女 ふんどし祭り』(1981年) 『くいこみ海女 乱れ貝』(1982年) ※各作品はFANZAをはじめする動画配信サービスにて配信中です 次回は「夫人」シリーズをご用意しましたので楽しみにお待ちください。それでは次回まで皆さんも楽しいグレイト余生を! 衛星劇場「グレイト余生映画ショーin日活ロマンポルノ」 出演・構成 みうらじゅんプロデューサー 今井亮一 ディレクター 本多克幸 製作協力 みうらじゅん事務所・日活 ■2020年12月 放送予定 【衛星劇場】(スカパー!219ch以外でご視聴の方) ・『ベッド・パートナー』(HD初放送) ・『婦人科病棟 やさしくもんで』 ・『肉体保険 ベッドでサイン』 ・『ベッド・イン』【衛星劇場】(スカパー!219chでご視聴の方) ・『ベッド・パートナー』(R-15版) ・『愛獣 赤い唇』(R-15版) ・『ラブハンター 熱い肌』(R-15版)あわせて、衛星劇場では、サブカルの帝王みうらじゅんが、お勧めのロマンポルノ作品を紹介するオリジナル番組「みうらじゅんのグレイト余生映画ショー in 日活ロマンポルノ♯91」を放送! ※人気コーナー「みうらじゅんのグレイト余性相談室」では、皆様から性のお悩みや、疑問を大募集! ■2021年1月 放送予定 【衛星劇場】(スカパー!219ch以外でご視聴の方) ・『快楽温泉郷 女体風呂』(HD初放送) ・『江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者』 ・『東京エロス千夜一夜』 ・『女教師のめざめ』 【衛星劇場】(スカパー!219chでご視聴の方) ・『快楽温泉郷 女体風呂』(R-15版) ・『ベッド・パートナー』(R-15版) ・『愛獣 赤い唇』(R-15版) あわせて、衛星劇場では、サブカルの帝王みうらじゅんが、お勧めのロマンポルノ作品を紹介するオリジナル番組「みうらじゅんのグレイト余生映画ショー in 日活ロマンポルノ♯92」を放送! ※人気コーナー「みうらじゅんのグレイト余性相談室」では、皆様から性のお悩みや、疑問を大募集!   【日活ロマンポルノ】 日活ロマンポルノとは、1971~88年に日活により製作・配給された成人映画で17年間の間に約1,100本もの作品が公開された。一定のルールさえ守れば比較的自由に映画を作ることができたため、クリエイターたちは限られた製作費の中で新しい映画作りを模索。あらゆる知恵と技術で「性」に立ち向い、「女性」を美しく描くことを極めていった。そして、成人映画という枠組みを超え、キネマ旬報ベスト・テンをはじめとする映画賞に選出される作品も多く生み出されていった。 日活ロマンポルノ公式ページはこちらから
  • 来る2021年に、日活ロマンポルノは生誕50年の節目の年をむかえます。それを記念して、ロマンポルノの魅力を様々な角度から掘り下げる定期連載記事を、本キネマ旬報WEBとロマンポルノ公式サイトにて同時配信いたします。「キネマ旬報」に過去掲載された、よりすぐりの記事を「キネマ旬報WEB」にて連載していく特別企画「あの頃のロマンポルノ」。 連載第1弾は、斎藤正昭氏と飯島哲夫氏によるコラムを「キネマ旬報」1972年9月上旬号より、前編、後編の二部構成にて、転載いたします。 ロマンポルノ作品として1972年第46回「キネマ旬報ベスト・テン」の第10位に選ばれ、脚本賞を神代辰巳、主演女優賞を伊佐山ひろ子が獲得した『白い指の戯れ』をピックアップ。斎藤正昭氏による映画評(前編)をお届けいたします。(※脚本賞と主演女優賞は第6位の『一条さゆり 濡れた欲情』とあわせて受賞)。 1919年に創刊され100年以上の歴史を持つ「キネマ旬報」の過去の記事を読める貴重なこの機会をお見逃しなく! 日活ロマンポルノのある転回を提示 感性ポルノの共犯者達 ▲「白い指の戯れ」より 「白い指の戯れ」は、日活ロマンポルノのある転回を提示した秀作である、と私は思う。誤解をおそれずに言えば、これはもはやポルノではなく、香り高い青春映画だ。 男が性的にワイセツで、未熟な女の性を深めていってやるというのが、ポルノ映画の一般的パターンなら、この作品の主人公の一人荒木一郎はなんと性に淡白なことか。ポルノ映画には場違いな主人公が登場してきた。女と接合するさいでもサングラスをはずさない。タバコをくわえていたり、チューインガムをほうばっていたりする。 日活ロマンポルノのこれまでの主人公たちが、この性を貫徹しなければ、と汗みどろになって打ち込んでいったのに対し、荒木の性への対応は、食ったり遊んだりと同じように、単に男や女の属性のひとつだぐらいに思っているようで、まことに不熱心な若者である。 女の伊佐山ひろ子にしても同様だ。処女から、後背位を楽しむ女にまで成熟していくというポルノ人物の変身経過をたどってはいるが、子宮が男を呼んでいるというようなぎらぎらする女のイメージがない。 この人物たち、よく町を歩きまわる。あてもなく歩きまわる。そして屈折する感情を、つぶやきとして言葉にする。どこかで見かけた人物たちである。 性への淡白さと、醒めた意識の若者、ひとかたまりになってゾロゾロ歩くグループ劇。もうおわかりだろう、日活ニュー・アクションの人物たちのイメージとぴったり重なり合っていることが。 荒木一郎はカービン銃を持たない藤竜也であり、伊佐山ひろ子は、狂暴性を欠いた夏純子なのだ。彼らはピストルやカービン銃を、性に持ちかえて、再登場してきたのである。 伊佐山ひろ子のラストの『自爆』行為、名乗り出なければ逮捕されずにすんだものを、自分でつかまりにいくことで果した自己解体、スリとった犯人の荒木一郎の方は、無残に女を捨てて去っていったーという結末も、ニュー・アクションの文体だ。 このような人物たちは、「濡れた唇」ですでに見ることができた。 あの若者谷本一は、ガールフレンドにペッティングを拒まれると、「屈辱を受けました、腹でも切りますか」と独白しながら、町を走っていった。「白い指の戯れ」の伊佐山ひろ子は、抱かれたあと「私、女でよかったワ」と所在なげに繰返えしつぶやき、ちょっぴり悲しくなると「死のう死のう」とひとりごとをいいながら歩きまわる。 「濡れた唇」も「白い指の戯れ」も、脚本は神代辰巳(「濡れた唇」は山口清一郎と共作)だ。 これまでのポルノが性を肉体と生理で描いたものなら、神代や村川透は、それを感性でとらえたといえるだろう。 『感性ポルノ』の共犯者は、もう一人いる。カメラの姫田真左久だ。「濡れた唇」「白い指の戯れ」と、行き先きもさだかでない、とらえどころのない若者の、心情的行動を、流れるようなカメラワークで、映像化した。これも一連のニュー・アクションの成果の流入だといえよう。 若者の感性を華麗な映像でとらえたこの作品を見ながら、私はある種の危惧感を持った。ポルノ映画はこんなに美しくていいのかという疑念でもある。ワイセツ感が極端に稀薄なこのような作品が、日活ロマンポルノのこれからの『潮流』になっていくのだろうか。 というのはニュー・アクションの栄光を背負った藤田敏八や沢田幸弘も作品を準備中と聞いたからである。エロやポルノと無縁だったというより、ストイックなまでに拒否してきた彼らが参加することで、神代・村川らの作業が提起したもの、悪くいえぽ清潔なポルノは、いっそう展開されていくだろう。日活ロマンポルノは、全く質をかえていくことが予想される。 変質するのはいい。が、ポルノ映画はワイセツ性にこそ存在の意味がある。性表現を拡げていくことがポルノ映画だということをお忘れなく。 文・斎藤正治 「キネマ旬報」1972年9月上旬号より転載 後編はこちらから 「白い指の戯れ」【Blu-ray】 監督:村川透 脚本:神代辰巳・村川透 価格:4,200円+消費税 発売:日活株式会社 販売元:株式会社ハピネット・メディアマーケティング. 日活ロマンポルノ 日活ロマンポルノとは、1971~88年に日活により製作・配給された成人映画で17年間の間に約1,100本もの作品が公開された。一定のルールさえ守れば比較的自由に映画を作ることができたため、クリエイターたちは限られた製作費の中で新しい映画作りを模索。あらゆる知恵と技術で「性」に立ち向い、「女性」を美しく描くことを極めていった。そして、成人映画という枠組みを超え、キネマ旬報ベスト・テンをはじめとする映画賞に選出される作品も多く生み出されていった。 日活ロマンポルノ公式HPはこちらから。
  • 1980年代ハリウッドを代表するヒット作として、いまだ人気衰えぬ「バック・ トゥ・ザ・フューチャー」(以下、「BTTF」)三部作。劇場公開から35周年を迎える今年、4Kニューマスター版の登場にあわせ、三ツ矢雄二が主人公 マーティ(マイケル・J・フォックス)の声を担当した日本語吹替版が、初めてスクリーンで公開されることとなった。そこで三ツ矢氏に、「BTTF」の魅力やアテレコ当時の思い出をあらためて語っていただいた。   役とシンクロして演じたアテレコ現場   ― 三ツ矢さんがマーティを演じた『日曜洋画劇場』バージョンの初放映は1989年でした。当時、「BTTF」という作品についてはどのような印象を持たれていましたか?  「バック・トゥー・ザ・フューチャーPART2」   三ツ矢 公開時に劇場で観て、やっぱりすごく面白かったですね。と当時に、このマイケル・J・フォックスの役は自分に合っているんじゃないか、ぜひやってみたいな、と思ったんです。ただ、こんな大作はやらせてもらえないだろうな、と。   ― マイケルはそれ以前にTVの『ファミリータイズ』(1982〜87年に放送されたアメリカの人気シットコム。日本でも86〜87年に放送された)でも人気でしたが、映画スターになった のは「BTTF」からですね。 「バック・トゥー・ザ・フューチャーPART3」 三ツ矢 ええ。大ヒット作で、マイケルの人気が急上昇した作品でもあったので、日本語版をつくるにあたっては誰に吹き替えをさせるか、TV局のほうでも侃々諤々あったようです。有名なスターにやらせるのがいいんじゃないか、とかね。同じ頃、僕は「ティーン・ウルフ」(85)という映画で主演のマイケルの声を担当することになったんですけど、あとで聞いた話では、それは一種のオーディションで、そこで大丈夫そうだったら「BTTF」に起用しよう、という流れができていたらしい。だから僕にとっては「ティーン・ウルフ」がなければ「BTTF」もなかったんですよ。 ― 僕も当時リアルタイムで観ていましたが、『日曜洋画劇場』での三ツ矢さんの吹き替えと いえば、「BTTF」の少しまえに放映された 「アマデウス」(84)のトム・ハルス(モーツァルト)も印象的でした。 「バック・トゥー・ザ・フューチャー」 三ツ矢 「アマデウス」はものすごく苦労しました。オーディションのときに、トム・ ハルスの独特の笑い方をどう表現するか という試験があり、役が決まってからは 自宅でひたすら笑い方の練習をしていて、近所の人はそうとう変に思っていたんじゃないかな(笑)。ほかにも自分とはまったく違う面を持った役だったので、非常に悩みながら演じていたのを憶えています。その点、「BTTF」のマーティはわりと普通の少年で、すごく親近感をおぼえました。僕は英語はできないけど、もし自分があの役をオファーされたとしても、すんなりマーティになれるんじゃないか、という感覚があった。アテレコのときにも、画面上のマイケルの動きに合わせて手を上げたり飛び上がったり、シンクロしながら楽しんで演じていました。 ― なるほど。三ツ矢さんのマーティは、ふとした瞬間の驚きの声や息づかいにすごく臨場感があると感じていたのですが、そういうことだったんですね。 三ツ矢 若手の頃に先輩から「声優の力で作品をより面白くするんだよ」と教えられたことがあったんです。だから「BTTF」でも、「もし自分がマーティだったらこうするんじゃないか」ということを常に考えながら演じていました。 ”ドック役”穂積隆信さんの存在  「バック・トゥー・ザ・フューチャー」 ―日本語版の翻訳はたかしまちせこさん、演出は左近允洋さんというベテラン組ですが、アドリブ含め現場で膨らませていった部分も大きかったのですか? 三ツ矢 息づかいに関しては、僕自身が演じながら活性化していくところがあるので、台本に書かれている以上に息づかいを入れるようにして、左近允さんに「いらないところはあとで消しちゃってください」とお願いしていました。全体 的に原語版よりオーバーに演じていますが、それはドック役(公式表記は「ドク」だが、三ツ矢版の発音に合わせて「ドック」と表記)の穂積隆信さんの存在が大きいですね。穂積さんはスタジオに入った段階ですでに完全に役になりきっていて、クリストファー・ロイ ドに匹敵するものすごいテンションでマ イクの前で動きまくるんです。だから僕も負けじとテンションを上げて......。穂積さんは素晴らしかったですね。相手役のセリフもちゃんと聞いていて、こっち が投げたボールを的確に受け止めてくれるし、本当にドックを演じるために生まれてきたんじゃないかなと思うくらい(笑)。  ― 物語的にも「BTTF」はダレ場がなく、始まりから終わりまで一気に駆け抜けていく。 「バック・トゥー・ザ・フューチャーPART2」  三ツ矢 そうなんです。だから、僕らも演出家に「そこはやり過ぎなので、もう少し抑えてください」と言われるところ以外は、とにかく押して押してという感じの芝居を心がけていました。だから収録終わりには、魂が抜けたみたいにヘトヘトになっていましたね。マイケル本人は何日かに分けて撮影しているんでしょうけど、こっちは一日で全篇撮りきるわけですから(笑)。左近允さんは「リハーサルでは力を抜いていいよ」と言ってくれましたが、 画面を観ているうちにやっぱりノッてきちゃうんです。だから喉をつぶさないよ うに気をつけていました。「13日の金曜日」シリーズに毎回殺される若者の役で出ていたときは、とにかく悲鳴ばかり上げるので、一度喉をつぶしてしまったことがあって。 ― セリフの言い回しも面白いものが多いですね。 若き日の父親に思わず「父さん」と呼びかけそう になって、「と、とうへんぼく」とごまかしたり...... 三ツ矢 ありましたね(笑)。あれはシナリオ通りです。 「バック・トゥー・ザ・フューチャーPART2」 このメンバーだからこそ生まれた呼吸   ― そのほかの共演者の皆さんの印象は?   三ツ矢 普段から付き合いの深いメンバーが集まったこともあって、すごくやりやすかったですね。阿吽の呼吸と言うのかな、お互いに気負うことなくスムーズに作品に入り込めたと思います。古川登志夫さんのお父さんなんかピッタリで、あの「アッアッアッ」っていう笑い声が可笑しくて、つい隣で吹き出しちゃったくらい(笑)。高島雅羅さん(ロレイン役)にしても、佐々木優子ちゃん(ジェニファー役)にしても、玄田哲章さん(ビフ役)にしても、全員のキャラクターが違っていて、それぞれの個性がちゃんと出ていました。 ― オリジナルキャストでは、ジェニファー役が 「1」ではクラウディア・ウェルズだったのが「2」 「3」ではエリザベス・シューに替わりましたが、日本語版では一貫して佐々木さんが声を担当されています。こういうところは日本語版ならではですね。 「バック・トゥー・ザ・フューチャーPART3」 三ツ矢 3部作とおしてマーティを演じることができたことは本当によかったと思います。「2」のときはすでに役のイメージを摑めていたのでさらにやりやすかったんですけど、2015年のマクフライ家のシーンでマイケルが老けたマーティとか娘とかをいっぺんに演じてみせるシーンはさすがに驚きました。僕は最初、そこだけ違う声優さんがやるのかなと思っていたんですが、「君が全部やるんだよ」と言われて「えっ 」って。でも実際にやってみたら、すごく楽しく演じることができて、シリーズのなかでもあそこは印象深いですね。 ――今回は35周年を記念しての上映となるわけですが、時代を経て観直すことで気づくこともありますか? 三ツ矢「BTTF」という作品自体は、いつ観直しても新たな発見がある作品だと 思います。たとえば、「2」のビフがトランプをモデルにしていることとか、いま観るとすごく予言的ですよね。未来の世界にある「ジョーズ」の飛び出す看板なんかも実現していますし。僕自身に関しても言えば、いま同じよ うにマーティを演じようとしても、たぶんできないだろうと思います。あのテンションでやったらさすがに喉がもたないでしょうし。30〜35歳までの声優としての黄金期といえる時代に、「BTTF」や「アマデウス」、それにアニメの『タッチ』(85-87) などに出演できたことは僕の誇りですね。 取材・構成=佐野亨 「バック・トゥ・ザ・フュー チャー」トリロジー4Kニュー マスター吹替版/字幕版「バック・トゥー・ザ・フューチャーPART3」 監督: ロバート・ゼメキス 出演 (声):マイケル・J・フォックス (三ツ矢 雄二)、クリストファー・ロイド(穂積 隆信)、 リー・トンプソン(高島 雅羅)、 クリスピン・グローヴァー(古川 登志夫) 、トーマス ・ F ・ ウィルソン(玄田 哲章) ◎新宿ピカデリー ほか全国にて上映中 ©1985 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved. ©1989 UNIVERSAL CITY STUDIOS, INC. ©1990 UNIVERSAL CITY STUDIOS, INC.    みつや・ゆうじ 1954年生まれ、愛知県出身。12歳で国際児童劇団に入り 、子供向けドラマでデビュー。人気声優としてアニメ『タッチ』の上杉達也役、『キテレツ大百科』のトンガリ役をはじめ出演作多数。音響監督やミュージカルの作詞なども手掛けるほか、近年は「LGBT THEATER」を立ち上げるな ど、性的マイノリティへの理解を深める活動も展開している。