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  • 6月26日(金)より公開されるシルヴェスター・スタローン主演最新作「ランボー ラスト・ブラッド」の連続企画。第4回は、ランボーの世界を掘り下げるエッセイその2をお届け。 ※第3回の記事はこちらから。 新作「ラスト・ブラッド」では馬に跨り、あまつさえカウボーイハットすら被ってみせるランボー。だが、それは決して驚くべきことではない。なぜなら、ランボーはもともと「西部劇」だったのだ! シリーズの基盤、西部劇の記憶 シルヴェスター・スタローンは、「ランボー」シリーズの前作となる「最後の戦場」公開時の記者会見で、さらなる続篇への意欲を見せ、「西部劇として作りたい」と述べていた。今回出来上がった最新作「ラスト・ブラッド」を見ると、主人公ランボー が農場で野生の馬を馴らす仕事をしているという設定だけでなく、拉致された知人を救いにゆくという展開、かつメキシコが舞台と、なるほど西部劇というのも納得できる仕上がりになっている。と同時に、さかのぼってそれ以前のシリーズ作もまた根本的には西部劇ではなかったのか、と思えてくる。この新作は、「ランボー」シリーズがその底流に潜在させていた西部劇を照射してくれるのだ。  第1作「ランボー」は、ヴェトナム戦争の英雄が、 母国の田舎町でよそ者を敵視する保安官にいわれなき迫害を受け、逆襲、彼らに壊滅的な被害を与えるという内容だ。ヴェトナム帰還兵が、正義なき戦いで心の傷を負ったうえ、帰還してみれば自分たちの戦争が汚辱にまみれたものと規定されるという二重の苦しみを味わわなければならなかった不条理を、直接的ではなく象徴的に、それゆえ普遍的な形に昇華して描いた秀作(マーティン・スコ セッシ「タクシードライバー」、マイケル・チミノ「ディア・ハンター」など)は既に70年代に撮られており、遅れてきた「ランボー」は、これらの秀作と比較されてかえって損をしていた可能性がある。 ヴェトナムものという枠組みを外して見れば、西部劇に直につながる紐帯も見えやすくなってくる。  「流血の谷」と「モヒカン族の最後」 実は「ランボー」には、これがリメイク元では ないかと思われる西部劇がある。アンソニー・マンの「流血の谷」(50)だ。白人とインディアンの混血である主人公(ロバート・テイラー)が南北戦争に従軍、勲功を挙げて故郷に帰るが、人種差別的な住人によって迫害され、土地も奪われ、裁判まで起こすが白人側の勝利に終わり、ついに立ち上がる、というもの。主人公が戦争の大義を信じ、そのために戦ってきたという点だけは違っているものの、話はほとんど同じ、しかもランボーは、第2作「怒りの脱出」で明かされるところによるとインディアンとドイツ人の混血であり、「流血の谷」の主人公と出自も似ている。 白人の血が混じったインディアンといえば「モヒカン族の最後」という何度も映画化された有名 作があり、直近ではマイケル・マン監督「ラスト・オブ・モヒカン」(92)としてリメイクされているが、ダニエル・デイ=ルイスが長髪をなびかせ、弓矢を引く姿が印象に残る。この造形は弓矢を武器として好んで使用する第2作以降のランボーに極めて似ており、ランボーの西部劇への逆輸入を思わせる。これはランボーが西部劇的な土壌に親近性があることのひとつの証しになりはしないか。ランボーは、西部劇におけるインディアン、白人に迫害されて反逆するインディアンの系譜につながる存在なのだ。  ジョン・フォードの記憶 2作以降、第3作「怒りのアフガン」、第4作「最後の戦場」、そして最新作に至るまで、基本的には拉致された存在をランボーが奪還にゆくというストーリー形式をとる。 西部劇には、インディアンに囚われた捕虜の救助作戦を描く作品群があり、最も有名なものとしてはジョン・フォード「捜索者」(56) 、「馬上の二人」(61)が挙げられよう。ただし、これらの作品では必ずしも助けることが正義とばかりも言えない倫理的暗さがまといついている。「ランボー」シリーズ第2作以降にそうした暗さは見当たらないが、拉致された者の救出という枠組みは、西部劇の型を踏襲していると見てよいだろう。  また第2作でランボーは自分たちをヴェトナムでは使い捨ての兵士=消耗品に過ぎなかったと述べているが、これはやはりジョン・フォードの「コレヒドール戦記」、( 原題 「彼らは消耗品だった」)を思わせる。さらに「最後の戦場」でランボーは、正義感の強い女性にいわばほだされて 彼女の仲間を救いにゆくが、その結構はヘン リー・ハサウェイ「勇気ある追跡」(69)とコーエ ン兄弟によるそのリメイク「トゥルー・グリッ ト」(10)を連想させる。「勇気ある追跡」はフォードの常連俳優ジョン・ウェインの晩年の代表作だ。偉大な「西部劇作家」ジョン・フォードは、アメリカにおいて西部劇なるものの紋切り型として受け取られているきらいがあるが、それだけに観客の無意識にまで浸透しているともいえる。フォードの記憶は「ランボー」シリーズにも流れ込んでいる。  「許されざる者」  さて 、 最新作「ラスト・ブラッド」ではランボーはメキシコの人身売買組織に捕らわれた友人の娘を救いに行く。前作のラストで故郷アリゾナの、父が営む農場に帰った彼だが、その父もすでに墓に入っている。ランボー自身の顔にも風雨や年月に晒されて深い皺が刻まれている。実際、彼はもはや昔のような超人ではない。本作ではランボーが組織の連中に人事不省になるまで痛めつけられる場面があるが、こんなランボーは今まで見たことがない。ランボーも老いたのだ。 老いた存在が主人公の西部劇と言えば「許されざる者」(92)を思い起こさないわけにはいくまい。 本作のこれまで述べてきた特徴は実はすべて「許されざる者」に存在する。大木の根元、残照に陰る墓。最後の一仕事に出る老体。痛めつけられ、 死の間際までいった主人公の逆襲。「許されざる者」が、老いのアクションの基準となったことは 十分考えうることだ。 西部劇はアメリカ映画にとっての無意識である。 銃による正義の行使を描こうとする時、アメリカ映画であれば、それは必ず西部劇という土壌を通過しないわけにはいかない。ここに挙げた西部劇を「ランボー」シリーズが参照したとまでは言えないにしても、作る側も見る側も、無意識に蓄えられた西部劇の記憶をまさぐりながら作り、見ているのである。現在という時点に露呈する映画作品が、いかに過去との交渉の中に生きているか、その一つの証左がここにある。  【「ランボー ラスト・ブラッド」への道 全5回】 ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道① シルヴェスター・スタローン主演・脚本インタビュー はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道② 名台詞とともに振り返る 「ランボー」シリーズのこれまで はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道③ キリスト受難劇としてのランボー はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道④「西部劇」としてのランボー はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道⑤アメリカの戦争とランボー はこちらから 映画「ランボー ラスト・ブラッド」 Rambo: Last Blood 2019年・アメリカ・1時間41分 監督:エイドリアン・グランバーグ 脚本:マシュー・シラルニック、シルヴェスター・スタローン 撮影:ブレンダン・ガルヴィン 音楽:ブライアン・タイラ ー 出演:シルヴェスター・スタローン 、パス・ヴェガ、セルヒオ・ペリス=メンチェータ、アドリアナ・バラーサ、イヴェット・モンレアル、オスカル・ハエナダ 配給:ギャガ ◎6月26日(金)よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国にて ©2019 RAMBO V PRODUCTIONS, INC. 文・吉田広明 よしだ・ひろあき 映画文筆。著書に『B級ノワール論 ハリウッド転換期の巨匠 たち』『亡命者たちのハリウッド 歴史と映画史の結節点』がある。
  • 6月26日(金)より公開されるシルヴェスター・スタローン主演最新作「ランボー ラスト・ブラッド」の連続企画。第3回からは、ランボーの世界を掘り下げるエッセイをお届けしていこう。 ※第2回の記事はこちらから。 なぜランボーはいつも敵に痛めつけられるのか? なぜその身体は傷だらけなのか? シリーズを通して幾度も描かれる肉体的苦難=受難(パッション)の迫力のなかにこそ、俳優スタローンの真髄があった! 強調される肉体的苦難  カトリック系宗教新聞による2007年のインタビューのなかで、スタローンは「ランボー/最後の戦場」を「キリスト教的な映画(Christian movie)」だと述べている【脚注】。また、この記事は、 彼が幼少時からカトリック教育を受けたこと、 80年代は成功にかまけて教会から遠ざかっていたが、 90年代後半、病気を抱えて生まれてきた娘の存在がきっかけで、ふたたび信仰を重んじるようになったという事実を伝えている  さて、では「キリスト教的」とは、どのような意味だろう。「最後の戦場」は、コロラド州からやってきた牧師たちをランボーがミャンマーで手助けする話だ。あらゆる「信仰」を失った主人公が、血みどろの戦場で、魂の救済のためのかすかなチャンスを摑むことができるかいなかが問われる。だから物語に「キリスト教的」なところがあるとひとまず言える。だがもちろんそれだけではない。ここでもまた濃密に繰り返されているランボーの苦行──あざけられ、ののしられ、嗤われ、瀕死の傷を負うその様子が──ヴィジュアルにおいて、はっきりとキリストの「受難=パッション」を反復している。スタローンはそのことをも自覚して「キリスト教的」と述べたのではないか。  たとえば、「ランボー/怒りの脱出」を見返してみよう。敵軍の捕虜となり、鎖で縛られたままヒルたちの巣食う泥沼に肩までとっぷりと浸かった主人公が、ずるずるとチェーンで引き上げられてゆく。すると私たち観客が目撃するのは、磔刑図そのままに、両腕を広げ足をだらりと垂らすその全身図であった。次の場面、加虐趣味が人相にはっきりと浮き出たソ連軍人たちにランボーが高圧電流を流されると、当時体脂肪率が5%を切っていたというその引き締まった肉体はさらに怒張し、筋線維の一本一本までが裸電球に照らされて浮き上がる。この衝撃的な光景は、殉教の苦悶を誇張して描いたバロック絵画さながらの力で観客を怯えさせずにいない。  「ランボー3/怒りのアフガン」では、冒頭の地下闘技場場面を経て、大工姿でトンカチを操る姿を 披露するランボーがいる。仏教寺院の上とはいえ、 キリストと同じ仕事に手を染めていることが偶然とは思えない。闘いに身を投じると、やはり肉体的苦難こそが過剰なまでに強調される。洞窟で独り、自分の脇腹── 十字架のキリストが 槍で刺し貫かれたのと左右違いで はあるが同じ箇所──に突き刺さった木片を、傷口の反対側から親指を突っ込んで押し出し、つぎに弾倉の火薬を注ぎ、着火して消毒、苦悶に耐えかね「ハウ アッ!」と絶叫するまでの姿が、 えんえんと、物語展開だけを考えればどう考えても不要な長さで描かれる。見誤るべくもないだろう。「ランボー」シリーズは、アメリカの大義の犠牲となって見捨てられた戦士の姿を、キリスト受難劇に重ねて描こうとする作品群なのだ。  ”受難劇俳優” スタローン  無論、アクション映画を「受難」の意匠とともに物語ることは、スタローンの専売特許ではない。木谷佳 楠の『アメリカ映画とキリスト教──120年の関係史』(キリスト新聞社、2016年)に詳しいが、 そもそもハリウッド商業映画は、アメリカ国民に反感なく受け入れられるために、自ら進んでキリスト教的な要素を積極的に取り入れてきた歴史を持つ。 1970年代のキリスト・リヴァイヴァル(ヒッピーのような長髪の反逆児として描かれることで、キリスト人気が再燃した)、1980年代のレーガン政権下における保守的宗教観の復権等々といった情勢を、 本シリーズの作り手たちは当然、意識していただろう。  だが、そうした文脈を踏まえてもなお、スタローンが自作自演する受難の光景には、異様としか言いようがないみなぎ かいいようのない迫力が漲る。それはなぜか。  俳優スタローンの魅力の核心部分と、それはかかわっている。モノマネのときによく誇張される あのだらりと垂れ下がった唇と舌っ足らずのしゃべりかたは、わざとそう演じているのではなく、 出生時に負った神経の傷の後遺症なのだそうだ。 イタリア系であることに加え、唇の麻痺による特 徴的な話し方が悪ガキどもにマークされ、スタローンはニューヨークの少年時代に過酷ないじめに遭った。悪夢としてずっとフラッシュバックし つづけるほどの体験だったそうだ。  忘れようとしても忘れられないもの。やむにやまれぬもの。意図に反して漏れ出てしまうもの。 芝居で意図的に表現するのが本来不可能であるは ずのこうした何かを、スタローンは、だらりと垂 れ下がった唇という自らのスティグマをあえて強調しながら、スクリーンに顕現させる。余人を持って代え難い資質というほかはない。  最新作の「ランボー ラスト・ブラッド」もまた、 忘れようとしても忘れられない過去の傷が再燃する物語を描く。そしてランボーは暴力の渦巻く場 所へと吸い寄せられてゆく。老いを加えたその肉体が、暴力描写に一層の凄みを与えている。いっ たいスタローン以上の“受難劇俳優”がかつて映 画史に存在しただろうか。あの「裁かるゝジャンヌ」(1928年)のファルコネッティ以外についぞ思いつきはしないのだった。  【脚注】 “Rambo IV “is also a Christian film,” Sylvester Stallone confirms, ” Catholic News Agency, Mar 1 2007, (https://www.catholicnewsagency.com/ news/rambo_iv_is_also_a_christian_film_sylvester_ stallone_confirms).  【「ランボー ラスト・ブラッド」への道 全5回】 ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道① シルヴェスター・スタローン主演・脚本インタビュー はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道② 名台詞とともに振り返る 「ランボー」シリーズのこれまで はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道③ キリスト受難劇としてのランボー はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道④「西部劇」としてのランボー はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道⑤アメリカの戦争とランボー はこちらから 映画「ランボー ラスト・ブラッド」 Rambo: Last Blood 2019年・アメリカ・1時間41分 監督:エイドリアン・グランバーグ 脚本:マシュー・シラルニック、シルヴェスター・スタローン 撮影:ブレンダン・ガルヴィン 音楽:ブライアン・タイラ ー 出演:シルヴェスター・スタローン 、パス・ヴェガ、セルヒオ・ペリス=メンチェータ、アドリアナ・バラーサ、イヴェット・モンレアル、オスカル・ハエナダ 配給:ギャガ ◎6月26日(金)よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国にて ©2019 RAMBO V PRODUCTIONS, INC.
  • 6月26日(金)より公開されるシルヴェスター・スタローン主演最新作「ランボー ラスト・ブラッド」の連続企画の第2回。 ※第1回の記事はこちらから。 屈強な肉体と戦場さながらのアクションが売りである本シリーズ。ランボー自身もどちらかというと寡黙なキャラクターではある が、それだけに発せられる一言の重みは、作品の主題を決定づけるほど大きい。ここでは劇中の名台詞とともに、「ランボー ラスト・ ブラッド」までの歩みを振り返ろう。 「何も終わっちゃいない。 俺にとって戦争はまだ続いたままだ」(「ランボー」より)   ヴェトナム帰還兵ランボーは、ふらりと訪れた街で「面倒を起こしそうだ」と難癖をつけられ、さらに投獄される。事情聴取という名の拷問で戦場のトラウマが蘇り逃亡。警官隊との死闘に発展するという物語。国家に見捨てられた帰還兵という、ヴェトナム戦争の暗部を明瞭にテーマ化した代表的作品である。「何も終わっちゃいない。俺にとって戦争はまだ続いたままだ」と泣き叫び、約3分の長ゼリフをキメる演技者スタローンのすばらしさ。その涙を受け止めるのは、ランボーがただひとり信頼を寄せるトラウトマン大佐(リチャード・クレンナ)である。 しかしこの作品の真の悲劇は、戦争が始まったことの本質はちっとも変わっていないという点にある。さらにそれをランボーが、終わっていないのは「俺の」戦争だと勘違いしたことだ。脚本家スタローンの聡明さはそれを見通した点にある。 白人しか見当たらぬその街で、ランボーは食事をしたかっただけだ。それなのに投獄され、同じアメリカ人に発砲までされる。よそ者排除の論理である。「俺の」戦争は終わっていたはずなのだ。たとえばランボーは、走ってくるバイクに 飛びかかってそれを奪う。そのとき運転手が路面に頭を打たぬよう、実に繊細な手さばきで彼を引き落としている。一瞬の早業だが、無関係な犠牲者は絶対に出さないという非戦場の倫理は尽くしている。 しかし警官隊の圧倒的な火力と共に、アメリカの森林がいつしかヴェトナムのジャングルに変わる。米兵として戦った自分が、米国人に追い詰められる。アメリカは負けた。そしてその負けたやり方を国内で繰り返している。だから当然、警官隊はランボーに負ける。終わっていないのはランボーの戦争でなく、アメリカの戦争なのだ。 そうしむけたのは、ランボーに異常な敵愾心を持つ保安官ティーズルである。もし彼がランボーをそっとしておけば、悲劇は起きなかった。殺人兵器ランボーを作ったのはトラウトマンだろうが、覚醒させたのはティーズルだ。そして彼のような極端な身びいきと偏見が、戦争の遠因であることは言うまでもない。 このティーズルという難役を、ブライアン・デネヒーが演じる。アメリカの負の論理を見事に具現した演技が、作品のテーマを最大限に深め、かつ明確にしている。同時期の「コクーン」(85)では慈愛のエイリアンという対照的な役で、アメリカの清と濁を自在に横断したデネヒー。惜しくもこの月に歳で没したことを記憶にとどめたい。 映画「ランボー」(1982) 監督:テッド・コッチェフ 共演:リチャード・クレンナ、ブライアン・デネヒー ©︎1982 STUDIOCANAL   「俺は捨て石だ(アイム・エクスペンダブル)」(「ランボー/怒りの脱出」より)   今もいるという捕虜確認のため、ヴェトナムに向かったランボーだったが、本部に裏切られ再び戦闘に手を染める。帰還兵を敬わぬ今のアメリカは、同胞さえ見捨てる。 米軍の鉄則とは決して仲間を見捨てないことだったはずだが、ベトナム戦争はその倫理を失った。それが今作の着想である。 荒唐無稽なアクション映画の体裁を持つが故に、その点が見えにくいのは痛恨だが、 その代わりアクションの興奮度も最高である。囚われのランボーが、床下に潜む現地女性兵とのアイコンタクトで、一瞬のもとに敵を殲滅する連携プレイなど、何度見ても胸躍り、血が騒ぐ。 地上のゲリラ戦、峡谷での水中戦、ヘリによる空中戦と、戦闘の舞台が陸水空の三段階で拡大していく展開は、いかにも共同脚本ジェームズ・キャメロンがやりそうな段取りだ。「ターミネーター」(84)でのブレイク直後の仕事である。 また、米軍ヘリに見捨てられるランボーは、状況的に信頼するトラウトマンにさえ騙されたと誤解しておかしくない。ところがランボーの気力をくじこうと、「お前は祖国に捨てられたのだ」とロシア兵がその時の傍受録音を聞かせると、逆に裏切ったのろしのは本部だと見抜き、それが反撃の狼煙となる。この冴えた脚本は、言葉に二重の意味を与える脚本家スタローンが、しばしば使う手口だ。  とはいえ、本作での政治的誤認および、大量殺戮とアジア人蔑視ともとれる描写をどう評価するかは、議論が必要だ。というのも前作でランボーが殺したのは実はただひとり。それも身を守るための事故なのだ。同じアメリカ人を彼は決して殺さない。 「俺は捨て石(エクスペンダブル)だ」と自嘲気味に呟くことで、彼は呪われた殺人兵器としての運命を自己解決している。本特集にも寄稿している三浦哲哉はスタローンの聖性に着目するが、囚われのランボーは幾度も磔刑のイエスと同じ姿を示す。以後のランボーは贖罪という主題を負い、それは同時に映画人スタローンの興行的成功と批評的不遇という十字架にもなる。 映画「ランボー/怒りの脱出」(1985) 監督:ジョージ・P・コスマトス 共演:リチャード・クレンナ、チャールズ・ネイビア、ジュリア・ニクソン ©︎1982 STUDIOCANAL 「俺の戦争は終わったんです」(「ランボー3/怒りのアフガン」より) シリーズの基本概念に「贖罪」のテーマが召喚されると、次にランボーが信頼するトラウトマン大佐こそ、彼にとっての死神であることが見えてくる。 前作では強制労働に従事し、そこに安住の場所を見出していたランボーを、彼は再 び戦場に送り出した。そして今回も、ソ連が軍事介入するアフガニスタンへの同行を求めて姿を現す。 今のランボーは、賭け闘技で得た金を僧に施し、寺院建築を手伝いながらバンコクで暮らしている。「ここで働くのが好きだし、腰を落ち着けたい」と述べ、ついに「俺の戦争は終わった」と言うランボーを、「君の本質は変わらない」と口説き落とす。 それでも固辞するランボーをあきらめ、アフガンに渡ったトラウトマンだが、ほどなくソ連軍の捕虜となる。そこでランボーは救出のため、またもや戦場に赴くことになる。 2作目以後のシリーズ基本構成がここで確立する。すなわち救出、攻撃、脱出の三位一体だ。3つのどれが欠けても成立しない。しかし「攻撃」には犠牲が伴い、必然的に復讐の念が生まれ、しかもランボーは必ず生き残る。だからの贖罪という連環なのだ。 今作で特筆すべきは、アフガニスタンの国技とされるブズカシを描いたことだ。ヤギの死体を馬上から奪い合うこの競技を通じ、ランボーは現地人との交友を深めてい く。しかしそこにどっと総攻撃を加えるのがソ連軍だ。 ブズカシは激しい競技である。だから一瞬、競技上の事故なのか、敵軍の攻撃なの かランボーさえも混乱する。ここでの演出、編集のリズムは実に見事で、騎馬群の背 後から圧倒的な重量感で迫るヘリを捉えるショットには息をのむ。ジャングルのない広大な砂漠を舞台に、最新兵器を次々と投入する見せ場も、質量感と疾走感の完璧な融合で、80年代アクションのひとつの頂点と言いたい。 しかし。「アフガン兵たちに捧げる」と示すラストの妥当性など、その後のアフガン状況を思うに無視できぬ点であり、本作評価の方法は映画批評における課題でもある。 映画「ランボー3/怒りのアフガン」(1985) 監督:ジョージ・P・コスマトス 共演:リチャード・クレンナ、チャールズ・ネイビア、ジュリア・ニクソン ©︎1982 STUDIOCANAL   「無駄に生きるか何かのために死ぬか ・・・お前が決めろ」(「ランボー/最後の戦場」 より) 前作から20年。90年代はランボーもロッキーも新作がない。両者の不在はなぜなのか。逆に21世紀に復活した理由は。陰りゆくスターとしての人気再燃の方便だろうか。しかし今作が描いた非道の残虐さは尋常ではない。しかもシリーズ唯一の監督作。ならばそんな思惑以上の何かがあるように思えてならない。 前作以後、ネットで世界の現実に容易に触れられるようになった。冒頭ではそれを示すように、凄惨な死体の記録映像を示す。映画はこの現実を描くのだとばかりに容赦なく。事実、手足や内臓が飛び散る戦闘描写は常軌を逸し、アクション映画の域を超える。 トラウトマンはもういない(リチャード・クレンナは03年に逝去)。今回ランボーを誘うのはキリスト教NGO。軍事独裁に苦しむミャンマーの住民支援に、ランボーは案内を請われ拒絶するが、命を救いたいという女性NGOサラの強い説得に、重い腰をあげる。しかし住民たちは皆殺し。NGOも全員が拉致される。ランボーは彼ら、というよりサラ救出のために武器をとる。 シリーズ最高作と考えたい。戦闘描写は、人の造りし兵器がどれほどむごい結果をもたらすかを示して余りある。凄絶な殺し合いの果て、はるか遠方からランボーを見つめるサラと、見返すランボーの切り返しは、幾万もの感情を言葉なく伝えきった屈指の名シーンだ。 死体の山の中、ランボーを見つめるサラの目に、救われたことへの感謝の念はない。 命を救うためこれほどの死を招いたのだ。ランボーの目には深い諦念と、かすかな悲恋の情。最新作でも「フタをされているだけ」の彼の贖罪は続く。人を救うため に人を殺す。となれば、そこには命の価値が天秤にかかっているのだ。 第一作で「この街では俺が法だ」とティーズル保安官は言う。ランボーは「森の中では俺が法だ」と。しかしこの世においては誰が法なのか。命の価値を問えるのは神だけだ。サラに譲られた十字架を握りしめるランボーは、きっとそのことを問うているはずなのだ。 【「ランボー ラスト・ブラッド」への道 全5回】 ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道① シルヴェスター・スタローン主演・脚本インタビュー はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道② 名台詞とともに振り返る 「ランボー」シリーズのこれまで はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道③ キリスト受難劇としてのランボー はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道④「西部劇」としてのランボー はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道⑤アメリカの戦争とランボー はこちらから     映画「ランボー/最後の戦場」 (2008) 監督:シルベスタ・スタローン 共演:ジュリー・ベンツ、マシュー・マースデン、グレアム・マクタヴィッシュ ©︎2007 EQUILY PICTURES MEDIENFONDS GMBH & CO.KG IV 映画「ランボー ラスト・ブラッド」 Rambo: Last Blood 2019年・アメリカ・1時間41分 監督:エイドリアン・グランバーグ 脚本:マシュー・シラルニック、シルヴェスター・スタローン 撮影:ブレンダン・ガルヴィン 音楽:ブライアン・タイラ ー 出演:シルヴェスター・スタローン 、パス・ヴェガ、セルヒオ・ペリス=メンチェータ、アドリアナ・バラーサ、イヴェット・モンレアル、オスカル・ハエナダ 配給:ギャガ ◎6月26日(金)よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国にて ©2019 RAMBO V PRODUCTIONS, INC. 文・南波克行 なんば・かつゆき 映画批評。近著に『スティーブン・スピルバーグ(フィルムメーカーズ18)』(編著)、『フランシス・フォード・コッポラ、映画を語る』(翻訳)など。
  • 6月26日(金)より公開される人気アクション・シリーズ最新作「ランボー ラスト・ブラッド」の連続企画。第1回は、主演・脚本のシルヴェスター・スタローンのインタビューをお届けしよう。 ランボーを人間として、 戦争を戦争として描くこと  1982年に第1作「ランボー」を発表し、人気アクションスターとしての地位を確立。以来、 同シリーズに主演・脚本として関わり続けてきたシルヴェスター・スタローン(第4作「最後の戦場」は監督も)。前作から約10年、73歳のいぶし銀の肉体を奮い立たせ、再び同役に挑んだ彼が作品に込めた思いとは。記念すべき第1作にまつわる秘話も語ってくれた。  穏やかになったランボー  シルヴェスター・スタローンは、「ランボー ラスト・ブラッド」について、そう語る。それは今作の冒頭からも明らかだ。ランボーは、 亡き父が残したアリゾナの家に、昔からの友達マリア、彼女の孫娘ガブリエラと暮らして いる。その“疑似家族”は心地よく、彼は穏 やかで優しくなった。だがある日、ガブリエラは、ずっと連絡が取れなかった実の父の居所がわかったと、勝手にメキシコに戻ってしまう。彼女を待ち受けていたのは、大きな悲劇。ガブリエラを救うため、ランボーもひとり、国境を越えて南に向かう......。  「以前の彼は、自分以外の誰にも興味を持てない人間だった。猫ですら可愛いとは思わない。 ペットを飼うこともありえない。心は完全に内向き。でも、今の彼は、ガブリエルのことを実の娘のように気にかけている。外の世界は危ないよ、気をつけなさいと、僕自身が僕の娘に対して思うのと同じことを伝えようとする。 だが、その愛する存在は、突然にして奪われてしまった。彼の中にあったものは、全部もぎとられてしまった。そうなった彼はもはや人間ではない。ひたすら原始的な怒りに燃えるだけだ」 その“原始的な怒り”を、スタローンは容赦なく描く。ヴァイオレンスを躊躇しなかった理由について、彼はこう語る。「ハリウッド流のフェイクな恐怖にしたくなかったからさ。本物の警察官が現場で遭遇することは、アクション映画で見るものより、ずっと、ずっと残酷。銃で顔を撃たれた同僚の顔を見たりするんだ。僕は戦いというものがどれほど恐ろしいのかを見せたかった。人がなぜそのトラウマを忘れられないのかを伝えたいんだよ。それが観客にとって辛すぎるかもしれないと認識はしている。でも、『ランボー』を見にくる人なら、覚悟しているのではないかな。たった一発の弾丸で人が死ぬようなシーンがよく映画に出てくるが、実際には9発は必要なんだよ。死ぬまいともがいている相手を殺すのは簡単じゃない。僕は戦争を戦争として描いたまで」  第1作「ランボー」の"失敗"  残酷描写のせいで毎回R指定を受けてきている本シリーズ。それに加え、もうひとつ一貫しているのは、毎回上映時間が100分程度と、現在のハリウッド映画の標準からすれば短いことだ。これもスタローンが意図的にやってきたという。なぜそうなったのかは、 第1作「ランボー(82)」 の“失敗”にさかのぼる。 「完成したばかりの1作目は、ひどかった。冗談で言っているんじゃないよ。作ったのは自分なのに、焼き捨てたかったほどなんだから。主人公が自分の国を攻撃する映画で、しかも長すぎた。それで 11社から配給を断られたんだ!だから、『思い切り削って、85分にしてみたらどうか』と思いついたというわけ(※編注:実際の『ランボー』は本篇93分)。 ランボーの話に、説明はそれほどいらない。すぐさま本題に入るほうがいいと」  それでもまだ、買い手は興味を示さなかったという。流れが変わったのは、最後の手段として、さらに短く、20分に編集したものを 海外のバイヤーらに見せたことだ。 「とにかく誰かに買ってほしくてね。それを編集したのは僕以外の誰かで、いったいどうまとまっているのか、自分でも知らなかった。 でも、その上映が終わった後、場内は大きな 拍手に沸いたんだ。一緒に見ていた僕も、『この映画はいける。成功する』と初めて感じた。 それが、『ランボー』シリーズの誕生物語さ。 これは、そのまま僕のキャリアの話とも言える。僕の人生ではたいていの場合、これはダ メと思ったものが成功し、これはすべてにおいてうまくいったと思うものは、失敗してきているんだよね」  そんな思い出深いシリーズの最終章を、スタローンは自分でメガホンをとっていない。 監督を務めたのは、メル・ギブソン主演のクライムアクション「キック・オーバー」(11)などで知られる新鋭エイドリアン・グランバーグだ。  「自分はあいにく別の作品で忙しくて、タイミングが悪かったんだ。でもエイドリアン・ グランバーグは前に手がけた作品からも、今作の監督にふさわしいと思った。実際、彼はすばらしかったよ。仕事熱心で、4作目と見比べても違和感のない映像を作り上げてくれ た。僕自身も、『ロッキー』の2作目で監督を引き継いだ経験がある。あの時は僕も1作目と似たスタイルにしようと気を配ったものさ。エイドリアンはそれをやりつつ、彼ならではのものに仕上げたと思う」  ロッキー・バルボアと並んで、ジョン・ランボーは、スタローンという俳優を語る時に絶対に欠かせないキャラクターだ。ロッキーはシリーズを終えた後も、彼以外の人間が立ち上げた「クリード」で、また演じることになっている。そんな彼は、ランボーの今後の可能性にも、考えを巡らせることがあるようだ。 「16歳か17歳だった頃のランボーは、どんな若者だったんだろうと、よく想像するんだよね。 彼はきっとスポーツチームのキャプテンで、人柄もよく、学年一の人気者だったのではないだろうか。完璧な青年が、ヴェトナム戦争のせいで変わるんだよ。その部分を語る前日譚を、いつか誰かが作ってくれないものかな」   そう聞いてもう動き出した人が、どこかにいるかもしれない。 取材・文=猿渡由紀    【「ランボー ラスト・ブラッド」への道 全5回】 ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道① シルヴェスター・スタローン主演・脚本インタビュー はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道② 名台詞とともに振り返る 「ランボー」シリーズのこれまで はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道③ キリスト受難劇としてのランボー はこちらから ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道④「西部劇」としてのランボー ・「ランボー ラスト・ブラッド」への道⑤アメリカの戦争とランボー   シルヴェスタ・スタローン Sylvester Stallone 1946年、アメリカ・ニューヨーク州生まれ。65年、スイスのアメリカン・カレッジで演劇に興味を持ち、帰国後、マイアミ大学演劇科に入学。中退後、ポルノ映画などに出演しながら役者を目指し、73年にハリウッドに移る。3日間で書いた脚本を自らの主演で映画化した76年の「ロッキー」が世界的に大ヒットし、アカデミー賞作品賞を受賞。トップスターの仲間入りを果たす。同作は82年の「ランボー」とともに、スタローン主演の人 気シリーズに。一時コメディや演技派に転向しようとして失敗したが、93年の「クリフハンガー」で復活。10年には「エクスペンダブルズ」を大ヒットさせるなど、いまなおアクション俳優のトップの座に君臨する。  映画「ランボー ラスト・ブラッド」 Rambo: Last Blood 2019年・アメリカ・1時間41分 監督:エイドリアン・グランバーグ 脚本:マシュー・シラルニック、シルヴェスター・スタローン 撮影:ブレンダン・ガルヴィン 音楽:ブライアン・タイラ ー 出演:シルヴェスター・スタローン 、パス・ヴェガ、セルヒオ・ペリス=メンチェータ、アドリアナ・バラーサ、イヴェット・モンレアル、オスカル・ハエナダ 配給:ギャガ ◎6月26日(金)よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国にて ©2019 RAMBO V PRODUCTIONS, INC.
  • 創刊100年を迎えた映画雑誌キネマ旬報では、7月上旬号(6月19日発売)にて、創刊100年特別企画として、2000年代(2000~2009年)の外国映画ベスト・テンを発表。ポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』が、見事、ベスト・ワンに輝いた! 昨年、韓国映画として史上初となるカンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)に輝き、第92回アカデミー賞では作品賞含む最多4部門(作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞)を受賞した『パラサイト 半地下の家族』で一躍、日本中にその名を知らしめたポン・ジュノ監督だが、今から15年以上も前に、すでにその時代を代表する作品を残していたことに、改めて気づかされる結果となった。 しかし、当時はまだ日本の興行界において、韓国映画を大々的に公開する時代ではなかった。そんな中、当時、この『殺人の追憶』を見出し、買付け、配給まで手掛けた李鳳宇氏(リ・ボンウ)から、当時のエピソードをうかがうことができたので、皆様にお届けしたい。 左から、ポン・ジュノ監督と李鳳宇(リ・ボンウ)氏 「ポン・ジュノの追憶」 2000年代に公開された外国映画の中で『殺人の追憶』がベスト・ワンだったと聞き嬉しく思います。 あの頃のポン・ジュノは新進気鋭の若手監督でしたが、シナリオ作りに於ける丹念な下調べや、細かい美術セットへの拘りなど、様々な分野の徹底ぶりを話し出すと止まらない典型的な映画オタクといった印象でした。 映画会社サイダス代表のチャ・スンジェ氏が特段に期待を寄せていて、これからの韓国映画界を牽引していくだろうと予言していました。 ソウルの試写室で『殺人の追憶』を初めて観た時の衝撃は大きく、後に阪本順治監督が評したように「黒澤明の遺伝子が韓国にあった」という表現が言い得て妙でした。 傑作『パラサイト 半地下の家族』に通じる、「ミックスジャンル映画」の傾向は、この作品からすでに顕著でした。最後まで犯人が逮捕されないという不完全燃焼の刑事ドラマでありながら、犯人を知った爽快感よりもっと深くて重い歴史の真実を知る不条理劇でした。コメディー、ノワール、アクション、そして社会的メッセージと、どの表現をとっても一級品の出来に驚いたことを憶えています。 『シュリ』、『JSA』と立て続けてヒットし、韓国映画の評価はすでに定着しつつありましたが、『殺人の追憶』は業界のうるさ方を完全に黙らせる楔を打ってくれた決定的な映画です。 その後、2009年に私がナビゲーターを務めたNHKの番組「知る楽 歴史は眠らない〜韓流シネマ 抵抗の軌跡」で、ポン・ジュノ監督に再会した時、彼は『母なる証明』の編集の最中でした。指定された編集室を訪ねたのは午前中でしたが、笑顔で迎えてくれた彼以外、編集室にいるスタッフは全員倒れるようにあちこちで寝ていました。徹夜明けにも拘わらず、ハイな状態で喋る彼を眺めながら、私は傑作を生み出す瞬間の自信に似た何かを感じました。それはとても幸せな時間でした。 『パラサイト 半地下の家族』の大大成功のお陰で、アメリカやヨーロッパ各国で『殺人の追憶』の再上映が相次いでいると聞き、当然の流れだと頷けます。 本当に価値ある映画は古びない、時代と共に輝きを増すのだと改めて知らされました。ソン・ガンホも喜んでくれるでしょう。そして岩代太郎さんにも、おめでとうと言いたいです。もちろん配給宣伝や営業に尽力した優秀なシネカノンのスタッフにもお礼を言いたいです。 皆さんは歴史を創ったのです。                             2020/06/17 李鳳宇   李鳳宇(リ・ボンウ) 1960年、京都府出身。1989年に株式会社シネカノンを設立し、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『アマチュア』(1990年)を皮切りに、ケン・ローチ監督作品、エドワード・ヤン監督作品など、アジア・ヨーロッパ映画の輸入配給を手掛ける。2000年代には、『シュリ』『JSA』『殺人の追憶』などを大ヒットさせ、韓国映画ブームに火つけた。また一方、1993年に初めてプロデュースした『月はどっちに出ている』(崔洋一監督)でキネマ旬報ベスト・テン第1位を記録、その後、2005年に『パッチギ!』(井筒和幸監督)、2006年に『フラガール』(李相日監督)を発表し、日本国内外で数々の映画賞を受賞した。 映画「殺人の追憶」 2003年・韓国・130分 監督:ポン・ジュノ 脚本:ポン・ジュノ/シム・ソンボ 出演:ソン・ガンホ/キム・サンギョン/パク・ヘイル ●4Kニューマスター版 Blu-ray 4000円+税 DVD 3200円+税 7月22日(水)発売 発売・販売/TCエンタテインメント (C)2003 CJ E&M CORPORATION, ALL RIGHTS RESERVED 「キネマ旬報」2020年7月上旬特別号 2000年代(00年代)外国映画ベスト・テン No.1841 2020年6月19(金)発売 ●巻頭特集 創刊100年特別企画シリーズ 00年代(2000年~2009年) 外国映画ベスト・テン ベスト・テン発表/選評/00年代コラム キーワードでふりかえる00年代 ●特集 「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」 「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」 「東京の恋人」 ●追悼特集 ミシェル・ピコリ