「ランボー ラスト・ブラッド」への道④「西部劇」としてのランボー

6月26日(金)より公開されるシルヴェスター・スタローン主演最新作「ランボー ラスト・ブラッド」の連続企画。第4回は、ランボーの世界を掘り下げるエッセイその2をお届け。
※第3回の記事はこちらから。

新作「ラスト・ブラッド」では馬に跨り、あまつさえカウボーイハットすら被ってみせるランボー。だが、それは決して驚くべきことではない。なぜなら、ランボーはもともと「西部劇」だったのだ!

シリーズの基盤、西部劇の記憶

シルヴェスター・スタローンは、「ランボー」シリーズの前作となる「最後の戦場」公開時の記者会見で、さらなる続篇への意欲を見せ、「西部劇として作りたい」と述べていた。今回出来上がった最新作「ラスト・ブラッド」を見ると、主人公ランボー が農場で野生の馬を馴らす仕事をしているという設定だけでなく、拉致された知人を救いにゆくという展開、かつメキシコが舞台と、なるほど西部劇というのも納得できる仕上がりになっている。と同時に、さかのぼってそれ以前のシリーズ作もまた根本的には西部劇ではなかったのか、と思えてくる。この新作は、「ランボー」シリーズがその底流に潜在させていた西部劇を照射してくれるのだ。 

第1作「ランボー」は、ヴェトナム戦争の英雄が、 母国の田舎町でよそ者を敵視する保安官にいわれなき迫害を受け、逆襲、彼らに壊滅的な被害を与えるという内容だ。ヴェトナム帰還兵が、正義なき戦いで心の傷を負ったうえ、帰還してみれば自分たちの戦争が汚辱にまみれたものと規定されるという二重の苦しみを味わわなければならなかった不条理を、直接的ではなく象徴的に、それゆえ普遍的な形に昇華して描いた秀作(マーティン・スコ セッシ「タクシードライバー」、マイケル・チミノ「ディア・ハンター」など)は既に70年代に撮られており、遅れてきた「ランボー」は、これらの秀作と比較されてかえって損をしていた可能性がある。 ヴェトナムものという枠組みを外して見れば、西部劇に直につながる紐帯も見えやすくなってくる。 

「流血の谷」と「モヒカン族の最後」

実は「ランボー」には、これがリメイク元では ないかと思われる西部劇がある。アンソニー・マンの「流血の谷」(50)だ。白人とインディアンの混血である主人公(ロバート・テイラー)が南北戦争に従軍、勲功を挙げて故郷に帰るが、人種差別的な住人によって迫害され、土地も奪われ、裁判まで起こすが白人側の勝利に終わり、ついに立ち上がる、というもの。主人公が戦争の大義を信じ、そのために戦ってきたという点だけは違っているものの、話はほとんど同じ、しかもランボーは、第2作「怒りの脱出」で明かされるところによるとインディアンとドイツ人の混血であり、「流血の谷」の主人公と出自も似ている。

白人の血が混じったインディアンといえば「モヒカン族の最後」という何度も映画化された有名 作があり、直近ではマイケル・マン監督「ラス
ト・オブ・モヒカン」(92)としてリメイクされているが、ダニエル・デイ=ルイスが長髪をなびかせ、弓矢を引く姿が印象に残る。この造形は弓矢を武器として好んで使用する第2作以降のランボーに極めて似ており、ランボーの西部劇への逆輸入を思わせる。これはランボーが西部劇的な土壌に親近性があることのひとつの証しになりはしないか。ランボーは、西部劇におけるインディアン、白人に迫害されて反逆するインディアンの系譜につながる存在なのだ。 

ジョン・フォードの記憶

2作以降、第3作「怒りのアフガン」、第4作「最後の戦場」、そして最新作に至るまで、基本的には拉致された存在をランボーが奪還にゆくというストーリー形式をとる。 西部劇には、インディアンに囚われた捕虜の救助作戦を描く作品群があり、最も有名なものとしてはジョン・フォード「捜索者」(56) 、「馬上の二人」(61)が挙げられよう。ただし、これらの作品では必ずしも助けることが正義とばかりも言えない倫理的暗さがまといついている。「ランボー」シリーズ第2作以降にそうした暗さは見当たらないが、拉致された者の救出という枠組みは、西部劇の型を踏襲していると見てよいだろう。 

また第2作でランボーは自分たちをヴェトナムでは使い捨ての兵士=消耗品に過ぎなかったと述べているが、これはやはりジョン・フォードの「コレヒドール戦記」、( 原題 「彼らは消耗品だった」)を思わせる。さらに「最後の戦場」でランボーは、正義感の強い女性にいわばほだされて 彼女の仲間を救いにゆくが、その結構はヘン リー・ハサウェイ「勇気ある追跡」(69)とコーエ ン兄弟によるそのリメイク「トゥルー・グリッ ト」(10)を連想させる。「勇気ある追跡」はフォードの常連俳優ジョン・ウェインの晩年の代表作だ。偉大な「西部劇作家」ジョン・フォードは、アメリカにおいて西部劇なるものの紋切り型として受け取られているきらいがあるが、それだけに観客の無意識にまで浸透しているともいえる。フォードの記憶は「ランボー」シリーズにも流れ込んでいる。 

「許されざる者」 

さて 、 最新作「ラスト・ブラッド」ではランボーはメキシコの人身売買組織に捕らわれた友人の娘を救いに行く。前作のラストで故郷アリゾナの、父が営む農場に帰った彼だが、その父もすでに墓に入っている。ランボー自身の顔にも風雨や年月に晒されて深い皺が刻まれている。実際、彼はもはや昔のような超人ではない。本作ではランボーが組織の連中に人事不省になるまで痛めつけられる場面があるが、こんなランボーは今まで見たことがない。ランボーも老いたのだ。

老いた存在が主人公の西部劇と言えば「許されざる者」(92)を思い起こさないわけにはいくまい。 本作のこれまで述べてきた特徴は実はすべて「許されざる者」に存在する。大木の根元、残照に陰る墓。最後の一仕事に出る老体。痛めつけられ、 死の間際までいった主人公の逆襲。「許されざる者」が、老いのアクションの基準となったことは 十分考えうることだ。

西部劇はアメリカ映画にとっての無意識である。 銃による正義の行使を描こうとする時、アメリカ映画であれば、それは必ず西部劇という土壌を通過しないわけにはいかない。ここに挙げた西部劇を「ランボー」シリーズが参照したとまでは言えないにしても、作る側も見る側も、無意識に蓄えられた西部劇の記憶をまさぐりながら作り、見ているのである。現在という時点に露呈する映画作品が、いかに過去との交渉の中に生きているか、その一つの証左がここにある。 

「ランボー ラスト・ブラッド」への道 全5回
「ランボー ラスト・ブラッド」への道① シルヴェスター・スタローン主演・脚本インタビュー はこちらから

・「ランボー ラスト・ブラッド」への道② 名台詞とともに振り返る 「ランボー」シリーズのこれまで はこちらから

「ランボー ラスト・ブラッド」への道③ キリスト受難劇としてのランボー はこちらから

「ランボー ラスト・ブラッド」への道④「西部劇」としてのランボー はこちらから

「ランボー ラスト・ブラッド」への道⑤アメリカの戦争とランボー はこちらから

文・吉田広明 よしだ・ひろあき
映画文筆。著書に『B級ノワール論 ハリウッド転換期の巨匠 たち』『亡命者たちのハリウッド 歴史と映画史の結節点』がある。

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