解説
世界ミドル級チャンピオンの栄誉に輝き“ブロンクスの猛牛”と呼ばれた男ジェイク・ラモッタの数奇な人生の浮き沈みを彼の自伝を基に描く。製作はアーウィン・ウィンクラーとロバート・チャートフ、監督は「ミーン・ストリート」のマーティン・スコセッシ。ジェイク・ラモッタの自伝を基に「アメリカン・ジゴロ」の監督・脚本のポール・シュレイダーとマルディク・マーティンが脚色。撮影はマイケル・チャップマン、音楽録音はレス・ラザロビッツ、編集はセルマ・シューメーカー、製作デザインはジーン・ルドルフ、ボクシシグ技術顧問はアル・シルバーニが各々担当。出演はロバート・デ・ニーロ、キャシー・モリアーティ、ジョー・ペシ、・フランク・ビンセント、ニコラス・コラサンド、テレオ・サルダナ、フランク・アドニス、マリオ・ギャロなど。
映画館で観る
配信で観る
TVで観る
「レイジング・ブル」のストーリー
1964年、ニューヨーク、バルビゾン・プラザ・シアターの楽屋で、1人、映画「波止場」のシナリオの一節をくり返すジェイク・ラモッタ(ロバート・デ・ニーロ)の姿があった。彼はかつて「怒れる牡牛」と呼ばれた世界ミドル級チャンピオンに輝いた男だ。--1941年、クリーブランド。弟ジョーイ(ジョー・ペシ)がセコンドを務める黒人のミドル級ボクサーとの闘いで、相手を叩きのめしたにも拘らず判定負けをするジェイク。翌日昼間からやけ酒を飲み、彼は妻に八ツ当りをする。そして、ブロンドの美女ビッキー(キャシー・モリアーティ)との出会い。やがて2人は愛し合うようになり結婚する。1943年、デトロイトでシュガーをKOするが、同年に行なわれた彼との対戦で今度は判定負けをした。彼ら兄弟には、逃れられない敵がいたのだ。それは八百長試合を強いる組識だ。やがてその大物トニー・コモ(ニコラス・コラサント)の誘惑に負けた2人は1947年、遂にマジソン・スクエア・ガーデンでの八百長試合を承諾した。しかし1949年、デトロイトで、ジェイクはフランスの英雄に挑戦するチャンスを得る。この世界タイトル・マッチで、ジェイクは見事チャンピオンに輝いた。しかし、そのころから彼には、ジョーイとビッキーに対する強い嫉妬心が根ざし出し、心は沈んでいった。1950年、辛くも防衛を果した彼は1951年、シュガーとの6度目の試合でKO負けし、1954年遂にリングを去りナイトクラブ経営をフロリダで始めた。そんな彼からジョーイもビッキーも去り、1956年には未成年者をホステスに使った罪で独房に入れられた。そして1964年のこのバルビゾン・ブラザーシアターの楽屋には、無残に肥えた肉体のジェイクの、しかし過去の栄光を決して忘れたことのない男の姿があるのだった。
「レイジング・ブル」のスタッフ・キャスト
スタッフ |
---|
キャスト | 役名 |
---|

「レイジング・ブル」のスペック
関連するキネマ旬報の記事
関連記事一覧 | |
---|---|
2023年7月上・下旬合併号 | 1981年、みんなここから始まった 1981年の話題作 「レイジング・ブル」 |
臨時増刊2月21日号 KINEJUN next vol.01 | 特集 拳闘×映画 ボクシング映画の魅力 「レイジング・ブル」「ALI アリ」 |
1981年3月上旬号 |
グラビア レイジング・ブル 特集 「レイジング・ブル」 1 インタビュー・作品研究 特集 「レイジング・ブル」 2 デ・ニーロの魅力を語る 特集 「レイジング・ブル」 3 最近、マーチン・スコセッシと話し合ったこと 特集 「レイジング・ブル」 4 「レイジング・ブル」のイタリア 特集 「レイジング・ブル」 分析採録 |
1981年4月上旬号 |
外国映画批評 レイジング・ブル 外国映画紹介 レイジング・ブル |